花月甘味夢幻録

青条玲利

人形

第1話 悪夢

 死ぬほど恐ろしい夢を、毎夜のように見ている。


 夢の中の私は、気付けばいつも深い闇の中にいた。

 ほんの数ミリ前さえ見えないほどの完全な暗闇だ。

 自分の足元さえおぼつかない闇の中を、私は一人きりで、殆ど泣き出さんばかりの恐怖に耐えながら必死に逃げているのだ。

 黒一色の深い闇の奥から、鬼気迫る勢いで追い掛けてくるものがある。

 あれに追い付かれてはいけない。

 あれに追い付かれたなら、どんなことをされるか分からない。



――茉莉枝……まりえ……マリエ。


 

 怨みがましい声で私の名を呼びながら近付いてくるものの姿は、はっきりと脳裏に浮かんでいた。

 白金の長い巻き毛。同じ色の長い睫毛に縁どられた、青い大きな瞳。瞳と同じ色の青いベルベットのドレス。ミルク色の肌にほんのりと赤みがさした小さな唇。

 知っている。私は彼女を知っている。あれは私が五つの頃に、父が海外出張のおみやげに買って来てくれたものだ。

 ビスクドールを真似た子供の遊び用人形だったが、私は彼女にエレナと名付け、どれほど大切に可愛がっていただろう。

 どこへ行くにも常に片手に携えて、姉妹のように大切にしていたというのに。



 なぜ。

 なぜ私を追い掛けてくるのだろう。

 そんなに目を見開いて。そんなに私を凝視して。

 なぜそんなにも怒りに燃えたぎる声で私を呼ぶのだろう。



 私は懸命に逃げながら背後を振り向く。

 そうしなければ怖くて怖くて仕方なかった。

 人形の声は暗闇の中に遠く近く反響し、不思議な抑揚を以て私の背に近付いては離れ、また近付いてくるようだ。

 もっと早く走らなくては。もっと遠くまで、もっと早く。

 そしてふと不安になる。



 果たして人形との距離は、何処まで開いているのだろうと。

 果たして今あれはどこにいるのだろうと。



 まだ声が遠く追い付かれない位置にいると思っていても、ふと後ろを振り向けば、もしかしてすぐ肩越しに搔いついていて、私の顔を覗き込もうとしているのではないだろうか。

 もしかして既に足元へ這い寄っていて、逃げる足首に今まさに掻い付こうとしているのではないだろうか。

 不安に駆られながらも、振り向いてはいけないことを私は本能的に分かっていた。

 神話や伝承の中にもあるではないか。不安に負けて暗闇の中で振り向いたが最後、見てはならないものが見えてしまう展開が。

 これ以上、振り向いてはいけない。

 絶対に見てはいけない。

 そう思うのに、夢の中の私はどうしても振り向いてしまうのだ。

 無惨な姿に変わり果てた彼女を、見てしまうのだ。



「まぁぁぁぁぁりぃぃぃえええええええええええ」



 狂気じみた尾を引く声で私を呼び、短い両手を伸ばして私に迫ってくるエレナの姿を。

 長く美しい白金の髪は半ば抜け、青い瞳は片目が割れ、ベルベットのドレスは擦れて破れ、片手が一本あらぬ方向に捻じれて外れ掛けている。

 片方だけ無事な瞳が、真っ直ぐに私を見据えている。



 やめて。

 何を怒ってるの。

 なぜそんな姿なの。



 必死に逃げながら問い掛けようとするものの、喉が潰れたように声が出せない。



 まりええええええええええええ――マリエエエエエエエエエエエ――まぁぁぁりぃぃぃえぇぇえぇええぇええええ――



 人形の声が次第に近くなり、近くなるほどに声域がぶれ、子供の声にも女の声にも男の声にも聞こえる。

 舌の根が喉奥に縮み上がり、喉がからからに乾いていた。

 タ ス ケ テ。

 出ない悲鳴を、しかし懸命に上げるように大きく口を開いたその瞬間、目が覚めるのだ。

 弾かれたように瞼が開き、一気に開いた気道に塊のような空気を吸い込んで、咳き込みながら私は身を起こす。



「……どうした?」

 隣で眠っていた恋人の隆宏が、まだ寝惚けたような声のまま、片手を伸ばして汗ばんだ私の背を擦ってくれた。

「またいつもの夢か?」

「うん。ごめん……」

「いいよ」

「有り難う。起こしちゃってごめん。もう大丈夫だから寝て。明日も早いでしょ」

