第2話 甘味処店主

 店内に一歩足を踏み入れた途端。

 爽やかな芳香が迎え出るようにふわりと包み込んできた。

 濃密で清浄な木の匂い。

 まるで森の中にいるような香りが空気を浄化するようで、早朝の高原に立っているかのような清々しささえ感じる。


 床には御影石らしき黒光りする石が一面に敷き詰められ、石に含まれる微細なガラス質が天井の明かりに照らされて、まるで煌めく星屑を散らした宇宙に立っているような心地にさせる。

 店の中は広く、しかし空間を大きく取るためか、イートイン席は黒檀のテーブルと白い布張り椅子のセットが二組しかない。

 奥には宝石店のようなガラスのショーケースを兼ねた白木造りの大きなカウンターが鎮座し、ケースの中には幾つかの和菓子がまさしく宝石のように納められている。

 片隅には青々と天井まで伸びる幾本かの生竹が活けられ、根元には溶けかけた氷のような透明な水晶と、砂糖菓子のような乳白色の瑪瑙が、幾つも寄せ集められて土を隠していた。

 全体的に白と黒と白木のベージュを基調とした店の中は、塵一つ落ちていないほど清潔だ。


「すごい。なにこれ……」


 思わず声が出てしまうほど、それは圧倒的だった。

 圧倒的な和モダンの美。

 外装も内装も、素人目にさえ相当の値が掛かっていると分かる。

 ショーケースに納められている和菓子には値段がついていないし、これはつまり時価というものなのだろうか。

 果たして和菓子にそんなものがあるかどうかは分からないけれど、要するにここの顧客は値段を見ずに注文して、提示された金額を「あ、そう」と普通に払ってしまえる人たちだということなのかもしれない。


 これはまずい。

 とても美味しそうだけどまずい。

 つい入ってしまったが、想像以上に高級店らしい。

 

 時間も時間なので、そのせいかもしれないが、他にお客さんもいない。

 まさかとは思うけれど、一見さんお断りという店ではないだろうか。


(ど、どうしよう……)


 お店の人が来る前に、軽くお店を見に来たふうを装って出てしまおうかとも思ったが、なんだかそれも勿体ない。

 私をそうまで留めさせるのは、入口の看板だった。

 「不思議ごと 卍 万事相談承り処」と書かれていた、あの看板だ。

 なんとなく、ここが最後の砦のような気がする。

 ここであの夢の話を聞いてもらわなければ、もうずっと解決しないような気がするのだ。

 それに、たかがお菓子ではないか。

 どれほど高級であろうとも、宝石のように飾られていようとも、例えばまさかお茶菓子一つに数万円もする訳がないのだし。きっと大丈夫。


(でも待って)


 思い直して、ふと考える。

 そういったスピリチュアルな店に稀に見られる危険性についても、一応だが考慮しておかねばならない。

 女一人暮らし。警戒には警戒を重ねておいて損はない。

 普通の占いの店なら良いけれど、万一ここが悪意に満ちた怪しい店だということも無いとは言い切れないのだ。

 例えば、背後に変な宗教もどきの組織がついている場合。

 甘味処というのは実は建前で、実は悪徳カルト宗教の財源の一環だとしたら。

 法外な値段の怪しい霊感グッズを買わされたり、或いはこの和菓子自体が法外な値段の怪しいグッズだとしたら。

 それどころか変な格好をした変なお爺さんが出てきて、立ち直れないぐらい不吉な予言などされたりして。

 それで洗脳されて怪しい宗教などに入れられたりして。

 怪しい像の前で怪しい歌なんか聞かされたりして。それだけでお金をたくさん取られたりして。

(やっぱり逃げよう!)

 一瞬で広がった自分の妄想に自分で怖くなり、踵を返して店を出ようとした時だった。



「やぁ、いらっしゃいませ。そういった御心配は無用ですよ」


 私の内心を見透かすように、背後から柔らかな男性の声がした。


「当店は『ただの』甘味処ですから」


 突然声を掛けられたことに驚いて、弾かれるように振り向いた途端――思わず息を呑んで固まってしまった。


(え、モデルさん……?)


