蛹化する風
亜麻子のお姉さんの名前は
お葬式を途中で抜け出してきたらしい亜麻子は、いつもの河川敷に膝をかかえて座り込んでいた。近寄った私のふみしめた枯れ葉のたてた音に振り向いたとき、よっ、と片手をあげて、いつもとなにも変わらない感じで投げかけてきた声はやけに軽やかだった。あたりには木の一本もなく、私のふみしめた枯れ葉がどこからやってきたのかはわからなかった。
亜麻子のいつもどおりのふるまいについて、本当にいつもとなにも変わっていなかったのか、それともつとめてそういう感じを与えようとしていたのか、私には判断できなかった。私が亜麻子の表情の、眉の角度や眼球の動きや歯の覗き方なんかを仔細に観察しているあいだ、亜麻子は訝しげに私のことを見ていた。
風がふいてさっき私のふみしめた枯れ葉が巻き上げられるまでそうしていた。きっと同じようにして、枯れ葉はここまでもやってきたのだろう。私の気がその枯れ葉のほうにそれたのを合図にしたみたいに、亜麻子は首をかしげてからふっと笑って、自らの隣の草を二、三度手のひらでたたいた。
私はその顔と仕草にうながされて、観察することをやめてそこに腰をおろした。亜麻子は満足げにうなずいていた。
「どうかした?」
見上げた空に雲のひとつもなくて、それでも今夜の日付が変わる頃からは雨が降るらしいと、今朝方の天気予報で見たことを思い出していたら、亜麻子はそんなふうに言った。まるで自分には、話すような出来事などなにも起こらなかったみたいな言い方だった。自分をふくめて、まわりはどうもしていないというふうな。
一瞬、亜麻子のお姉さんが死んだことは、私の勘違いだったのかもしれないと思った。そうして、亜麻子は本当になにごともなくて、本当にいつもとなにも変わっていなかったのかもしれないと思った。
でも亜麻子の服が、いつもの亜麻子なら着ないような、上下とも真っ黒なものだったので、それらは全部、それらのほうが、勘違いなのだとわかる。
「どうもしない」
私はハナが死んだことを亜麻子には言っていなかったし、今も言わなかった。亜麻子にそれを話すことで、お姉さんの死と私の犬の死と、そのふたつの重さを抱えさせたくはなかった。そのふたつの重さについて、無意識にでも天秤にかけるようなことをしてほしくなかったし、私もしたくはなかった。それなのに、私は亜麻子のお姉さんの死を知っていて、亜麻子は私の犬の死を知らない。それがどうしようもなく、不公平なことのように思えた。私はその居心地の悪さをぐっと飲み込んでいた。
「お葬式は?」
私がたずねると、亜麻子はきょとんとしていた。その質問をまったく予想していなかったみたいな顔だった。私の目をまじまじと覗き込んで、ぱちぱちとまばたきをしたあとで、ようやく腑に落ちたみたいに、小さく息をはいた。
「見たくないよ」
亜麻子の視線が川向こうにある山のほうを向いた。この町の火葬場はその山のふもとにあって、さっきここにくる前に、亜麻子の住む家から、長い黒い車とバスが出て、そっちのほうへ走っていくのを見ていた。
「お姉ちゃんが燃えるところなんて」
山のふもとから煙のあがっている様子はなかった。この河川敷からそれが見えるのかもわからなかった。雲ひとつない空に、それが見えるとしたら、とても目立ってしまうだろうと思った。
亜麻子は山から視線をそらして、目の前を流れる川の水面の、波打って陽の光をちかちかと反射してまぶしいさまを見た。私はまだ山のふもとを見ていた。 亜麻子は背の低い草のやわらかな先を何度か弄ったあとで、その根本に転がっていた小石を拾い上げて川面に向かって投げた。
私はその向こうの山を見ていたので、その小石が川に落ちるところを見なかった。小石が落ちたときに水の跳ねて立てる音に耳を澄ましていたのに、それはほんのわずかにも聞こえなかった。川の止まることなく流れて、底にある石や草にあたって奏でる音はざあざあとやかましかった。
亜麻子のお姉さんについて、私はあんまり詳しくは知らない。なんで死んだのかも知らない。話したことは数えるくらいしかなくて、亜麻子よりも三つ年上だったくらいのことしか。亜麻子からお姉さんの話が積極的に出てくることもなかった。亜麻子と仲が良いのかも知らなかった。
