表現規制のダブルスタンダードを検討する

 ある広告を女性差別的な表現と評した某教授が炎上する騒ぎとなっていますが、その教授がBLのゾーニングを訴えていなかったことがダブルスタンダードに該当するか、考えていきます。


 前提として、日赤の「宇崎ちゃんは遊びたい」コラボによる広告はご記憶の方もいらっしゃると思いますが、教授は明示的ではないがおそらくそれを指して胸を強調的に描くのは性差別的と評しています。


 このような方がペンネームを使って非倫理性の強いBL作品を描いていたことが疑われ、ダブルスタンダードだという批判が殺到し炎上に至りました。


 では、教授はBLのゾーニング規制を主張する必要があったのかについて論じていきます。


 予め結論を申し上げると、宇崎ちゃん広告との関係ではダブスタとは言えません。


 それとは別に、教授が「こどもを守れ」という主張をしていたのにBLにお目こぼしをしていた場合はダブルスタンダードと言えましょう。

 また、「BLは男性差別的だからゾーニングしろ」という主張や「LGBTQ+差別的だからゾーニングしろ」という主張に対して、BL作家として真摯に取り合わなかった場合もダブルスタンダードと言えましょう(なお、必ずしもそのゾーニング要求を呑む必要はない)。

 しかし、それ以外の場合においてはダブルスタンダードという批判は失当でありましょう。


 詳しく説明していきましょう。

 現在BL規制を訴える主張はおそらく2通りの仕方でされています。

 ①「こどもを守れ」型と②「規制要件平等」型です。

 そして教授の広告への論評はというと、③「女性差別を止めろ」型と言えるでしょう。これも表現に規制をかける効果はありますので、同類ではありますね。

 順番が前後しますが、①、③、②の順に説明していくと、


 ①「こどもを守れ」型とは、文字通り性的描写の強いものは子どもの目に付きにくいところに置けという理論であり、これは男性向けであれ女性向けであれ、変わらぬ基準で隔離しようという話だろうと思います。


 ③「女性差別を止めろ」型は文字通り、ステレオタイプを増強するような広告は慎めという主張です。


 ②「規制要件平等」型はというと、男性作家だろうが女性作家だろうが、また登場人物が男性であろうが女性であろうが、同じ基準を用いてゾーニングを行えという主張です。

 胸を隠せとか許容される肌の露出度を下げろだとか、その手の基準を統一してくれという主張に思えます。


 並べてみると、①と②は親和的に見えると思います。

 というのも、子どもに性的な情報を与えたくないという話ですから、異性愛であれBLであれ、性的描写の強いものはその強さに応じて等しく扱うべきだからですね。


 BLの方がマイルドなんてことはないでしょうから、性器の描写の程度、行為の態様の描写の有無、緻密さ、作中行為の同意の有無など客観的基準で判断するのがいいということには同意いただけると思います。


 なので①「こどもを守れ」と叫んでいた人が、「BLが好きだからそれは無罪にしてくれ。性行為あるけど児童書の近くに置かせてくれ」と言ったらそれはダブルスタンダードと言えるでしょう。


 「こどもを守れ」といいつつ守ろうしなかったのだから、自己矛盾に陥ったと言えましょう。


 もちろん②「規制要件平等」型も、同性愛であれ異性愛であれ、性行為のあるものはゾーニングと決めていたならそれに準ずるべきとするはずです。


 では本丸です。

 ③「女性差別を止めろ」型と②「規制要件平等」型は仲が悪いのでしょうか?


 結論は、仲良しかは分かりませんが、③と②は親子です。

 ③「女性差別を止めろ」型が親で、②「規制要件平等」型が子です。


 というのも、②は③「女性差別を止めろ」型の主張の後追いで、③で批判されて規範化したものを男性にも適用しようとしている理論です。


 例えば「女性を酷く扱うような作品は描いてはいけない」という③由来の規範を「男性を酷く扱うような作品は描いてはいけない」というふうに読み替えようとします。

 ②「規制要件平等」型の方が平等に見えますか?