 さらりと纏った黒い和服に黒い前掛けを付けた長身の美形が、茶碗と茶菓子を乗せた黒塗りの盆を両手に掲げながら立っている。

 年齢は私と同じ、二十代前半ぐらいだろうか。

 肩に届く程度の赤みがかったベージュ色の波打つ髪をサイドに寄せて緩く束ね、斜めに流した前髪は、深紅の襦袢が覗く襟元までうねりながら先細りに届いている。

 端正な面差しは微笑んでいると柔らかく優しげに見えるが、切れ長の琥珀色の瞳には深い翳りがあり、透けるように白い肌も相まって、何処か近寄りがたい怜悧な印象を与えてくる。

 もし無表情でじっと見据えられたなら、美しさと恐ろしさで息さえできなくなるのではないだろうかと思うほどに。

 百八十センチ近くはありそうな長身は、背が高いというよりは細長いという印象を受ける。だがそんな印象に反し、袂から覗く手首や広い肩幅などからは、存外しっかりとした骨格を感じさせた。

 街ですれ違ったら間違いなく十人中十人が振り返りそうな美形が、私に微笑んでいる。


「店主の神楽木花月かぐらぎかげつと申します。残念ながらモデルさんではありませんが、お褒めにあずかり光栄にございます。……井沢茉莉枝いざわまりえ様ですね?」

「はい――。え、いや、待って」


 艶めいた佇まいとフルートのような声につられて、つい素直に返事をしてしまったけれど。

 この人、今なんて言った?


「待ってください。今なんて?」

「店主の神楽木――」

「その後です!」

「残念ながらモデルさんではありませんが――」

「その後!」

「お褒めにあずかり――」

「わざとやってます!? その後です!}

「井沢、茉莉枝様と」

「それ! それよ! なんで私の名前を知ってるんですか。私まだ何も……」

「ああ、ご安心ください。お名前以外も存じておりますよ。ご年齢は二十五歳。お仕事は事務。最近の悩みは悪夢と不眠、それにまつわる私生活への影響。まずはお座り頂いて、本日はそのお話を詳しくですね――」

「ひゃだ怖い!」


 やだ、と言い掛けた声が思わず裏返ってしまった。恥ずかしい。

 でも恥ずかしいなどと思う余裕は無い。

 まるで医者がカルテを読み上げるように、教えてもいない私の個人情報を流暢に次々と。怖すぎる。何が「ご安心」だ。


「なんでそんなに私のこと色々と詳しく知ってるんですか!? もしかしてストーカーとか探偵とか!? 分かった、悪徳占い師のネットワークでしょ! インチキ占い師同士で解決できない悩み事を抱えた顧客情報を共有してるんでしょ! そ、そういうのって……そういうのって、どうかと思いますけど!」


「ええ、そういうのどうかと思いますよねぇ。同感です同感です」


 あまりのことにパニックに陥り掛けた私に、店主は癇癪を起している子供の相手をするような調子でウンウンと頷く。


「いや、そういう反応するところじゃないですよね!?」


 重ねた私の抗議に、顰めた眉の下で薄い瞼を閉じた店主が今度は肩を落とし、小さく頭を振りながら深く吐息する。

 やれやれとした様子から、若干の落胆と面倒くささが明らかに漂う。

 納得いかない。

 逆にこちらが変な人みたいな雰囲気にされた。納得いかない。

 見ず知らずの相手にいきなり個人情報を突き付けられて、パニックにならない方がどうかしているではないか。


「そうですね。ではまず、僕が決してお客様のおっしゃるような類ではないことを弁明させ頂いても?」

「……お願いします」


 お願いしますとも。

 妙に落ち着いている店主に対し、恐怖心と警戒心が一周回って、謎の憤りがフツフツと沸き立ってきた。

 望むところだ。納得させて欲しい。

 もしできなかったら、すぐに助けを呼べるようにしておくべきかもしれないと、私はバッグの中のスマホを握り締めた。

 そんな私の内心を知ってか知らずか、店主がふっと軽く一呼吸して咳払いをする。

「それでは、お言葉に甘えさせて頂きまして」

 途端、店の中の空気がふわりと軽くなった気がした。


「……さて。せっかく甘味をお求めにいらしてくださったお客様に対し、お耳に苦いことを申し上げるというのは僕としても心苦しいばかりではございますが、まぁ昔から良薬は口に苦しと申しますように……」


