トオン

 学校中にある西向きの窓のあちらこちらから、うすだいだい色の陽光がさしこんでいて、いま私の足元からあちらこちらにのびている影が、それらのうちのどこからさしこんでいるものによって生まれたのかが、わからなかった。わかる必要もなかったけれど、なんとなくしりたい、とだけ思った。

 昇降口の天井にはいくつかの蛍光灯が下がっていて、そのどれもがまだあかりを灯しておらず、灰色のままでしんと沈黙していた。それらにあかりを灯すためのスイッチはいま、私が左手をのばせば届くところにあったけれど、そうしようという気持ちにはならなかった。どうせ私はすぐにこの場所から離れる。

 昇降口。昇る口。降りる口。入口。出口。出ていくところ。入ってくるところ。境界。学校とそれ以外の世界を明確に隔てるもの。なんにしたって、そこは日々のなかで靴をはきかえる以上の意味を持たない、ただの通り道のひとつであって、ほかのみんながそうであったように、あえて自分から、その場所をてらすようなことを、浮き立たせるようなことを、あかりを灯すことで、なにか、もっと、特別な意味をあたえてしまうようなことを、しようとは思わなかった。

 私のローファーが入っている靴箱はだいたい昇降口のまんなかあたりにあって、両隣を私よりもずっと背の高い靴箱で囲まれているからか、ひときわにうす暗かった。ローファーをとりだし、目地の隙間に砂粒の目立つタイルの上に落としたとき、ぱたん、と音がした。それはぐっと沈黙する蛍光灯やほかの靴箱のなかにあって、はっとするくらい大きな音だった。それを合図にして頭上の蛍光灯が明かりを灯すのではないかと思ったけれど、そんなことはなくあたりは薄暗いままで、どこからかさしこむうすだいだい色の陽光だけが、焦げ茶色のローファーにその色を与えていた。

 見つめるというほど意識をせずに、ごく短いあいだその色だけを確認して、私は履いていた上靴を脱いで、ローファーの入っていた靴箱へといれた。つるつるとした床のつめたさは靴下をとおして輪郭が鈍り、私になにかを思わせるようなことはしなかった。

 ローファーは私の足をするりとなめらかに受け入れる。つまさきを立てて、地面を二度ほどたたいた。かつかつ、とかための音は、しかしさっきよりもずっと控えめだった。

 昇降口を出ようとして、あけはなたれたガラス張りの扉から、ふっと吹き込んできた風の思いのほかの寒さに、身を縮めたときのことだった。背後から、セガワ、と声をかけられたのに、それに対して、同じ言葉が三度耳に届くまで振り返らなかったのは、その言葉が単に私の名前と、偶然一致しているだけのことで、私のことではないだろうと思ったからだった。では私ではないと思った理由はなにかといえば、いま、この瞬間において、私に声をかけてくる相手の心当たりがまったくなかったからと、その声にあまり馴染みがなかったからだった。


 その声の主に対して、とくべつに応えたくない理由があったとか、なにか悪意や、それと呼ぶにはもっと些細な棘みたいなものがあったとか、そういうことではないのだ、ということを、私は弁解するべきかどうかを、三度目の声で振り向いた先にいた南山さんの、あからさまに不機嫌な顔を見てから数秒間考えた末に、結局はなにもかもを言葉にすることをしないまま、だまってうつむいたのだった。

 うつむくと必然、足元が見えるわけで、そこには私のローファーがあった。あらためてまじまじとそれを見たとき、そろそろ新しいものを買ったほうがよいかもしれない、とふと思った。大事に履いているというほどではないけれど、粗雑に扱っているわけでもない。しかし、もうそれを購入してどのくらいたつのかを思い出そうとして、はっきりと思い出せない程度には履き続けているものだから、つま先の、さきほどもとんとんと床を叩いたけれど、そうしたときについたであろう、小さな傷のいくつかが、いつの間にかいくつもついていた。そのつま先の傷を、横目でうかがうようにして、タイルの目地をぬって、クロオオアリがどこかに向かって歩いていくのを見た。

 ぱたん、という音は、冬の近い乾燥しきった空気にあって高々と鋭く響き、私がさきほど、自分で同じような音を立てて、はっとしたそのときよりも大きな音だったから、私は今度こそ、それを合図にして蛍光灯がいっせいに灯るのではないかと思った。でも実際はそんなことはなかった。