 一見すると平等に見えるかもしれません。


 ここで誤解が生じているんだろうと思います。

 ②「規制要件平等」型の人は③「女性差別を止めろ」型の主張に対して、男性もその主張にねじ込めと主張し、ダブルスタンダードだと批判しているのです。


 本件のダブスタ批判もこれが原因である気がしてなりません。

 片や露出度が少ない女性(胸は強調的に描かれている)の広告を批判する一方で、ゾーニングも訴えることなくBLを描くのが妥当なのか? という批判ですね。


 一見すると正しそうです。

 しかし、何かあるべきものがない? と思った方はいませんか? 

 そう、④「男性差別を止めろ」型ですね。

 本来③「女性差別を止めろ」型の反対にあるのは④「男性差別を止めろ」型のはずです。


 ③は個別のケースで炎上させることを繰り返し、独自の規範を形成しようとしてきました。「女性をモノのように扱うな」など現実世界では自明なものもありましたし、時には行き過ぎて「胸の大きい女を描くな」という暴論まで飛び出したこともあります。これは大変恨んでいます。


 一方で、「女性差別」防止ガイドラインの形成・洗練化も進んでいるように思います。内心までは分かりませんが、少なくとも表層的には「胸が大きい女性をR18の世界にゾーニングしよう」などとは言い出さなくなりました。大きな1歩ですね。


 このように③「女性差別を止めろ」型は個別の事例から不適切性を発見し、それを言語化する営みをしてきたわけです。つまるところ帰納法的アプローチと言えましょう。


 一方で「男性差別を止めろ」型はあまり見かけません。もしかすると男性は表現物の上で男性がどんなにひどい目に遭っていても、あまり気にしないのかもしれません。

 わたしのアンテナ感度が低いだけかもしれませんが、どちらかと言えば、規範を作るなら形式的に男女平等にしろという②「規制要件平等」型の声が多かったように思います。


 それを考えると②「規制要件平等」型は演繹的なアプローチと言えます。しかも③「女性差別を止めろ」型が編み出した規範をそのまま転用する形で主張しています。


 あえてあくどい言い方をしますがこれは後出しじゃんけんです。

 少なくとも普遍性においては②「規制要件平等」型の方が体系的で良さげに見えますがそれは③「女性差別を止めろ」型の成果にフリーライドして、後出ししてるんだから当然です。


 本来であれば④「男性差別を止めろ」型がこの表現は差別的だから許せない、規制しようとすべきところを、あろうことか転用で済ませようと言うのです。


 考えてみればおかしな話です。

 表現の自由がある以上、原則どんな表現もいいんです。

 でも許されざる表現だけは、禁止したり(ドイツにおけるナチス賛美など)、賠償させたり(名誉棄損など)、罰したり(わいせつ物陳列罪など)していくわけです。


 女性だけが峻厳で、男性は気にも留めないのであれば、女性表現だけが厳しく、男性表現はほぼ全裸でも可みたいルールであってもいいはずなんです。

 女性はビキニまでしか許されないのだから、ムキムキボディビルダー男性を描写するときも、上半身を裸にするのはダメで、ビキニを着せなければならないなどということは妥当でしょうか?


 そもそも被害者がいないのであれば表現規制の根拠を失います。男性に侵害が発生しない、あるいは主張しないのであれば、男性を描くガイドラインだけ緩くても問題ないのです。

 むしろ形式的に規制要件の平等化を図るということは、平等と表現の自由が衝突したときは、平等を勝たせろという主張になりますから、③「女性差別を止めろ」型の主張を素通りさせることになります。


 つまり、③「女性差別を止めろ」型の主張がいかに尖鋭的に見えたとしても、③の論者が④「男性差別を止めろ」型の主張をする必要が無いということですね。

 むしろ女性に男性の感性がわかるのでしょうか? これは男性差別的なのでNGということを、発信すべきなのは男性の方です。


 であれば、某教授が③「女性差別を止めろ」型の主張だけしていた場合、④「男性差別を止めろ」型の主張をする必要がないし、しなかったとしてそれはダブスタではないのです。ある男性個人の困りごとなど感覚的には分かりようがないからですね(やや失礼)。


