音もなくしずんでいく
夏祭りにはいきたいね。それに、キャンプにもいって、夜に花火したり。プールにいってウォータースライダーもしよう。空調のきいたすずしい図書館で宿題を片づけたり。そういう、夏らしい、夏のたくさんのことを、たくさん、いっしょにしたいね。
人の姿の、私たちのほかにはひとつもない海岸で、まだ、夏の姿が、遠くの水平線におぼろげにさえ見えていなかったころに、彼女はその水平線のさきの、入道雲のなりそこないのあやふやな輪郭から、夏のかけらを探すみたいな目で、そう言いながら、そのひとつひとつについて、ありふれた、夏らしい夏の、夏らしい願望をひとつあげるたびに、そのしなやかな指先を音もなくおりたたんでいった。
虫とり、魚つり。旅行には、どこにいこうか。ときどき夕立ふられて、ずぶぬれになりながら軒先で雨やどりすること。汗をかいてすっかりぬるくなった麦茶のグラスを、ルールもよくわからない高校野球を見て、わけもわからずもりあがって、一気に流し込むこと。
そこまで言って、彼女はふいにだまりこんだ。すべておりたたんだ指を、ふたたびひらくことなく、その爪の先をじっと見つめて、それ以上なにかを願ったらいけないみたいな顔つきをしていた。まだいちばん大切な願いが残っているはずなのに、それをたしかな願いとして、音として、声として、口にしてしまうことで、質感を与えてしまうことをためらっているという感じだった。
秋まで生きること。
だから私が、彼女のかわりにそんなふうに、それまでの彼女が口にしていたような、ありふれた願いのひとつであることを、それらに連なるものの、たわいないひとつであることを、ことさらに意識して口にすると、彼女はすこしだけこまったように、とまどったように、あるいはあきらめたみたいに私のほうをみてから、そうだね、とほほえんで、ひとさしゆびをぴんとのばした。
おたがいにね。
私は答えなかった。それがわかっていたように、彼女はそれ以上はなにも言わずに、私から目をそらして、また水平線のさきを見つめた。
春の黄昏を映す瞳は、夏がくることを願っているのか、それとも、夏がこないことを願っているのか、私にはわからなかった。
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