2-5 黒変
ぐっと腰を引いた赤熊に、レンドールはわずかに遅れた。まずいと思う気持ちから、身体だけ先に赤熊とアロの間に滑り込ませる。突進されていたら対処できなかったことだろう。
赤熊は、そのまま数歩後退った。
何故を考える暇はなかった。引かれた分だけ走り寄り、下から顎を目掛けて斬り上げる。のけ反って露わになった腹に今度は剣を振り下ろす。
後は難しくなかった。キッチリとどめを刺してアロを振り返る。
アロはのんきにパチパチと拍手していた。
「あぶねーだろ!」
「ええ? ちゃんと倒せたじゃないですか」
「もっと離れてるかと思ったんだよ。そっちに向かわれたらどうしようもねぇ!」
アロはキョトンとして、それから少しだけ笑った。
「ああ……それで間に入ってくれたんですか? 初めに言ったでしょ。僕のことはお構いなく。レンも知らないからと言ってたじゃないですか」
「だからって目の前で怪我でもされたら気分よくねーだろ」
「見張りはいなくなった方がやりやすいでしょうに」
「そうだけど、そうじゃないっつーか! ああ! もう! とにかく、次からは離れるか隠れるかしててくれ!」
「善処します」
にこにこと緊張感のない顔に毒気を抜かれる。
マジで次は知らねーからな、と舌打ちをしながら、レンドールは赤熊を調べ始めた。アロもやってくる。
瞳孔が開ききった瞳は黒。少し瞼を押し開いてみても、白目が見当たらない。体をひっくり返して検分すれば、右後ろ足の先が脛の辺りまで黒く変色していた。
「黒化してる……山を下りる前で良かった」
「
「どうかな。こっちを通るやつ、多くないだろ。町まで行って、報告しないとな」
動植物の一部が黒く変色することがある。「
赤熊のそばに屈みこんだまま、アロはレンドールを見上げた。
「なんだよ」
「報告すると、処理班の『
「……まあな」
基本的に、倒した者が『司』に引き継ぐことになっている。迅速に動いてはくれるのだが、半日から一日くらい拘束されることもあるのだ。
「仕方ねーだろ。あんたんとこの決まりじゃねーか」
「……そうなんですが……」
アロは一度赤熊に視線を戻し、もう一度レンドールを横目で見上げる。小さく口角が上がった。
「ティサハ村のレンドール『これから見ることは他言無用です』」
名を呼ばれたとたん、喉を誰かに押さえつけられたような圧迫感が襲った。
アロはどこからかガラスの小瓶をひとつ取り出し、指で何か書きつけるような仕草をした。それから、赤熊の黒化した足の上、中空にやはり指で丸と文字を描いていく。アロの指がなぞった場所が、淡く白く輝いていた。
描かれた文様から光の粒が砂時計の砂のように落ちていき、赤熊の黒くなった部分に吸い込まれていく。しばらくすると、今度は足の部分から文様に向かって黒い粒が昇って行った。黒い粒は文様の先には出てこないが、代わりにアロの持った蓋をしたままのビンの中に少しずつ溜まっているようだった。
黒い粒が昇らなくなり、白い文様が消え、アロが瓶を振って中の黒いものが揺れるのまで、レンドールは呆気にとられて見ていた。
黒かった赤熊の足は他の場所と変わらない赤茶の毛におおわれ、真っ黒な瞳は元の愛嬌ある茶の瞳に戻っていた。
「今……今、の」
喉の圧迫感は無くなったけれど、今見たことを口に出そうとすると、どこかがつかえる。
「処理班の『司』がすることです。言えないと思いますが、言おうとしないでくださいね」
口の前に指を一本立てて、アロはにぃと笑った。
「これで報告しなくてもいいでしょう。明日には出発できますよね?」
黒い液体のように見えるそれをしまって、アロは弾むような足取りで先を行く。
「それ、どうするんだ」
「後で処理しますよ? もちろん」
何故『司』に引き継がなければならないのか。レンドールは今まで考えたこともなかった。
「アロ、生きているうちにはできないのか」
アロは立ち止まって肩越しに振り返った。
「危険ですから。それに、たぶん、どちらにしても死んでしまう気がします」
そうか、と吐息のような返事を返して、レンドールは赤熊の死体を振り返った。
すぐに気を取り直してアロの後を追う。
「植物の黒変はそのままでいいのか?」
「大木一本まるまるとかいうならやるんですけど、だいたい微量なので。自然の浄化作用に任せてます」
野菜などで一部が黒化したものは、川に廃棄される。清流にさらされているうちに毒が抜けていくとは言われていた。気づかず真っ黒になってしまった物は焼却処分だ。埋めてしまうと毒成分が土に溜まり、他の作物に悪影響が出る。
レンドールの村では、畑の脇に避けてある黒変した作物を川に投げ入れるのは子供の
レンドールはふと、エラリオが黒化した部分を切り落として口にしていたのを思い出す。慌てて止めたけれど、彼は大丈夫だと余裕の顔だった。真似しろとは言わないが、覚えておけと、どの程度の黒変なら大丈夫かを教えてくれもした。
大人には言うなと悪戯っぽく笑った顔が、やけに大人に見えたものだ。それで、レンドールは外の世界に少しだけ興味を持ったのだけれど。
彼は他の人の前でそういうことをすることはなかった。いつもするわけでもなかった。
時々思い出したように――あるいは、忘れないように? 畑の隅で野菜や果物を拾っていた。
レンドールがエラリオのことを自分しか追えないと思うのは、そういうところを知っているからだ。エラリオは極限の中、生き抜く術を身に着けている。
アロのように強制的な口止めなどされなくても、誰にも言うつもりはなかった。他人に伝えてしまえば、親友を失うかもしれないと……子供心にも感じていた。
「……レン? 何か不都合でも?」
黙り込んで難しい顔をしていたレンドールを振り返って、アロが不思議そうに聞く。
「いや……ガキの頃、川に捨てに行ったなって思い出して」
「そういうところは多いようですね。植物は噛みつきませんから。多く出る土地だったんですか?」
「いや。日に二つ三つ」
「いい土だったのですね」
「ああ、たぶん。ただ、だからってサボると溜まって、面倒なことに」
「あなたらしいですねぇ」
笑う背中にレンドールはエラリオを重ねてみる。
そんな時、彼は何と言っただろうか。
(ああ、そうだ)
『明日、倍の量抱えていく覚悟があるのなら、サボってもいいんじゃない』だ。
それから時々覚悟を決めてサボったなと思い出して、レンドールの口元がにやけた。
アロはそんなことで覚悟なんか決めないんだろうなと思って。
二人が町へ帰り着いたのは、すっかり日も暮れてからだった。
お腹だけ満たして休んでしまい、次の日の早朝、北へと旅立つのだった。
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