「ああ。……本当に平気か? 水でも飲むか?」

「ううん、大丈夫。ありがと」


 また怖くなったら起こしていいからなと言い置いて、とても優しい彼は疲れに抗えず眠りに落ちていく。

「……ごめん」

 その寝顔を見つめながら吐息だけで呟いた謝罪は、彼を起こしてしまったことではない。

 再び毛布の中に潜り込んで瞼を閉じると、つい数か月前に彼が差し出してきたダイアモンドの指輪が浮かんできた。

 今はまだ受け取ることはできない。

 受け取る勇気がない。

 そう言って拒んだ私に、僅かな落胆を瞳に浮かべつつも微笑して箱を閉じた、あの時の隆宏の表情までが思い出されたのだ。

 隆宏にとっては一世一代のプロポーズだった筈だ。

 にもかかわらず、はっきりとした理由も言わずに保留にした私を、彼は許したまま側にいてくれる。

 そんな彼の優しさに甘えて、いまだ動けずにいる不甲斐なさについてだ。

 罪悪感は日々、澱のように心の奥に溜まっているというのに。

 このままではいつか愛想をつかされてしまうのではないかという不安は、いつも心の何処かにあるというのに。



 マリエ……マリエ……。



 夢の中の人形の泣くような脅すような恨めしげな声が、まるでつい今しがたの現実のもののように生々しく耳の奥から離れなかった。

 身体の中心で鼓動が激しく脈打ち、背が冷えてお腹が痛くなる。

 いつもこうだ。恐怖と不安が収まるまで、胎児のように身を縮めて朝を待つしかない。



 どうしてだろう。

 きつく目を閉じながら思う。

 どうして彼女はこんなにも私を苦しめるのだろうと。

 エレナ。

 ずっと仲良くしていたのに。

 どうして――。





私がその不思議な甘味処を見つけたのは、それからすぐのことだった。

 例の夢のせいで、連日の寝不足に社会人五年目としてあるまじきケアレスミスを三日続けて連発し、その後始末を何とか残業で収拾をつけ、かなり気落ちしながら歩いていた帰りである。

 春の香りを微かに含んだ夜風に慰められながら、ふと、いつもとは違う道で帰ってみたくなったのだ。


 少し遠回りの道を歩いていると、ふと見覚えのない店が目に留まった。

 京都あたりにでも老舗の本店を大きく構えていそうな、甘味処というよりは贈答品などを購うための高級和菓子店といった風情の、白木造りの瀟洒な店構え。

 透き通る白い絽の暖簾には、黒々とした花文字で「花月」と染め上げられている。

「かげつ……」

 それがこの店の名前らしい。

 

「こんなお店いつできたんだろう」


 私が一人で暮らすアパートがある門前仲町は、東京の中でも下町情緒を非常に多く残している地域だ。

 深川のお不動様と呼ばれ親しまれる深川不動堂や、隣接した富岡八幡宮などの神社仏閣を街の中心に、その周囲には古き良き昭和の面影を濃く残す仲見世商店が昔ながらの軒を幾つも連ねている。

 この街に住んで五年。昔から、良くも悪くもあまり景色の変わらぬ街だった。

 どんな店がどこにあるか、もう十分に知り尽くしているつもりの町並みで、改装や新装のための工事などの準備期間を一切見たことがなかった。

 にもかかわらず、さも昔からそこにあったように見慣れぬ真新しい店が忽然と開店するというのは、少しばかり妙な気がする。

 だが、馴染み過ぎてしまった景色というのは、案外記憶に残らないという。

 特に最近は残業続きで帰りも遅かったし、普段はほぼ家と会社の決まった道の往復で、休みの日なら隆宏とデートで遠出をしてしまうため、あまり近所をぶらぶらすることもなかった。

 もしかすると工事の間も、無意識のまま通り過ぎていた可能性も大いにあると思えば、納得できる気がした。


「まだやってるのかな」


 もう一度、全体を見る。

 名前も佇まいも綺麗な店だった。

 こんなにも美しい店なら、きっとお菓子も美味しいに違いない。

 綺麗な技巧を凝らした練り切りや、天然石のような琥珀糖、パステルカラーの和三盆糖、温かなおしるこ。或いは少し洋風に寄って、和風パフェや抹茶ケーキなど。きっと可愛くて美味しそうな和スイーツがあるのではないだろうか。