 顔をあげるとすでに上靴を脱いだ彼女が、今しがた音を立てた靴に履き替えようとしているところで、片方を履き終えた彼女と目が合った。彼女は薄ぐらい昇降口にどこかから差し込む、うすだいだい色の光よりも、もっと明るくて軽やかな髪の色をしていた。開け放したままの昇降口の扉からふきこむ風にさらさらと流れて、ふわっとうきあがるようなその色がきれいだと私は思った。

 昇降口に私たち以外に人の姿はなく、もしかしたら私たちが、今日この学校から、最後に出ていく人間なのかもしれないと思ったけれど、吹奏楽部の演奏する金管楽器のうちのなにか、たぶん、ホルンの音が上階から聞こえてきて、そんなことはないとわかる。それらの楽器がひときわに大きな音を奏でたときに、それを合図にしたみたいに、ひときわにつめたい風が吹き込んできて、南山さんの髪の毛と、首元にまかれた深く赤い色のマフラーを揺らした。

 南山さんはマフラーを手で抑えながら私から視線を外して、ふたたび靴を履く動作に戻ったのだった。私はうつむくことをせず、彼女が靴を履く様を、ただ見ていた。もっと正確に言うならば、その動作の中でやわらかく揺れる、彼女の髪と、マフラーとを見ていた。

 なに、と南山さんが問う。

  私は彼女をずっと見ていたはずなのに、彼女がいつしか靴を履き終えて、ふたたび私のほうを見ていることに、その言葉が耳に届くまで、まるで気づくことができなかった。

 それは、彼女の明るくて軽やかな髪の色と、マフラーの深い赤色の対比が美しいと思ったせいかもしれないし、もしくはひえびえとした空気と、西向きの窓のどこかから、あるいはすべてから差し込む、うすだいだい色の陽光と、灰色のアスファルトと、象牙色の校舎の床と、床の上に置かれた唐茶色の彼女の鞄と、朽葉色のくすんだ靴箱と、そこにずらりと居並ぶ上靴や外靴と、常盤色の掲示板と、そこに貼られている防火ポスターと、そういった、ここにあるなにもかものなかにあって、彼女の髪とマフラーと、寒さのせいか、それとも化粧をしているのか薄紅の差した頬と、そのむこうがわから感じられる白白とした肌と、濃紺色のコートと、そういったような、南山さんを構成する、彼女のひとつひとつが、とびきりきれいだと思ったせいかもしれなかった。

 それでも、私はなにも言わなかった。

 そもそもが、声をかけてきたのがむこうからだったのだから、私のほうに、彼女に対して、なにかかけるべき言葉があるわけではなかった。南山さんはちいさく、でも私に聞こえるくらいの大きさで舌打ちをしてから、床に置かれた鞄を手に取ると、さきほど私がしたのと同じように、二度ほどつまさきでコンクリートを叩いて、私に歩み寄ってきた。

 南山さんは私よりも、かなり背が高い。集会などで背の順に並ぶと、私はいつだって前から五番目のうちにおさまっていて、南山さんは後ろから五番目のうちにおさまっていた。だからその顔から目をそらさずにいると、自然と私は視線を持ち上げなければならない。

 私の目の前、見上げると言ってもいいくらいの視線の角度になったところで、彼女はぱたと立ち止まって、私の顔を、目を、しばらく見つめてから、色かたちの良いくちびるをゆがめて、二度目の舌打ちをしたあとで、帰る、とだけ言った。私もまさに今、帰るところであったから、頷くだけ頷くと、彼女は私の横を、ローファーのかかとをコンクリートに打ち下ろして、こつん、こつんと、わざとらしく音を立てながら通り抜けていったので、私はその姿を目だけで追った。

 南山さんはそのまま、五歩ほど足を進めてから、校舎と外界との、学校とそれ以外との、ちょうど境界のあたりで立ち止まって、振り向いて私を見た。

 帰るよ、と。

 それは私に帰宅をうながしているのだと、そこでようやく、気づくことができた。


 南山さんについて私がしっていることは、あまり多くはない。私は、というよりも、学校の誰しもが、南山さんのことをきっと、ほとんど、なにもしらない。クラスメイトも、クラス委員長も、生徒会の役員も、先生たちも。

 南山さんはもともと、あまり、というより、まったく、学校にきていなかった。

 今のクラスになって、半年どころか残りを数えたほうがよほど早いという時期にあって、私はクラスメイトに南山さんがいることをしらなかったし、きっと私以外にも、そういう人間はいたに違いないし、もしかしたら担任の先生だって、すっかり忘れていたかもしれない。彼女の存在を気にしたことのある人間は、そのくらい誰もいなかったし、いないことが当たり前になっていたし、きっとそうやって、忘れられていることさえ、忘れ去られた日々が続いていくものだと、みんな思っていた。

