桜の木の下

宮本宮

甘い青春の日は遠い彼方へ。

「今年もまたお花見ができて、私は幸せですよ、先輩」

 

 月さんは桜の巨木を見上げ、しししと笑う。黒縁の大きなメガネの下にある目は、幸せそうに細めていた。酔っ払っているのか、つきさんは俺を先輩と呼ぶ。わざと敬語なのだろう。少し恥ずかしい。

 初めて月さんと会ったのは、この桜の木の下だ。薄紅色の桜の花びらが舞い散る中、月さんは心を奪われたように桜の巨木を見上げていた。子供が初めて桜の花を見たときみたいに夢中だった。

 俺はその時、月さんの横顔に惹かれ足を止めた。そして、はじめて桜が満開だったことに俺は気がついた。綺麗だと思った。桜に心を奪われた月さんも心を奪った桜、両方に。


「ししし。どうしました、先輩。また私に心を奪われちゃいましたか?」

「俺の心は、あの春の日から月さんのものだよ」

「そ、そういう恥ずかしいことを真顔で言うのやめてくださーい」


 月さんはイタズラっぽく言い、べーっと舌を出した。でも、俺の告白が嬉しかったのか、頬が桜色に染まり口の端がピクピクと緩んでいる。凝視していると月さんは顔をそらした。


「あまりこっち見ないでください」

「月さんは可愛いなぁと思って。こっち見てよ。月さん視線くださーい」

「うるせー」


 月さんの反応が可愛くて、さらに揶揄おうかと思ったが、ジュースを買いに行っていた娘の足音で、月さんはママの表情になり、俺の緩みきった頬を両手で軽く挟んだ。パパの表情のなれってことだ。

 甘い青春の日は遠い彼方へ。


桜花おうか、ジュースは買えた?」

「うん!」


 桜花はママと俺の間に座ると、桜の木を見上げる。ジュースを飲む。まるでお酒を飲んだかのように「ぷはー」と息を漏らした。たぶん、俺の真似だ。

 ママはそれが面白かったのか、しししと笑う。俺も笑った。桜花は不思議そうに首を傾げていたが、俺たちにつられて笑った。


「ねぇ、パパ。来年も見たいね、桜」

「見れるさ。ママと桜花と一緒にさ」

「約束ね」

「ああ」


 

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桜の木の下 宮本宮 @zamaba

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