 そして②「規制要件平等」型は前述のとおり後出しじゃんけんですから、ダブスタ批判は無意味です。


 むしろ本当に平等にしたいなら、③「女性差別を止めろ」型から生まれた規範をなぜ男性にも適用可能なのかを丁寧に論証していく必要があります。

 普遍化可能性テストを行いたい気持ちは分かりますし、ルールは正義に照らして普遍的でなければなりませんが、そもそも性的表現において男女は軽率に反転して良い属性なのかの検討も重要でしょう。

 被害者がいないところまで表現の自由を削るのはやりすぎだからです。


 もう少し詳しく言うと、②「規制要件平等」型の主張をする人が、③「女性差別を止めろ」型の主張をする人が自分の利益だけ考えているように見えてしまい、「ダブルスタンダードだ」という批判をしてしまいたくなる気持ちは分かります。


 しかし、これは③の主張を行う人の立ち位置を間違えています。③の主張をする人は裁判で言えば原告であって、被害を訴える人です。裁判官では決してありませんし、裁判官にしてはいけません。また、ここで言う裁判官は日赤であって、判決としては広告を取りやめるとか、やめないという判断になってきます。


 また、BLをゾーニングしない現行ルールに文句がある人も居ると思いますが、それは書店の陳列ルールであって、その批判の矛先は第一には書店であるべきですし、書店はそれが権利侵害であると認識したならば、陳列ルールを改定する必要があるでしょう。


 つまり②「規制要件平等」型の論者の誤りは、裁判の原告に、裁判官の役割どころか国会の役割まで果たさせようとしていることです。

 そしてこの精神は、権利救済のコストを不当に吊り上げる不正義です。


 従って、某教授がダブルスタンダードという理由で批判されるいわれがあるとしたら、①「こどもを守れ」型の主張をしていたのにBLにはお目こぼしをしていた場合が1つ。

 もうひとつは「BLは男性差別的だからゾーニングしろ」という主張や「LGBTQ+差別的だからゾーニングしろ」という主張に対して、真摯に取り合わなかった場合です。


 いずれにしても、宇崎ちゃん広告を性差別的だと評し、かつ、書店に対してBLゾーニングを求めないことは、ダブルスタンダードにはなりません。


 繰り返しますが、他人の権利主張を勝手に代わってすることは出来ないからです。

 自分が被害にあっているから止めろということと、他人が被害に遭っているかもしれないけど当事者から悲鳴が聞こえないので何もしないというのは、当事者主義の観点からは妥当と言わざるを得ません。

 嫌なら嫌だと言うべきなんです。相手が受け入れてくれるとは限りませんし、自分の嫌が単なるわがままであるという判断を下されて恥をかくリスクを負うのであれば、それもまた表現の自由の行使だからです。


 一方で、被害者のいないところを規制するなとは言ってきましたが、宇崎ちゃん広告のような表現が直ちに加害であるという主張には正直疑問を禁じ得ませんし、また多少の加害であったとしても正しいと信じるなら、そのまま流通させても良いと思っています。それが表現の自由です。


 ただ、広告は通常営利団体のイメージアップ戦略と紐づいているので、ある程度批判が大きくなれば、ダメージコントロールの観点から引っ込めますし、それも経営判断として妥当だと思います。企業が通したいのは広告表現ではなくて商品だからです。


 強調しておかなければならないのは、広告を引っ込めるのは表現の自由の敗北ではなく、企業広告の失敗のゆえだということです。

 ここを勘違いしてはいけなくて、そのような表現が禁じられたわけではなく、そのような表現をすると社会的評価が低下するということに留意が必要です。


 最後に、批判への対処についてです。

 広告に差別的だという意見が寄せられてもそれが直ちに差別か、といえばそうも言えないことはあると思います。

 重要なのはそう見える人も居るということを認識することであって、批判に対して唯々諾々と呑み込むことでもありません。「何言ってんだこいつ?」と思ったら、批判を容れないこともまた重要な判断です。


 また、作者から見ると鬱陶しい書き込みによるものであっても、読者の知見が広がることになるのであれば、それはそれで書いた甲斐があるというものですね。


 ちなみに私は、気品の無い日本語で書かれた批判を読む気は無いので、そこだけご留意ください。ただでさえ低俗な私の人間性がさらに劣悪化することを避けるための措置です。

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AED論考・表現規制の二重基準 戦徒 常時 @saint-joji

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