第3話 記憶を擽るお菓子

「さぁ、どうぞ」

 言われるがまま席に着いた私の前に、手際よくお茶とお菓子のセットが並べられた。

 黒塗りの半月膳の上には、茶道の時に使うような大きな茶碗に注がれた濃い抹茶が泡立っている。その隣に添えられた赤い漆塗りの丸い菓子皿には、五枚の薄く白い砂糖菓子が乗っていた。

 それは煎餅のように丸く、強く掴んだら砕けてしまいそうに薄く、瓦のように少し弧を描いている。


 全てが美しいとしか言いようがない。

 丁寧に作ってある。

 器も盛り付けも完璧すぎる。

 美味しそうだ。

 でも高そうだ。見積もって、きっと少しお高めなホテルのケーキセット程度。



 残業中から何も飲まず食わずだったせいか、口の中が猛烈に水分と甘味を欲しているのを今更に思い出した。

 できれば早く味見してみたいが、しかし値段が分からないままでは手を付けるのも躊躇われてしまう。

 向かいの椅子に座った店主を見遣ると、私の戸惑いが伝わったのだろうか、僅かに眉を上げて促すように小首を傾げてきた。

「どうぞ? ご遠慮なく」

「あの……メニューとかは、ないんですか?」

 様々な思惑に圧されながら遠慮がちに聞いてみると、緩慢な瞬きを一つした店主は眉を下げて微笑する。


「申し訳ありませんが、メニューというものは当店にはございません。お客様に見合ったものをお出しするのが決まりなもので。ですがきっとお口に合うと思われますよ」

「じゃあ、一応つかぬことをお伺いしますが。これと相談料と合わせて、お幾らなんですか?」


 今さら値段を聞くなんて大人として恥ずかしい気もしたが、基本的に占いの個人鑑定の相場は高めだ。

 一応は財布の中身とも相談しておかなければ。

 僅かに視線を外しながら尋ねた私に、いつまでもお菓子に手を付けずに戸惑っている理由を理解したらしい店主は、ああ、と得心したようだった。

 ふふ、と軽い笑いを漏らしながら、傍らに置いた盆の縁を指先でなぞるように手遊び、こともなげに言う。


「お金なら、一切頂いておりません」

「えっ?」

「当店は『ただの』甘味処ですから」

「いやいや冗談ではなくて。……あ、分かりました。もしかしてこれ、試食のサービスなんですね?」

「紛れもない商品でございますとも」


 この人、さっきからふざけているのかな?

 それとも何か企んでいるのかな?

 若干イライラしながら私は思った。

 だって商品をこんなふうに無料で提供していたら、店を経営なんてしていける訳がない。

 しかもこんな高級店。


「ちょっと待ってください、これ絶対におかしい」

「おっしゃる通り、これ絶対にお菓子です。お菓子だけに『絶対におかしい』。はははっ」

「違うやめてください! 私がオヤジギャグ言ったみたいにさせないで!」


 やだやだやっぱり変な人だ。怪しい格好したお爺さんじゃなかったけど、やっぱり変な人が出てきた。帰りたい。

 つい頭を抱えた私の前で、またしても店主の整った長い指先が盆の縁を踊るようになぞる。

 きっと彼の癖なのだろうそれは、こういった顧客の反応には慣れているという無意識の現れのようだ。


「まぁ――そうおっしゃらずどうぞ。そのお菓子を召し上がりながら、貴女様の身に起きている不思議ごとを僕にお話しいただけませんか。お菓子にもご相談にも、金銭は一切頂きません。貴女が損をするような何がしかの代償も頂きません。勿論ですが、何らかの組織や宗教への入信を強制することもありません。僕だって特定の組織には入っていませんしね」

 

 じゃあ何が目的なの。

 胸の内に思い浮かんだその言葉が聞こえたかのように、店主が穏やかな眼差しで此方を見た。


「金銭は僕にとって無用なものなので要りませんが、ちゃんと対価は頂きますよ。実は、お客様の不思議ごとを解き明かして差し上げることこそが、当店の報酬となるんです」

「解き明かすことが報酬に?」

「ええそうです。お客様に御満足いただき、当店も報酬を得る。誠実な商売は常に両立関係でなければなりませんからね」

 