 ただひとつ、教室のすみっこで空席のままになっていた机と椅子のことならば、気にしたことのある人は、もしかしたらすこしくらいは、いたかもしれないけれど。クラスの暗黙の了解みたいなものがあって、そこの席にはだれも、座ろうとする人がいなかった。

 つい一ヶ月ほど前に、南山さんが、本当になんの前ぶれもなく、ふらりと教室に入ってきて、つかつかと真新しい上靴の底で教室の床を鳴らしながら、まっすぐその席に座ったときには、その席に彼女が、むしろ人が座っていることにすわりの悪さを感じてしまうくらいに、彼女という存在は、いないことが当然であった。

 だから南山さんは、学校に友だちがいない。彼女が学校にきだした頃には、もうクラスはいくつかのかたまりにわかれていて、それぞれのかたまりは、どこか気まずさみたいな薄い膜を張って、努めてお互いに干渉しないよう、息をしていた。その膜は、薄くても強固なものであったから、いまさら新しく誰かを迎えるようなことを、どれも積極的にしたがらなかったし、だから彼女の孤立は、敵意からの攻撃ではなく、あるいはみんなはみんな、身を守るために防御した結果だった。

 とはいえクラスの中には、そのかたまりにくっつきそこねたものがいくつかいて、たとえばそのうちのひとつが私であった。

 昼休みにお弁当箱を持って誰かの机にいくこともなければ、ましてや誰かが自分の机にやってくることもなく、たんたんと栄養を摂取して、鞄から適当な本を取り出して、その中に書かれた文字を追いながら、五限の開始を待つ。

 そういったすごしかたを私はしていたし、私以外にもいく人か、かたまりにくっつきそこねたあぶれ者はいて、そういった存在は、イヤホンで耳をふさいだり、机にふせって寝ているふりをしたり、それぞれにかたまりとおなじような膜を自分のまわりだけに張って、もはや積極的に、孤独であろうとするのだった。

 そんなところに、なぜ南山さんがいまさらやってきたのか、その理由なんて私はしらないし、しる機会もないだろうし、さほど興味があるわけでもなかった。

 そもそも南山さんが、なぜ学校にきていなかったのかもしらなかったし、しる機会もないだろうし、やっぱり、さほど興味があるわけでもなかった。学校の外に南山さんの友だちがいるのかどうかも、私はしらないし、しる機会もないだろうし、さほど興味があるけでもなかったけれど、彼女は髪を、金色と言うにはすこしくすんだような、明るくて軽やかな、ちょうど今の夕日みたいな、うすいだいだい色に染めていて、それぞれの耳には二つずつピアスがついていて、頬のチークはやや濃い目で、制服は原型がわからないくらい着崩していて、そんなふうな、わかりやすいたぐいの派手さは、しかしよく似合っていると私はひそかに思っていたし、だからその姿が堂に入っているさまを観ると、学校の外に同じように、わかりやすいたぐいの派手さをまとった、仲の良い誰かがいてもおかしくはないだろうとも思っていた。しかしこの学校の中においては、もうすでに、誰も彼もが、それぞれに張った膜をあえてやぶろうとしない中においては、私や、ほかの誰かと同じように、自分の周りにだけ膜を張って、自分だけの孤独の中にこもって、その孤独を積極的に守っていくような、そんなすごしかたをするものだと、そう思っていた。


 南山さんと二人で歩く帰路に、会話はない。

 私は彼女が、どんな話に好意的な反応を示すのかをまったくしらないし、そもそも好意的な反応を得たいという気持ちもなかったから、口を開く理由がなかったし、彼女のほうも、私の好きな本がなにかなんてこともしらないだろうし、しりたくもないだろうし、そもそも私の好きな本の話をする道理もないのだから、きっと口を開く理由がなかった。

 それでも、となりを歩いている。南山さんは私よりずっと背が高く、私よりずっと足が長く、一歩一歩の歩幅だって、ずっと大きなはずなのに、私の、いつもどおりの歩く速度と、まったく同じ速度で、私のとなりから離れなかった。

 私と彼女のあいだには、そこにもう一人、見えない誰かがいるくらいの距離があって、まったくの他人を示すようなその距離と、同調する歩く速度とのあいだにある齟齬が、なんだかとても居心地が悪かった。彼女がどうしてそうしているのかがまったくわからなかったこともあって、私は不機嫌を自覚していたし、それ以上に困惑していた。

