2-2 想定外

 ふわふわと宙に張った布の上に乗せられ、大きな円を描くように揺らされているような、気持ちの悪いめまい。

 二日酔いではない。そこまで飲まなかったし、出発準備中も問題なかった。

 アロ、と呼びかけようとするも、声より先に喉をせり上がるものがある。レンドールは気力だけで視線を上げて、目に入った植え込みまで這って行って、その陰に昨夜食べたものを吐き出した。


(どこだ?)


 冷や汗が首筋を伝う。

 一瞬楽になった気分は、すぐにめまいの気持ち悪さに塗りつぶされていく。


「あれ。距離が長すぎたかな」


 のんきとも言えるアロの声に舌打ちで苛立ちをアピールする。

 ドアからドアへ、レンドールが何度も目にしたその能力は、せいぜい王都内が有効範囲ではないかと思っていた。時々帰るというのも、つまりそういうことなら、確かに見張りにはうってつけかもしれない。

 もう一度胃の中のものを吐き出して、レンドールは土の上に横になった。体を起こしているよりは幾分楽で、ひと眠りすればどうにかなりそうな気がした。


「ちょいとちょいと! 飲みすぎかい? 若いからって無茶な飲み方するんじゃないよ!」


 夜も明けきらない早朝だというのにエネルギッシュな声がして、レンドールを黙って見守っていたアロは少しだけ驚いた。


「あ、ご迷惑でしたか? すみません。今さっきまで元気だったんですけど……どこか、休めるような場所、ありませんかね」

「なんだい? 宿も取ってないのかい?」


 のしのしと近づいてきたのは体格のいい女性で、手には木の皮で編まれた盆ざるを抱えていた。レンドールの顔を覗き込むと眉を顰める。


「酒臭くはないね。食あたりかも。ちょいと待ってな」


 女性はざるをアロに押し付けると、取って返していった。すぐに戻ってきて、レンドールの頭を抱え上げ、口に何かを放り込む。


「ちと苦いが、我慢して飲み込みな」


 それはちょっとどころの苦みではなかった。

 めまいも吐き気も飛んでいくような強烈な渋みと苦みに、レンドールは跳ね起きる。女性は笑って、でも容赦なくレンドールの口を押さえつけると、コップの水を差し出した。

 涙目で一気に喉の奥に流し込んでも、まだ口の中が苦い。


「助かりました。こんな早朝にどちらへ?」

「畑だよ。あんたは中央の人だろ? 護国士と一緒なんて珍しいね」

「ええ。『魔物』の関係で少し」

「ああ……ちょっと前に噂になってたね」


 吐き気は少し治まったものの、まだ世界は回っていて、レンドールは口を挟む気力もないまま、もう一度横になろうとした。


「おっと。休める場所、だったね。ちょっと先に礼拝堂があるから、そこをお借りよ。畑から戻る時に覗いてみるけど、良くなってたらご飯を食べにおいで。そこで食堂をやってるから」


 指差された方を確認して、アロは頷いた。


「ありがとうございます」


 女性からレンドールを受け取って、アロはその腕を肩に回す。非力そうに見えたのか、女性は心配そうに様子を見ていたけれど、しっかり支えられていることがわかると、そのまま行ってしまった。




 そこから百メートほど先にこぢんまりとした石造りの建物があった。入口に白い石で彫られた女性の顔のレリーフが掲げてある。ドアに鍵はなく、中にはいくつかのベンチと、ローブを着た女性の像が立っていた。像の前には果物や野菜が置かれ、花が飾られている。

 アロはベンチの一つにレンドールを下ろして、像の前に歩いて行った。


「面白いですよね。『白の巫女』には何の力もない。神の言葉を受け取るだけ。なのに、彼女に祈る人がいる」


 護国司を目指し、護国司になれなかった者は、私財をなげうってまで護国司の仕事や生活を支える下位組織に入信する者も多い。そうでなくとも信心深いのが大半だ。王や政治に関わる者とてそうだ。そして彼らは会ったこともない神よりも、姿の見える巫女により心を寄せる。