 そういうものを濃い抹茶で頂いたなら、きっと仕事の疲れもとろけてしまいそうだ。


 入ってみたいが、気が引ける。

 だが入ってみたい。

 入るべきだ。入らなければいけない。

 何処か本能的にそう思うのは、どういう訳だろう。


 まだ生木の香りを残す白木造りの格子戸はぴったりと閉じられているが、格子から漏れる店内の灯は非常に明るく、営業中の看板も出ている。

 時計を見れば、既に午後九時を過ぎていた。

 甘味処が開いている時間としては少し遅すぎる気もするけれど、この時刻に居酒屋やコンビニ以外のこういったお店が営業してくれていると、何処か安心する。

 その灯に引き寄せられるように、気付けば私は白い絽の暖簾をくぐっていた。

 暖簾の絽は軽く、捲る指にさらりと心地良い手触りを残す。

 ふと見れば、入口の格子戸の上に、見事な一枚板の看板が掲げられていた。



 『不思議ごと 卍 万事相談承り処』



「なにこれ」

 中心にある卍の字体は、風車の絵のように描かれている。

 この一帯が寺町であることへの洒落のようなものなのかもしれない。

 だがそれよりも、甘味処として似つかわしくない「不思議ごと相談」というのが奇妙だ。


 「不思議ごと」というのは、身の回りに起きた不思議なことを指すのだろうか。例えば怪談なんかの類の奇妙な体験。

 それを「万事」――つまり「何でも」相談できるというのだろうか。

 もしかするとここは、占いの店でも兼ねているのかもしれない。

 甘味を食べながら、希望があれば占いのオプションも付けられる――そんなコンセプトの店なのかもしれない。

 

 高級和菓子店としては些か不似合いな気もするが、この数年の飲食店は軒並み苦戦を強いられる時世だ。

 少し長い営業時間しかり、少しでも他店との差別化を計ろうとしているのなら頷ける。

(どこも大変なんだね)

 社会を生き抜く同志のような親近感を感じながら、そう思った時だった。



――まぁぁぁりぃぃぃえぇぇえぇええぇええええ



 不意に、夢の中で幾度も聞くエレナの声が、不吉な風のように耳の奥を過ぎり、反射的に息が止まった。

背骨を昇ってきた寒気にゾクリと身が震える。



――まりええええええええええええ――マリエエエエエエエエエエエ


 

 消えて。消えて。消えて。

 両耳を塞ぎながら、呪文のようにそれだけを胸の内で呟く。


 連日のようにあの夢を見るようになって、既に数か月は過ぎている。

 そのせいで慢性の寝不足になり、今は仕事ばかりか私生活にも影響が及んでいる始末だ。

 疲れと眠気に支配された頭の中は常に霞が掛ったようになり、友人と話していても以前のように会話が弾まない。

 無論のこと、今まで誰にも相談しなかった訳ではなかった。

 だが友人たちには単なる夢と一蹴されてしまったし、隆宏には女性にありがちな情緒不安定ではないかと言われてしまった。実際、そのつもりで私を労わってくれているのだから、彼は彼なりに真剣に考えてくれているのだと思う。だが、いつまでもこのままでいい訳がない。

 幾つか掛かってみた心療内科では、安眠するための薬を処方され、日常ストレスを少なくするようにとアドバイスを受けただけだ。

 何人かの心理カウンセラーや占い師などは、予約した時間分だけ話を聞いてくれはしたが、いずれも幼少期のトラウマが影響しているという結論であり、具体的な対応策などは心療内科と同じようなものだった。

 

 栄養バランスの良い食事を取ること。

 お風呂に浸かること。

 たまには好きなことをしてのんびりすること。

 そして薬を飲んでぐっすり眠ること――眠って悪夢を見ることが悩みだというのに。

 

 確かに薬に頼れば、一時的には何も考えられなくなって安心するかもしれない。だが根本的な解決には至らないのは分かっている。

 ストレスなんて生きているうちには否応なく溜まっていくものではないか。

 思い通りにならない日常からストレスを少なくすることなんて不可能だ。

 彼らが悪いとか、頼れないなどとは少しも思っていない。

 ただ、解決に至らないことが苦しい。それだけなのだ。


(もしかしたら、ここも駄目かもしれないけど)


 それならそれでもいい。

 とにかく誰でもいい。話を聞いてもらいたい。できれば解決する手段を教えて欲しい。


 もう一度看板を見上げて、私は心を決めた。

 一縷の望みを掛ける想いで。

 思い切って分厚い白木の格子戸を引いてみれば、それは存外軽く、カラカラと乾いた快い音を立てながら滑らかに開いた。



 温かな色味をした店内の明かりが、目の前に眩しく広がる――。


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