第4話 エレナという人形

 うちは昔、私が中学時代まで、わりと裕福な家庭だったんです。

 父が貿易関係の仕事をしていたので、出張が多くて父親不在のことは度々だったんですが、それでも私は母と幸せに暮らしながら、父を待つ日々を送っていました。

 生まれた時からそんな生活で、それが普通の家庭の形だと思っていたので、特に淋しさというものを感じたことは無かったと思います。母はずっと家にいましたし。

 ただ、幼稚園の友達の家は、毎日お父さんが家に帰ってくるのが当たり前だと聞いて、少し羨ましいなぁ程度には感じていましたけど。


 とはいえそんな気持ちも、父が帰ってくる日にはすっかり忘れてしまいました。


 知らない国の匂いをさせながら帰ってくる父が好きだったし、何より沢山のお土産が楽しみでしたから。

 父が外国にいる間も、私のこと考えて、私のために選んでくれるお土産。それが嬉しかったんです。

 外国にいても、ちゃんと私のことを忘れないでいてくれるんだって。


 小さい子供って、そういうのを敏感に感じ取りますよね。


 だから私にとってお土産を広げてもらうのは、普段いない父の愛情が、確かに母と自分に向いていることを確かめるための、大切な儀式のようなものだったかもしれません。

 母には、お洋服やアクセサリー、バッグ。

 私には、おもちゃ、お菓子。お洋服。

 みんな父が私たちの喜ぶ顔を思い浮かべて、私たちのために買って来てくれたものばかりだと思うと、嬉しさもひとしおでした。


 その中の一つが、エレナでした。


 いわゆるフランス人形と呼ばれる類ですが、顔は陶器ではなく塩化ビニールで、もっと今風の可愛い顔をした、子供の遊び用のおもちゃの人形です。

 でも両目はちゃんとガラスアイで、横にすると瞼が閉じるようになっていて、手足が球体関節の、おもちゃにしてはなかなか良いものだったと思います。


「フランスから茉莉枝に会いたくて、お店のお友達とお別れしてここに来たんだからね。優しくして、仲良くしてあげるんだよ」


 そう言った父の言葉も表情も、思い出せば胸が温かくなります。



 素敵なフランスのお店を離れて、日本の私の家に来てくれた彼女は、その日から私の妹になりました。幼稚園に行く時以外はずっと一緒に過ごす、仲の良い妹です。

 一緒に遊んで、おやつも食事も一緒に食べて、寝る時も一緒。

 お話も沢山しました。

 幼稚園であったこと。好きなアニメの主人公のこと。絵本に出てくるお話のこと。

 もし妹がいたらこうしたいと思うことを、エレナは全部私にやらせてくれました。


 彼女の感情は、表情で分かりました。

 人形って、表情が変わるんですよ。

 物質的に表情を変える訳ではありませんが、遊んであげればちゃんと喜ぶし、笑うし、意地悪をすれば泣くし、怒りもします。

 エレナはそういう雰囲気を、ほんの少しだけ、瞳に表す子でした。

 エレナは生きていたんです。意志を持って、感情を持って。

 一人っ子の私にとっては、彼女は人間の友達と寸分変わらない……むしろそれ以上の友達であり、妹であり、もう一人の私だったんです。


(嬉しいね、茉莉枝ちゃん。明日も楽しいといいね)

 幼稚園で楽しいことがあった時は、そう言って迎えてくれます。


(お菓子、一緒に食べると美味しいね)

 おやつの時に目が合うと、ふっとそんなことを言ってくれます。

 彼女は、ただ食べている私を見ているだけなのに。


(茉莉枝ちゃん、悲しいね。側にいるよ)

 お母さんに叱られて泣いている時、そう言って慰めてくれて――。





 そこまで話した時だった。



――何よその目は!



「……ッ!」

 不意に、胸の奥に無数の棘が詰まったように息が苦しくなった。

 誰かがエレナをなじる声がした。耳の奥にはっきりと聞こえた。

 いや、今もまだ頭の中に響く。もう意味をなさない悲鳴のような声が。


――エレナァァァアア! エェェェェェレェェェェェェナァァァァァァ!


――キャアァァァァ! キィィィィィ!


 まるであの悪夢の中で、エレナが私を呼ぶ声のように、誰かが彼女を怨嗟を込めて呼んでいる。

 狂乱状態に陥った猿のような、甲高い耳障りな声を上げながら。 


 あの声は誰? 誰が叫んでいるの?


 きつく閉じた瞼の裏に、しかしハッキリと、空中を滅茶滅茶に振り回されるエレナが浮かんだ。


 顔は穏やかな笑顔のまま、乱暴に髪を掴まれて、壁に叩きつけられている。

 踏みつけられている。叩かれている。何度も何度も。

 やめて。やめて痛がってる。

 ドレスが捲れて、球体関節の脚が大きく開き、両腕があらぬ方向へ曲がっている。

 頭を壁にぶつけられても、踏みつけられても、叩かれても、エレナは笑顔のまま。

 でも私には分かる。

 彼女は怖がっている。聞こえない悲鳴を上げている。泣いている。

 ねぇ、聞こえないの? 泣いてるよ。

 分からないの? やめて!

 ねぇ、どうしてそんなことするのよ。

 可哀想だよやめてよ!

 私はその言葉を声にできないまま、それを見詰めている。



「ッ、すみません。……ちょっと、待って、ください。話せ、ない」

 胸の奥の無数の棘が回転しながら喉元まで暴れながら昇ってくるような、重い痛みと息苦しさが襲い掛かってくる。

「花月さ、ん、――」

 身体を内側から切り裂かれるような感覚がする。吐き気とも眩暈ともつかない苦しさに顔を俯け、ハンカチで口元を覆った。

 どうしよう。たすけて。

 訴えたくても言葉が出ない。ただハンカチの下で唇が慄くばかりだ。



 誰だろう。私のエレナにあんな酷いことしていたのは誰だったんだろう。

 あの叫び声の主がエレナをあんなふうにしたのだろうか。

 いつのこと?

