星空を吸う。

雨蕗空何(あまぶき・くうか)

星空を吸う。

 竹箒のような先生の細い手が、慣れた手つきで星空に伸ばされた。

 砂粒をかき集めるように、両手を内側に払って、空をなでる。

 それで空に満ちた星たちは、先生の手の中に集まって、先生はその星を紙で巻いて、火をつけてくわえて、吸った。


 屋上。

 見える景色は山ばかりで、星明かりがほとんど唯一の視界の助けだった。それも先生が集めてしまっているから、今の明かりは先生のくわえている紙巻きだけだった。


 ふぅーと、先生は煙を吐いた。

 横に並んで、俺はその横顔を見た。


 年老いた女性。やせている。俺より頭ひとつ小さい。小柄。紙巻きの火と、星を含んでわずかに光る紫煙とに照らされて、顔と手元だけがくっきり見える。目が引きつけられる。


 なんとなく、黙ってじっと見ている状況に間が持たなくなって、声をかけた。


「うまいですか」


「そうですねぇ。おいしくは、ないですねぇ」


 先生は微笑して、右手の指で紙巻きをもてあそんだ。


「けれど習慣ですから、おいしいとは思わなくても、吸ってしまうものなんですよ」


「そういうものですか」


「そういうものです。あなたが私の隣にいるのと、同じことですよ」


「そんなことは……」


 先生はくすくすと笑って、また紙巻きをくわえて、星を吸って、吐いた。


 薄く光る煙が、真っ暗な空に登っていく。

 煙は空に溶けて、また星に戻って、夜空は少しずつ明るさを取り戻していく。


 俺はそれを、しばらくながめていた。

 そうしてぽつりと、つぶやいた。


「俺も、星を吸えるようになりたいです」


「あらあら」


 先生は笑って、俺に顔を向けてきた。


「体にいいものじゃありませんよ」


「でも先生、ずっと続けてるじゃないですか」


「私はもう、あまり関係ないですからねぇ」


 軽い言い方で先生は言うけれど、そういうことを言うのはやめてほしい。泣きたくなる。


 下を向いていると涙がこぼれそうな気がしたので、先生から目をそらして、空に目を向けた。

 紙巻きの煙がくゆらされて、あるいは先生に吸われて吐き出されて、空に帰っていく。帰って、星に戻って、星空は元の形を取り戻していく。

 何度も先生に吸われたことなど意にも介さないように、元通りに。


 隣でまた先生が、星を吸って、吐いて、それから言った。


「けれどまぁ、気持ちは分からないこともないです。こうやって吸っているところをずっと見ていると、あこがれる気持ちもありますよね」


「あこがれ……だけじゃないです」


 先生がこちらに目を向けてきた。

 俺はそちらには目を合わせずに、空を見上げながら、言った。


「星って、死んだ人がなるって言うじゃないですか。死んだら星になるって」


 先生のあいづちを横目に感じながら、少し恥ずかしく思いながらも、伝えた。


「だったら、星を吸えたら、先生が死んだ後、星になった先生を吸って、先生を体の中で感じることができるんじゃないかって、そう思うんです」


 言ってから、恥ずかしさがこみ上げてきて、縮こまってうつむいた。

 先生は何も言ってこない。何の物音もしない。

 沈黙にいたたまれなくなって先生に目を向けると、先生はこちらを向いて、少し目を丸くしていた。

 手に持った紙巻きからまっすぐ煙を立ち登らせて、そうしていて、すっと目を細めた。


「その発想は、今までなかったですが」


 先生は顔を空に向けて、紙巻きを深く、味わうように吸い込んで、そして煙を夜空に向けて細く吹き上げて、しみじみと言った。


「そう考えてみると、この星々の味わいは、今まで縁のあった方々との思い出の深さのように感じられて、感慨深いですね」


 にこりと、先生は笑う。夜空に向けて。

 その表情のやわらかさに心がもやもやとして、つい口をついて変なことを言ってしまう。


「俺が今から死んで星になったら、先生は俺を味わってくれますか」


「五十年早いですね」


「なら、五十年後に」


「老体に無茶を言う子です」


 くすくすと、先生は笑う。いつも通りに。

 それから紙巻きをまた吸って、吐いて、微笑んで言った。


「けれど、そうですね。楽しみが増えました。

 あなたが星を吸えるようになるまでは、長生きして見届けたいと思えました」


「もっと生きてください」


「生意気を言いますね。すぐにでも吸えるつもりでいるんでしょうか」


 先生は笑う。今度は少し、いたずらっぽく。

 そうして紙巻きを深く、深く吸って、空に煙の塊を吐き出して、ちびこくなった紙巻きを携帯灰皿にしまった。


 中に戻りましょう、そう言って歩き出す先生の背中を見て、俺も後に続いた。

 歩きながら、ふと振り返って、空を見上げた。


 夜空は元通りになっているけれど、星の位置や数を覚えているわけではないから、もし減っていても気づかない。

 そしてきっと、増えたとしても気づけない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

星空を吸う。 雨蕗空何(あまぶき・くうか) @k_icker

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