ただひとつだけ覚えていることがあって、私と亜麻子が六歳のころ、どこかで買ってきたのか、それとも自分で作ったのかはわからないけれど、ふいに私たちが遊んでいるところにやってきて、木と紙でできた風車を私と亜麻子にひとつずつくれた。
私たちはそれにとてもよろこんで、お姉さんへのお礼もおざなりに、いさんで外にかけだした。私たちが走ると風車は風をうけてからからからと音を立てながらくるくるとなめらかにまわった。私は走ることが得意ではなかったけれど、まわる風車を見ていたらどこまでも走れるような気持ちになった。
ハナもその風車が好きだった。私は風車をもらってから何度かハナの散歩のときにそれを持ち出して、この河川敷でハナと一緒に走って風車をまわした。だからハナは、私が風車を持っていると、今日は走り回って良いのだと感づいて、飛び跳ねるみたいに私に近寄ってくるようになった。
「風車」
「え?」
「前に、お姉さんがくれたやつ」
亜麻子はすこし考えてから、それのことを思い出したみたいだった。
「気に入ってたね」
「うん。私より、ハナのほうが」
「ときどき、見かけるよ」
「そうなんだ」
しかし風車は、もう私の手元にはない。ハナと一緒に土の中に埋めた。風車がくるくるとまわるところを見たら、ハナと一緒に走り回ったことを思い出して、悲しくなってしまいそうだったから。
あるいは、風車をくれた亜麻子のお姉さんと、風車が好きだった私の犬とが、おなじ日の、ほとんどおなじ時刻に死んだという、ただそれだけのことに、もっと特別な意味を持たせたかったのかもしれなかった。
「私のは、壊しちゃったな。ころんで」
亜麻子は顔をふせたままそうつぶやいて、またひとつ小石を川面に向かって投げた。今度はその小石がゆるい放物線を描いて、川に落ちるところまでを見ていた。
小さく水の跳ねたことはわかったのに、そのときの音はまわりの、草や川や風の沈黙に比べたら、あまりにも些細なものだったので、やっぱりなにも聞こえなかった。
それらの沈黙のなかに、もしかしたら風車のまわる音がまじっていたとしても、気づかないくらいに。
「もういくね」
亜麻子がふいに立ち上がって、黒いスカートの裾を何度か手のひらではらってから、まだ腰をおろしたままの私を見下ろして言った。私は川向こうの山のふもとを見た。煙はまだあがっていなくて、そもそもあがるのかもわからなくて、あがるとしたらどのあたりなのかも、はっきりとはわからなかった。
亜麻子も私とおなじところを見ていた。私の顔の横に亜麻子の手があって、それがぎゅうと力いっぱい握り込まれるのを見た。
「風車」
亜麻子はなんでもないふうな声をしていた。震えてもおらず、うわずってもおらず、ふだん私に話しかけるときとまったくおなじ軽やかさに感じた。
「見たらお姉ちゃんのこと、思い出すかも」
亜麻子はそれについて、良いこととも悪いこととも言わなかった。私にまた、風車をまわしながら走ってほしいのか、私にもう、風車をまわすことをしないでほしいのか、それによってお姉さんのことを思い出したいのか、思い出したくないのか、言葉にすることはしなかった。
しかしどちらにせよ、私にはもう、選択することはできない。お姉さんがくれた風車はもう、ハナと一緒に土に埋められていて、二度と風を受けてくるくるとまわることはない。
私がなにか言うよりもはやく、亜麻子は駆け出していた。あっという間に小さくなっていくその背中を、私は追いかけたりはしなかった。
取り残された私は川向こうを見ている。うっすらと、細い煙がたちのぼっている気がした。気のせいかもしれないし、本当に今、あそこで、亜麻子のお姉さんが燃やされているのかもしれない。それは空気とないまぜになって、ひとかたまりの風になると、草をゆらすのとおなじように私の髪をゆらした。
川の止まることなく流れる音は、風車のまわる音とはあんまり似ていないことに気がついた。風のふくたびにその音を探しても、ここには、どこにも、もうあの音が聞こえることはなかった。
私は立ち上がると、亜麻子とは逆の方向に走り出した。風車を持っておらず、となりにハナもいないので、どこまでも走れるなんて気はもうなんにもしなくて、あっという間に息が上がって苦しくなった。
それでも足を止めることなく、心臓がはじけてしまうまで、このまま走り続けたかった。
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