 幼稚園の時に何度かお友達を家に呼んだことがあったけれど、そういえば男の子みたいに乱暴な子が一人いた。あの子だろうか。

 親戚の子にも、遊びに来るたびに何かを壊していった、とても乱暴な子がいた。あの子だろうか。

 私はあの時、どうしていただろう。何も言えずに黙っていたのだろうか。

 勇気が無くて止められなかったのだろうか。

 夢に出てくるエレナは、きっとそれを恨んでいるのかもしれない。

 ただ見ているしかできなかった、頼りなく不甲斐ない「姉」を。



「大丈夫ですよ。落ち着いて」

 花月さんが励ましてくれる。

 ハンカチで口を押えたまま顔を上げれば、冷静な視線が此方を覗き込むようにじっと私に注がれていた。

 僅かにテーブルに乗り出した花月さんの琥珀色の瞳が、何かあればいつでも私に手を差し伸べられると言っているかのようだ。


「ずっと固く封じていたことを語っているんですから、言葉の出口が痛むのは当然です。さぁ、召し上がってください。落ち着きますから」


 菓子皿を差し向けてくれる花月さんの真摯に動じない姿勢が、私を勇気づけてくれた。

 そう、私は話したい。

 この話を、今ここで語らなければならない。

 どうしてもそんな気がするのだ。

 言われるまま、砂糖菓子を一枚取って齧る。確かに今この時には、このお菓子が何よりの薬だと思えてならなかった。

 噛み締めた途端しゅわりと溶けて広がる砂糖と林檎の風味が、すうっと喉奥へ霧のように流れていく。

 喉の内側を暴れていた棘の塊が、砂糖と林檎に包まれながら小さくなって胃の方へと落ちていった気がした。

 その途端にまた目の裏が熱くなり、視界がぼわっと歪みを帯びる。

 お菓子を少しずつ齧りながら、私はぼろぼろと泣いた。



 可哀想なエレナ。

 そうだ思い出した。

 エレナはなぜか時々、酷い目に遭っていたのだ。

 その度に私は泣きながら彼女を抱き締めて、乱れた髪を丁寧に梳かしてやり、曲がった球体関節を元の位置に戻し、ドレスを整えてあげた。

 誰がやったのかはもう思い出せない。

 それでもあの胸の引き裂かれるような想いだけはありありと蘇ってきた。

 叩かれ、壁に叩きつけられ、髪を引っ張られ、踏み躙られて。

 それなのに表情ばかりは、造られた笑顔でいることしかできないエレナ。

 私は、それをなすすべなく見ていることしかできなかった。私もまた、彼女と同じ場所に、同じ痛みを感じていながら。


「花月さん……私、エレナが私を恨んでいる理由、分かりました」


 食べたばかりのお菓子の甘さは、悲しい味になった。

 あの頃のエレナは、私に助けて欲しかったのだ。

 誰にも聞こえることのない彼女の悲鳴を聞き取れるのは、私だけだったのに。

 誰にも見えることのない彼女の涙を感じ取れるのは、私だけだったのに。

 フランスから一人でやってきた人形の彼女が頼れるのは、もう私しかいなかったのに。

 彼女に暴虐を振るう存在に対して、本気で立ち向かっていくことさえせずに、ただ見ていただけなんて。

 エレナにとっては、さぞかし大きな失望と憤りだったのだろう。


「エレナは、時々ひどくいじめられたんです。なのに私は見ているしかできなくて、助けてあげられなかったこと――いえ、助けなかったことを思い出しました。……恨まれても仕方なかったんです」

 

 そういえば、あれからエレナはどうなったのだろう。

 それほど大事にしていたのに、私は彼女をどうしたのだったか。


 いま手元にないということは、何処かにしまい込んだまま忘れてしまっているのだろうか。

 それとも最悪、私が中学の時に父の会社が傾きかけ、抵当に入れていた家を出て行かなければいけなくなった時の引っ越しの慌しさで、何処かへ失くしてしまったのだろうか。

 あの時は家を失う喪失感に加えて、まるでそれを切っ掛けのように両親が離婚してしまったため、本当に何から何まで混乱していた。

 ゴミとして出さねばならなかった物の中に紛れ込み、そのまま捨ててしまったのかもしれない。

 それなら彼女が夢の中にあんな姿で出てくる理由も頷けた。

 私を恨みがましく追い掛けてくる理由も、十分に。

 きっと彼女も、私に見て欲しいのだ。

 私が母のことを、つらくとも誰かに話したかったように。

 どれだけ傷付いたか、子供が親に転んだ傷を見せて、痛みに共感してもらおうとするように。

 

 エレナに会いたい。会って謝りたい。


 真実そう思うのに、しかしあの怨霊のように激怒しているエレナを正面から迎えることは、情けないことに恐怖だった。

 たとえ彼女の怒りの理由が分かったとしても。

 どんなに私に非があったとしても。

 毎晩のように飛び起きてしまうほど恐ろしいあの夢と対峙する勇気など、どうしても持てない。



「茉莉枝さん、何か思い違いをしていらっしゃるようですよ」


「……え?」


 感情のない花月さんの声に、私は息を止めて彼を見た。

 心の奥底までをも見透かすような瞳が、まっすぐに私を見ている。


「お話は、そう簡単ではありません。その話は健気で情緒的ですが、真実がありませんね」


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