身に覚えのないケーキ
黒本聖南
◆◆◆
恋人と向かい合って座る食卓。
間にはホールのチョコケーキ。
最初こそ笑顔でそれを持ってきた恋人も、俺の困惑に気付くと、能面のような顔になった。
今日の予定にない、ないはずのケーキ。それを眺めながら、沈黙が続く食卓。こんなものが出る前は、ゴールデンウィークにどこへ行こうか、とか楽しく話していたはずなのに。
ケーキと一緒にお盆で持ってきた、取り分ける用の皿もフォークも包丁も、未だ使われる様子はない。俺は下手に動けないし、恋人も動く様子はなかった。
とにかく何か言おう。そう先ほどからずっと思っていても、声が出ない。失言を耳にすると恋人は、迷わず手が出る人間なんだ。それなりに痛い。
しかも手の届く所にはフォークと包丁がある。そこまで短絡的な人間ではないかもしれないけれど、それでももしもの時、痛いのは嫌だ。痛いで済むかも分からんが。
では、考えるしかない。
このケーキが何の為に用意されたケーキなのか。
お互いの誕生日ではない。俺は夏で恋人は冬、そして今は春だ。まさかこの場にいない人間の為のケーキではないはず。いくら恋人が推し活を楽しんでいても、俺にまで祝いごとを強要しては……こない……はず……。
思い返すと、そうとも言い切れないような。
何で恋人の推しの誕生日を把握していないのか。せめてベストスリーくらいは覚えていろよ、自分。
どうするか、どうするか、どうするのか。
「──ねえ」
先に沈黙を破ったのは恋人だった。
「嬉しくないの?」
首を傾げながら訊ねられても、身に覚えのないケーキに疑問を抱くばかりで、素直に喜べない。
というか、俺の為のケーキなのか。本当に身に覚えがない。ケーキを買ってもらえるような祝いごとなど何も。
困惑が増した所で──恋人が動き出す。
握られた包丁に、無意識に身構える。まだ何も返事をしていないが、時間切れなのか。
「……ふーん」
包丁の刃先は、ゆっくりと──ケーキに振り下ろされ、皿に取り分けられて、フォークと一緒に渡された。
「あ、ありがとう」
礼を口にすると、怪訝な顔をされる。
「表情固いね。どうかした?」
「いや、別に。びっくりしただけ」
「どこにびっくり要素があるの」
恋人は自分の分も取り分け、俺に構わず食べ始めた。
ぼんやり眺めていたら、食べないのと言われたから、慌てて口に運んだ。ほんのり甘いチョコの味が舌に伝わり、途端に肩の力が抜け、困惑も忘れて味に浸った。
「やっと表情が柔らかくなった」
嬉しそうな恋人の声に視線を向けると、恋人は笑みを浮かべて俺を見ていた。
「昨日さ、チョコケーキ食べたいって言ってたでしょう? だから買ってきたんだよね」
「……なんだ、そうだったのか」
もう何口かでなくなるケーキに視線を落とすと、一瞬、目頭が痛くなった。
こんな優しい恋人に、どうして困惑したり疑問を抱いたのか。いいじゃないか、記念日じゃなくてもケーキを食べたって。俺はあの時、素直に喜べば良かったんだ。
美味しいケーキをありがとう。そう伝えるべく顔を上げれば──恋人は再び、能面のような顔をしている。
「もしかしてさ、昨日した会話、忘れてた?」
「……」
さて。
拳か、それとも平手か、蹴りか。
平和的にケーキを完食する方法を考えないと。
身に覚えのないケーキ 黒本聖南 @black_book
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