 漫画などに出てくる執事がよくそうするように、指先を揃えた片手を胸に当てながら、芝居がかって会釈する仕草が視界の隅に見える。


「どうしてそんなものが報酬になるんですか?」

 重ねた問い掛けに、店主は扇のように長い睫毛を伏せて頭を振っただけだった。

「……それはこちらの話ですので、お気になさらず」

 薄い色の睫毛が頬に影を落とし、ふと彼の周囲の空気が「閉じた」気がした。

 これまでには無かった、薄くしなやかな「結界」のようなものが、彼の周囲に一瞬で張り巡らされた。

 これ以上は問うなと彼は言外に言っている。例え説明したところで、私が理解することは難しいのだと。

 もう一度訊ねても、きっと答えては貰えずに誤魔化されるだけだと、何処か本能的に理解できる。



 ここは一体なんなのだろう。

 そしてこの人は、本当に何者なのだろう。

 もしかすると実家が途方もない大金持ちで、彼はここを趣味でやっているのだろうか。よく分からないが、税金対策とか。

 そう考えると、彼の佇まいや物腰などから納得いくような気がした。


 とりあえず今の私にできることは、お菓子を頂くことの他になさそうだった。折角なのだし。美味しそうだし。

 さっきの店主に言わせれば――『お言葉に甘えて』。



「じゃあ、遠慮なく頂きます」


 薄い砂糖菓子が折れてしまわないように、大事に抓んで一口かじる。

 口の中に落とした欠片が舌に触れたところで、砂糖の甘味と微かな林檎の風味がしゅわりと溶けて広がった。

 その瞬間。

 目の前を断片的な光景が、まるで幾つものシーンを切り張りした動画のように浮かび上がった。



 すりおろした林檎を掬う銀のスプーン。

 少し湿り気を帯びたベッドに寝ている子供の頃の私。

 その隣にいるエレナ。

 そうだ、私、できることならこれをエレナにも食べさせてあげたいと思っていた。

 母はとても優しい眼差しで、林檎を掬ったスプーンを私に向けてくれたんだ。



 とても懐かしく、嬉しく、それでいてもう二度と届かないものへの恋しさと淋しさが混ざり合った感覚。

 もう一口齧った。

 嚙むまでもない繊細なお菓子が口の中で溶けて広がっていくほどに、郷愁めいた想いが強くなっていく。

 そうだ。このお菓子の味は、あの時の林檎に似ている。

 そう思った途端に、ぶわりと目の裏が熱くなった。



「お口に合いましたか?」

 慌ててハンカチを取り出した私に、店主が気遣うように問い掛けてくる。

 不味いと感じる訳がないと確信した趣で。

「うん……」

 ハンカチで瞼を押さえながら、私は無意識のうちに子供のように頷いていた。

「すりおろした林檎を母が食べさせてくれるのは、私が風邪を引いた時だけなんです。これ、似たような味がします」

「それは良かった。すりおろした林檎を丁寧に火にかけて煮詰めた後、和三盆糖を混ぜて薄く固めたものです。井沢様のために御用意した一品です」

「私のために……」

「ええ。何方かはまだ申し上げられませんが、井沢様を助けて欲しいと頼まれたんです。ある方に」

「ある方?」

「そのうちに分かりますよ」

 

 相変わらず店主は謎めいた物言いをする。

 私が今夜ここに来ることを、なぜか最初から全部分かっていたことも。

 私が特別に想うすりおろした林檎を、お菓子として私のために用意してきたことも。

 そのお菓子が無料であることも。

 更に無料で不思議な話を相談できることも。

 ここでは全てが考えれば考えるほど謎だ。


 でも――私の悩みを解き明かしてくれることが、この店と彼の報酬になるという。

 私が望んだからこそ、この店へ導かれたのなら。疑問は沢山あるけれど、なんだかもうそれでいい気がした。

 母が食べさせてくれたあの光景を思い出せただけでも、ここに来た甲斐があったと思う。



「お母様はお元気ですか?」

 全てを知っていて、あえて向けられたように思える問い掛けにも、腹が立つよりまず有り難いと思った。

「母は、私が高校生の時に亡くなりました。少し精神を壊して、自分で」


 こんなこと、重くて自分からはそうそう他人に言い出せることじゃない。


 心療内科にも、カウンセラーや占い師にも、絶対に言い出せなかった。

 生い立ちは正直に話した方が治療に繋がるとは分かっていたけれど、いざ言葉にしようとすると声が詰まってしまったのだ。

 もし相手が無神経な人で、そのことについて嫌な顔をしたり、不躾なことを言われたりしたら。もし先祖の祟りだなどと言われたら。きっと何年もトラウマになるほど深く傷付く気がしたから。