 それは、巫女に近く、多くの力を分けてもらったラーロには解り得ない感覚だろうか。


(……なんて、正直、俺にもわからないんだけどな)


 聞こえてきたアロの独り言に全く違う方向から同意して、レンドールはしばしまどろみに身を委ねていた。

 次に意識がはっきりした時には、陽の光が色ガラスを通して壁に綺麗な模様を描いていた。隣のベンチでアロがつまらなそうに足をぶらつかせている。

 吐き気はすっかり治まっていたので、レンドールはのっそりと起き上がってみた。頭を動かすとまだ少しふらつくものの、動くこと自体は問題なさそうだった。


「……どこまで来たって?」

「……エスタ」


 目的地まで一気に。まだ一日かかるはずの道のりだった。


「王都では具合悪くなることなんてなかったけど、なんかちげーの?」


 アロは肩をすくめた。


「たぶん、距離がありすぎて、ねじれた空間に酔ったんじゃないかな」

「何言ってるかわかんねー」

「獣車だって長く乗ってると酔うことがあるでしょ。そんな感じ」


 一瞬なのに。

 口には出さなかったのに、アロは呆れたように瞼を半分閉じた。


「時間と距離が合わないから、変調をきたすの!」

「わかってんなら、巻き込まないでほしいんだが?」

「わからなかったんだから仕方ないでしょ」


 アロは拗ねたように横を向く。勝手に具合を悪くしたレンドールが悪いとでも言いたげだ。


「なんでそっちが不機嫌なんだよ? 怒りたいのはこっちだぞ」

「……怒ってるんですか? 予定より早く着いたじゃないですか」

「まだ少し確認したいことがあったんだよ。せめてひとこと言ってくれ。『ツカサ』を同じように連れ歩いてんのかもしんねーけど、自分より偉い奴に具合悪いって言えないだけかもしれねーぞ?」

「連れ歩いたりはしてないですが……もう体調は大丈夫なんですか?」

「まだ走ったら転びそうだが、薬のおかげか吐き気は無くなった。礼も兼ねて、噂とやらを聞きに行くぞ」


 ゆっくりと立ち上がれば、アロは目を見開いてレンドールを見上げてきた。


「よくあの状態で話を聞いてましたね?」

「は? 逃亡から何日経ってると思ってんだ。追いつくにゃあ些細なことも拾わないと」


 二、三歩踏み出して、よろけたレンドールの肘をアロはすばやく支えに来た。


「怒らないのです?」

「エスタに着いたなら、やることは山ほどある。そんなことに割く時間もエネルギーももったいねぇ。ぎゃんぎゃん言ったって、時間は戻らねーだろ」


 やんわりアロの手を外して、レンドールは外に出た。ゆっくりと見渡せば、畑の奥から歩いてくる女性がいる。女性はレンドールに気が付くと、山盛りの野菜を抱え直して手を振った。

 レンドールは女性に近づいて行って、野菜の山に手を差し出す。


「薬、効いたみたいだ。ありがとう。朝飯食わしてくれるって? 持つよ」

「まだ顔色悪いよ。大丈夫かい?」

「頭はまだふらふらするけど、ゆっくりなら大丈夫だ。それよりあの薬何? ひでえ味だった」

「男どもに二度と深酒させないための薬さ。胃薬だから害はないよ。安心しな」


 転がり落ちそうな大玉のキャンベを後ろから来たアロに押し付けて、ざるごと野菜の山を受け取る。女性は気遣わし気な視線をレンドールに向けながら、彼の隣に足並みを揃えた。


「酒場の前で倒れてるから、てっきり。食あたりでもないのかい?」

「ああ……まあ、ちょっと。飯は食えそうだから、大丈夫だ」


 ちらりと視線を流したレンドールに、アロは小さく肩をすくめてみせただけだった。

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