天使の化石

尾八原ジュージ

天使の化石

 私が見たときそれはもう掌にのるくらいの白っぽい塊になっていて、何がなんだかわからないけれど学芸員によれば「天使の化石」なのだという。元はもっと大きくて、ちゃんと翼の生えた人間のような、大変美しい形をしていたのだそうだけど、

「弱い人間たちの手によってこのような姿になったのです」

 と、学芸員は憤るのだった。


 そもそもここがどこかすら定かではなかった。外国の田舎町で電車を一本乗り逃して街に戻れなくなり、とぼとぼと歩いていたら、思いがけず格式のある建物に行きあたった。

「ここは博物館でございます」

 影みたいな男が近づいてきてそう言った。スーツのジャケットから出ている両手に、見たことのない入れ墨が彫られていた。それが何かとても意味ありげで面白いものに見えて、気が付いたら私は博物館に足を踏み入れていた。ほかに客はおらず、博物館は貸切状態だった。

 男は学芸員だといい、聞き取りやすいが不思議なアクセントの英語を話し、それがどのあたりのものなのか私にはわかりかねた。見たことがないほど巨大な鹿の剥製やらこの辺りで採れるという紫色の鉱石やら博物館の精密な模型やら、あれこれの奇妙なものを案内してくれ、最後に出てきたのがこの天使の化石である。

「つまり大昔に死んだ天使が地中で長い時間をかけて化石となり、こうして人間の手に触れても危険のないものとなったのです」

 学芸員は白い手袋をはめた掌に化石を置き、「ご覧ください」と言って私の眼前に差し出した。

 ご覧くださいもなにも、ただの白い石みたいなものではないか――とはいえ学芸員がこうも熱心に「ご覧ください」と差し出すのであれば無視しがたいものがあり、私は目の前の小さな白いものに視線を注いだ。よくよく見れば白い表面のところどころにきらきらと輝くものがあり、その成分が何かはわからないが綺麗なものだと思った。これは天使の化石のどの部分なのだろう? 清らかで愛らしい顔か、プラチナブロンドの髪が生えていた頭か、土の中でひっそりと抱えられていた華奢な脛か、大きな翼の付け根の部分か、いっそ頭の上に浮かぶ輪の一部かもしれない――白いものを見ているうちに、どうやら私にも在りし日の天使の姿が見えてきた。天使は死んで、古代の土の中で眠った。膝を抱え、睫毛の長い目を閉じ、翼で体全体を守るように覆って、長い長い年月を土の中で過ごした。寂しくはなかっただろうか。土が冷たくはなかっただろうか。ここでこの化石と私が出会ったのは何のためだろう。天使にもう寂しく冷たい思いをさせないためではないのか。

 思わず手が伸びていた。私は学芸員の掌から天使の化石を取り上げ、そのまま口に含――もうとしたところで、学芸員に化石を取り返されてしまった。その時になって初めて自分の非礼に気付いたのだが、学芸員はこのときはまだ怒ってはいなかった。非常に落胆した様子で「あなたもやはり弱い人間と変わりない」と言い、ため息をついた。

「これは口に入れると溶けますので、もう誰の口にも入れるわけには参りません」

 これを食わずにいられる精神力の持ち主を探しているのです――ぶつぶつと呟きながら、影のような男は辺りをぐるぐる歩き回る。

「人間は皆弱い。おかげで天使はこのような姿になってしまった」

 ぶつぶつと呟くうちに、言葉の端々から怒りが漏れ始める。さすがに怖くなって「もう出て行きます」と立ち上がると、「ではお見送りいたしましょう」と学芸員も私の後をついてきた。

 私たちは玄関ホールへ戻った。ステンドグラスをあしらった正面入り口の大きなドアを恭しく開けながら、学芸員は言った。

「どうぞ、お気をつけて。あれが完全にお口に入れる前に止められてようございました。なにしろ天使の化石を食べたものは皆」

 そのとき、どこかでこおおぉんと高い鐘の音がした。

 ぎょっとして立ち止まった私の足はすでに敷地の境界を越えており、振り返ると学芸員の姿はどこにもない。ただ古く大きなだけの洋館が目の前にあって、すべての窓はすでに暗かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天使の化石 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