 恋人である隆宏にだけは隠し事をしたくなくて話したものの、以降その話題は腫れ物に触るように気遣わせてしまっている。

 それが彼の誠意だということも分かっているのだが、本当はそれさえも少し申し訳ないと思っている節がある。


 でも、もしかすると私は、もっと話したかったのかもしれない。

 ずっと胸の内にじくじくとしていた不満とやるせなさを、できることなら腰を据えて誰かにじっくり聞いて欲しかったのかもしれない。

 転んだ子供が他人に傷を見せて痛みを共感してもらおうとするように、私の傷を見てもらい、何度も共感して慰めて欲しかったのかもしれない。

 それは大人の世界では甘えでしかなく、相手の重荷になると分かっているから、気安く彼に求めることはできないけれど。

 それでも本当は、聞いて欲しかったのだ。

 どうしてこの店主にだけは言えたのかは分からないけれど、この人は受け入れてくれると、本能的に思ったせいだろうか。


「それは……お悔やみ申し上げます」

 そう言って軽く黙禱してくれた店主に、私も無言のまま軽く頭を下げた。

「僕が申し上げるのも僭越ですが、多感な時期にお母様を亡くされるのはつらかったでしょうね」

「はい。でも親戚にも友人にも恵まれましたし、彼も優しい人なので、かなり助けられてきたと思います。ただ、このお菓子を食べた時に思い出しました。子供の頃、風邪を引いた時には、母が側にいて、エレナがいて……すごく幸せだったんだって。あ、エレナというのは人形なんですけど」


 そこまで言って、また思い出した。

 今は明るい店の中にいるせいか、あまり恐ろしさを感じずに済んでいるが、毎晩のように私を苛んでいる、あの恐ろしい夢の中の彼女の相貌を。


「でも――その人形に追い掛けられているんです。毎晩のように。それが、私が悩んでいる悪夢の内容です」

「ほう」

「私、とても可愛がっていたんです。なのに夢の中に出てくるエレナは、スクラップになったような、恐ろしい姿に変わっていて……私に何か怒りを持っているように追い掛けてくるんです。どうしてあんな姿なのか、全然分からなくて……」


 夢の光景が現実まで浸食していくような感覚に、ふと恐ろしくなった。

 言葉を切った私を促すように、店主が眉を上げる。


「どうぞ。聞いておりますから、話せるままに、思うままに」

「はい……」


 店主はあくまでも落ち着いて、まるで普通の世間話を聞くかのように耳を傾けてくれる。

 下手にメモを取られたり、録音されたりしないことが、良かったと思った。


 エレナ。私の大切なエレナ。


 なぜあんなお化けのようになってしまったのか。

 なぜあんなに怨みがましい声で私を追い掛けてくるのか。

 それを知りたい。


「店主さん」

「なんでしょうか」

「……私の他にも、こうして店主さんに色々と不思議な出来事を相談しに来る人はいるんですか?」

「いらっしゃいますよ。それはもうたくさん」

「私の話、信じてくれますか」

「勿論」

「誰にも言わないでもらえますか」

「秘密厳守は原則です。今までの方々もそうなのですが、皆さま同じようなことを御心配なさるんですねぇ」

「そっか。他にも、いるんだ……」


 どこかホッとした。

 きっとこの世の中には、私が思っているよりも迷える人たちは沢山いるのだろう。

 みんな誰にも言わないだけで――或いは言えないだけで――その人なりの不思議な体験や傷に戸惑い苦しんでいるのかもしれない。

 どういう意図で仕組みなのかは分からないけれど、ここはきっと、そういう人たちを際限なく受け入れる店なのだ。

 その人に見合ったお菓子を添えて。


「ああ、そうだ」

 少し淀んだ空気を換えるように、店主がふと声音を明るく転じた。

「これは個人的なお願いなんですが――」

 長い前髪を指先に絡めて手遊びながら、小首を傾げて困ったように笑う。

「できれば僕のことは店主ではなく、花月とでも呼んで頂けませんか。いえその店主さんという呼ばれ方がですね、なんだか妙にこそばゆいというか何というか……」

 言いながら恥ずかしそうに視線を逸らす花月さんは、掴みどころのない店主の顔から、少しだけ素のままの青年の顔が覗いている気がした。


 神楽木花月さん。

 お店の名前も兼ねた、お菓子の銘柄のようなその名は、きっと本名ではなく屋号のようなものなのだろうけれど、彼の雰囲気にとても良く似合っている。


「はい。では、私も茉莉枝でお願いします」

 少し気安くなった空気に推されて、私は促されるまま、取り留めもなく語ってみることにした。


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