「ねぇ! その落語の枕みたいなふざけた前置きムカつく! お早めにどうぞ!」


「ではお早めに。ええと――では例えば、もし僕がそうしたイカサマ占い師であったとしても。本日こうして当店を見つけて足をお運び頂いたのは、井沢様ご自身の意志ですね」


「まぁ……確かに」


「決してこちらがご連絡を差し上げてお招きした訳でも、無理強いしてお連れした訳でもなく」


「そ、そうですね」


「例えばですよ? そのような悪徳なネットワークで流出している個人情報を僕が持っているならば。井沢様だけではなく、きっと何人ものカモの情報をパソコンかどこかにファイルしてあるはずです。きっとそれは膨大な量のやつでしょうね」


「……はい」


「で。いま初めてお迎えした飛び込みのお客様のお顔を見ただけで、その膨大な量の中から、該当のファイルを瞬時に探し出せるだけの時間があるとは思えませんが?」


「そ……それは、まぁ、そうかも、ですね」


「更に掘り下げて疑ってみましょうか。例えば対象の顔に向けただけでそういったファイルを探してくれる違法アプリが実在していると仮定します。しかし、この通り僕の両手は盆で塞がっていますので、今スマホの類を弄ることはできません。バックヤードで調べてくるにしても、大概そういうアプリというのは対象者の顔をしっかり識別しないと検索できないものではないでしょうか?」


「た、確かに」


「さてさて、これにてイカサマ占い師の疑いは晴れたということで宜しいですか? もう少し証明しましょうか?」


「……いえ、大丈夫です」


「次に。僕がストーカーや探偵かという誤解ですが、これは単純な話で片付きます。ターゲットと初めて顔を合わせた現状で、わざわざ警戒されるようなことを言って、今ここで正体を明かす意味がありません。今後の活動の妨げになる一方で、此方には何の得もありませんから」


「で、ですね」


 万が一の時のためにとバッグの中のスマホを握ったまま、しかし私の頭の片隅は妙に冷静に現状を分析していた。


 店主が言う通り、例えば彼が顧客情報を共有するタイプの悪徳な占い師ネットワークの一員であったとしても、確かに今日こうしてこの店に立ち寄ったのは私自身の意思だ。

 この店は誰に紹介された訳でもない。

 私が今日初めて自分で見つけて、自分から興味を持って入った。

 私の来訪を知らなかったはずの店主は、例え前もって私に関する様々な事柄を知っていたとしても、顔を見ただけで私が何者であるかなど情報を紐づけることはできないはずだ。

 勿論、あらかじめ全ての顧客情報を日頃から覚えておくなど不可能だろう。

 一方ストーカーや探偵なら、何らかの目的を果たすまで、黙っていれば以後も気付かれずに済むことだ。確かに此処で名乗りを上げるような真似をして、わざわざ私を警戒させる意図が分からない。



 以上。

 決して店主の顔に騙されている訳ではないが、改めて考えてみても、彼が言ったことは全て正しいと認めざるを得なかった。



「――ご納得いただけましたでしょうか?」


 決して顔に騙されている訳ではないが、綺麗な顔がにっこりと誠実に笑む。

 ところで全然関係ないけど、この人本当にメディアなどに出ていない一般人なのだろうか。全然関係ないけど。


「……まぁ。一応は。はい」


 若干釈然としない想いを抱えたまま、私は頷いた。

 この店主がどうして私の個人情報を知っているのか、それはいまだに分からないけれど、とりあえず悪徳占い師とストーカーと探偵の疑いは消えた。

 だとしたら、この人は一体なんなのだ。


「それは何よりです。――改めまして、店主の神楽木花月と申します。では不思議ごとの相談を始めましょうか。とりあえずどうぞどうぞ、立ち話もなんですし、詳しいことはこちらのお席で、お菓子でも召し上がりながら」


 舞うように軽やかな足取りで踵を返した店主に誘われ、掴みどころのない空気に流されるように、私は黒檀のテーブル席へと案内されてしまった。


「まったく、それにしても、本当にこの世界の商売というのは大変だとを痛感します。同業の友人ともよく話しているんですよ。此方はもう全部分かっているのに、あなたがた人間は、あえて分からないふりをした方が安心してくれるとね。複雑なことです」



 同業の友人? 

 同業の人がいるの?

 それは甘味処さんという意味?

 それとも不思議ごと相談の意味? 

 全部分かっているって、どういうこと?



 頭の中が様々な疑問で埋め尽くされたまま、促された白い布張り椅子に深く腰掛ける。

 その途端、ふうっと身体の芯から余分な力が抜け、身体中の関節がとても喜んだ気がした。

 今日の疲れが一気に蕩けるような、心ごと受け止めてもらったような座り心地だった。


 

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