 横目でうかがったとき、南山さんは、空を見ていたのだと思う。

 彼女の視線が、正確になにを捉えていたのかは、私にはわからないから、その先にあったのは本当は空だったのかもしれないし、それよりも手前の山の端だったのかもしれないし、それよりももっと手前にあった、薄くたなびく雲だったのかもしれないし、紫がかったその雲の端を金色に染め上げている、陽光そのものだったのかもしれないし、まぶしい陽光の陰にひときわ暗く沈んだ山肌と、そこに立ち並ぶ鉄塔のシルエットだったのかもしれないし、もしかしたら、そのどれも、なにも、見ていなかったのかもしれないけれど、私は彼女が、昼と夕の境目で、自らのとるべき色を見失って、まぶしいくらいの無色をたたえる空を眺めているのだと思った。

 それはきっと、私がその空のことが好きだからで、私の好きなものを、同じ時間に、同じように見ている人がいるかもしれないという都合のいい想像の、その延長にある気持ちに違いなかったから、私は彼女が実際のところ、なにを見ているのか、そのことを確認したりはしなかった。かわりに私も、彼女の視線の先にある、私の好きな無色の空を見上げた。

 東から、じわりじわりと、夜が滲みだしている。濃藍色が色のない空を、同じ色で染め上げようとしていて、夕刻のだいだいがかった金色は、山際へと追い立てられていく。

 夕刻の色は、南山さんに似ている、と、となりに彼女がいるせいか、そんなことを思った。

 それは単純に、彼女の髪色が似た色をしているせいでもあり、また一日のうちで、その色をこうしてながめることのできる短さが、学校にほとんどきていなかった彼女とかさなって、余計にその印象を強めていた。だとするなら、あの、彼女に接する色のない境界と、そのむこうから彼女を追い立てる濃藍色の夜は、誰に、あるいはなににあたるのだろう、と考えた。

 彼女はそこに、誰を、なにを浮かべているのだろう。

 私は南山さんの横顔をちらりと横目でうかがった。答えにたどりつくには、私は彼女のことを、なにもしらなすぎた。

 彼女はまだじっと、同じところを見つめていて、それは自らの存在が消えていくところを、ただだまって、見届けているみたいで、私もそうしなければならないような気がしたから、また、空を見た。南山さんを見ていたのはほんのちょっとのあいだのことだったのに、空はすでに、またひとつ表情をかえていて、夜が足早に、山肌を駆けくだって、あたりをつつみこもうとしていた。

 丁字路に差し掛かったところで、私が足を止めると、南山さんはそのまま二歩ほど足を進めてから、私が立ち止まったことに気がついて、振り返って私を見た。私の家は、この丁字路を北に曲がってしばらく歩いたところにあるから、ここで曲がらなければならず、しかし彼女は、そのまま歩を進めたところを見ると、その家は、このまままっすぐ、歩いていったところにあるのだろう。

 なにを言うべきかと悩んだ。いま、学校からここまですごした時間のことを、なんと呼べばよいのかが、まったくわからなかった。

 帰路をともにする約束をしたわけでも、昇降口でそう、はっきりと口にしたわけでもない。会話を交わしたわけでもない。でも、同じ速度で歩き、同じ空を見ながら、同じ時間をともにしたことはたしかだったので、そのことになにか、言葉が必要だろうかと逡巡していると、彼女はただ一言、またあした、といった。

 だから私も、またあした、と返した。

 それは明確な自分の意志のもとで、なんらかの確信とともに発した言葉では、けしてなかった。彼女の声が私をつつんでいる膜に触れた瞬間、そこから不意にわきたったものであったけれど、だからこそ、いまこの場で、もっともふさわしい一言だったのだろうと納得した。

 しかし彼女がなぜか、それに対して、目を見開いて、あからさまに驚いたみたいな顔をしたので、私がその表情の真意をつかめずに首を傾げると、彼女はすこしだけ言いよどむ仕草を見せたあと、ちいさな声で、つぶやくように、声が聞きたかっただけ、と言ったのを聞いた。

