だいきらい

 わたし、赤い車が苦手なのよ。

 と、いつか彼女が言っていたのを思い出したので、赤い軽自動車を買った。それはまったくの赤よりも、ほんのわずかに暗い色のまじったもので、緋色と言ったほうがちかいもので、きっとこの車でなにかを、だれかを、たとえば彼女を、轢いてしまったとしても、その血がついていることに、だれも気づくことはないだろうと思った。

 家から出てきた彼女は私の車を見て、本当に、心からとてもいやそうな顔をした。運転席から、助手席側の窓をあけると、彼女のおおきくはきだしたため息が聞こえてきた。

「のりなよ」

 私は彼女のそう言ったけれど、彼女は首を横に、おおきくなんども振った。

「わたし、赤い車が苦手なのよ」

 知っている。いつかそう言っていたのを聞いたから。だから、私は赤い車を買ったのだから。それがいつ、どのようなときに聞いたものかは覚えていなかったし、おそらく彼女も、私にそんな話をしたことさえ忘れているだろうし、だから私が、なぜ赤い車を買ったのか、彼女にはたぶんわからなかった。

 私はほんのすこしだけ、そのことがおかしくて笑いそうになって、でも彼女にへんに思われたらいやだから、笑わないように、口元をぐっとひきしめた。

「でも、これにのらないと、どこへもいけないよ」

 私がそう言っているあいだも、彼女はなんどもなんども、首を横に振りつづけていた。

「赤い車にのるくらいなら、どこへもいけなくたって、わたしけっこうだわ」

 かたくなに、彼女はドアに手をかけようとさえしなかった。目をぎゅっとつむって、なるべく車の赤い色が目にはいらないようにしているみたいだった。

「なぜ、そこまでいやがるの?」

 自然ななりゆきとして、あたりまえの疑問として、私は彼女にそうたずねた。たずねておいて、しかし彼女は、自分のことについて語ることをあまりしたがらないから、なにかこたえらしいものがかえってくることは、期待していなかった。

「むかし、わたし、犬をかっていたのよ」

 でも彼女は、そんな私の考えをよそに、もったいぶるそぶりも、ためらいも見せずに、ぽつぽつと語りはじめた。それは、そうまでして、この車にはのりたくないのだという、意思のあらわれに違いなかった。

 私は彼女の話に、さほど興味はなかったけれど、とりあえずはその話の続きに、耳をかたむけることにした。

「しろくて、毛並みのよい、ながい毛をふさふさとたなびかせて走る、ちいさな犬だったわ。ふだんは家のなかにいて、窓辺のソファが、お気にいりだったのよ。ソファのうえで丸くなって、よく、おひるねをしていたの」

 彼女が犬をかっていたことを、私はそのときはじめて知った。彼女はきっと、犬よりも猫をこのむだろうと、私はかってに思っていたので、かなりおどろきがあった。

「でも、ある日、玄関をあけたら、するりとそこから、外に出てしまったの。あっ、と思ったときには、もう道路に飛び出していて、あぶないってさけぶよりもはやく、走ってきた車に、はねとばされたわ」

 それを聞きながら、私は頭のなかで、ちいさくて毛並みのよい白いかたまりが、車にはねとばされたところを想像した。白い毛はきっと、赤くぬれて、なびいていた毛はべたべたになって、アスファルトの上に横たわるそれは、とてもいたいたしいものだと思えた。

「その車が、赤い色をしていたのよ。だから、わたしは、赤い車を見ると、あの子と、あの子がはねられたときのことを、思い出してしまうのよ」

 話しているあいだ閉じられていた目をひらいて、しかし目にはいったこの車の色に、また目をとじてから、彼女はまた首を横に振った。さっきよりもおおきなため息がひとつ聞こえて、それで話はおしまいみたいだった。

 それは赤い車が苦手になった理由として、とても納得できるものだったので、私はこれ以上、彼女を車にのせようとするのは、あきらめることにした。

「だったら、この車には、のれないね」

「ええ、そうね。ええ、だから、わたしのことは、ほうっておいてちょうだい」

 彼女はくるりと踵をかえして、わかれの挨拶をする間もなく、家のなかへともどっていった。私はその背中を見とどけてから、がちゃがちゃとレバーをうごかして、アクセルをふんだ。

 そのとき、どこかの家から、なにか、白いふさふさとしたかたまりが、ふいに車の前に飛び出してきた気がした。

 私はブレーキをふもうとして、しかしそれをせずに、いっそアクセルをふみこんだ。

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