 瀬川の声を、聞いてみたかっただけ。

 南山さんはもう一度、同じ意味の言葉を、今度はいくらかはっきりと、さっきよりも大きな声で口にして、照れたように微笑んでみせた。

 夕刻の、陽の光と同じ色をしていて、それに照らされてとけていってしまいそうな彼女の髪の一本一本と、薄暮の中で、より深く赤い色をしたマフラーが、彼女の笑みにあわせてふわりとゆれた。彼女の薄紅の差した頬と、そのむこうがわから感じられる白白とした肌は、落ちていく陽を背負って、陰の濃く落ちたなかでも、それでもはっきりとわかるほどで、濃紺色のコートは、夜をいちはやく迎え入れて、彼女をさらっていくかのようで、そういった南山さんの、彼女を構成する彼女のひとつひとつと、そんな彼女の、なにかとてもうれしいことがあったみたいな笑顔が、私はなによりも、とびきりきれいなものだと思ったし、それがもしかしたら、私という存在によって生まれたのかもしれない、なんてうぬぼれに似た考えがよぎると、急に心臓がはねあがって、呼吸が苦しくなったみたいな心地がした。

 またあした。

 南山さんがもう一度、そう言った。だから、私ももう一度、またあした、と返す。

 そのとき、私はもしかしたら、笑っていたかもしれない。南山さんの笑顔が、よりはっきりとそれとわかるくらいに、はじけたのを見たから。

 心なしか軽やかな足取りで踵を返した彼女の背中と、ゆれる髪とを、すこしのあいだ見つめてから、彼女に似た夕刻の色を、空にもういちど探した。けれどそれはもうすでに、ほとんど消えかけてしまっていて、西の空の山の端には、色を失った空が、もうすっかり、夜を待つばかりで、濃藍色をなすすべなく、うけいれようとしているところだった。

 視線を落とすと、遠ざかってちいさくなった南山さんの背中が見える。私はその背中にむかって、本当にひさしぶりに、幼い頃、仲の良かった誰かにそうしたみたいに、ちいさく、ひかえめに、手を振った。それはかすかに、衣擦れの音を私に届けたけれど、そのかすかな、ほんのちいさな物音なんて、ぜったいに聞こえないはずだったのに、そのとき、彼女がふっとふりむいて、まだここに立ったままの私と、ささやかに持ち上げた私の手を見て、またすこしだけ驚いてから、彼女は私よりもずっと大きな素振りで、手を振ってみせた。

 そのとき、ぱちんと聞こえた気がした音が、どこから聞こえたのか、私にはわからなかった。その音とともに、風が髪をなでつける感触や、まわりの家からの夕餉のにおいや、そういった私の周りの世界が急に、ほんのすこしだけコントラストの高まったみたいな感覚が、いったいなにから生まれたものなのか、私にはわからなかった。

 ふたたび背中を向けて、歩きだした南山さんの髪は、夜になろうとする空とはもう、まったくべつの色をしていて、その色はとても、さっきまでの空よりも、今の空よりもずっと、きれいな色だと思えた。

 あした。また、あした。

 あしたもまた、南山さんと空を見ながら帰るのだろうか。彼女によく似た色の空を、彼女のとなりで。

 そうして、あしたもまた、そのつぎの日もまた、またあした、と日々をつむいでいって、今履いているローファーを、新しいものに履き替えたくらいのころには、南山さんが学校にこなかった理由だとか、学校にくるようになった理由だとか、彼女の好きなものだとかを、知りたいと思うことや、私の好きなものを彼女に教えたいと思うことが、あるのだろうか。

 その想像はひどくおぼつかなくて、輪郭も手触りもひどく曖昧で、そのくせに変に重たいような、座りの悪い心地がした。でも、それが本当になったとしても、今日だけのほんの気まぐれで、全部ただの想像だけで終わるものだとしても、これからずっと、あしたのあしたの、そのまたあしたの、ずっと続いていく日々のさきに、そのとき南山さんが、私のとなりにいなかったとしても、夕刻に空を見上げるたびに、私は彼女のことを、今日の彼女の髪や、頬や、マフラーや、コートや、私にむかって振ったてのひらや、そういった、今日の彼女を構成した彼女のひとつひとつを、なんどもとりだしてはながめるのだろうと、そんな確信があった。

 頭上にあった街灯にぱっとあかりが灯って、私の足元に色の濃い影を落とした。道にそってつらなったそれの先で、彼女の背中がだんだんと遠ざかっていくのを見ていた。もう一度振り返るかもしれない、と思ったけれど、そのときにまだ、ここに立ったままの私を見られると嫌だったので、私もくるりと踵をかえして、私の家に向かって歩きだした。

 うつむいて歩いていると、となりに南山さんがまだいる気がして、この帰り道が終わらなければいいのに、とすこしだけ思った。

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シーグラスと虚像 風遊(ふゆ) @kazeasobu

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