この声がこわれたら

 母が耳に当てた受話器からどういう話を聞いていたのか、となりにいた私の耳にもかすかに届いていた声はしかし、それが女の人のものだとはわかっても、意味をとるにはぼやけすぎていてわからなかったし、母が通話口にむかって話している内容も、聞いたことのない言葉がずらずらとならんでいて、私にはなにもわからないものだった。でもたぶん、良い話ではないのだろうということだけはわかった。そのときの母の顔が、あんまりこわいものだったから。

 私は母のエプロンの裾をぎゅうっとつかんでいて、母はそのことに気づいていたのか、木綿の萌黄色をしたエプロンの裾の、そのところだけがしわくちゃになって、あとでアイロンをかける必要があることに気づいていなかったのか、わからなかった。ただいちどだけ、受話器からの声も、母の口からの声もきゅっとおしだまったときに、私の顔を見たときがあって、そのときだけは、なんだかかなしそうな顔をしていた。そしてひとことだけ、あっちへいっていなさい、といつもみたいなやさしい声で、しかし私から母になにか、母がいま話していることについての質問だとか、しわくちゃになったエプロンについての謝罪だとか、そういったことさえ、ひとことも話しかけてはいけないというみたいな、きびしさをふくんだ感じで言った。

 私は、だからだまったままで、ぶんぶんと、つよく首を横にふった。エプロンから手をはなしてしまったら、母がなんだか、その瞬間に、すごく遠くへいってしまうのではないかと、そんなおそろしさを感じていた。そのおそろしさは、輪郭もおぼつかなくて、かたちも色も味もにおいもわからないような、ふわふわとした不安だったけれど、ずしりと、変にいやな重さとしめりけがあった。

 ひときわに力をこめてにぎりしめたエプロンの、そのところがしわくちゃになっていることに、母はそのときにはじめて気づいたみたいで、ちいさくひとつため息をついた。私があやまろうとするよりもはやく、受話器の向こうからまた声が聞こえてきて、母はそれまで私に向けていた顔がうそだったみたいな、ものすごくおこった顔と声で、それでもしずかに、話しだしてしまった。もしかしたらその、母のおこっていることのどこかに、私がいうことを聞かなかったり、エプロンにしわをつくってしまったり、そういった理由がふくまれているかもしれないと思って、泣きたくなってしまったのを、またすこし、エプロンをつかむ手にぎゅっと意識して力をこめてたえた。

 母の電話は、とてもながかった。そのあいだの母の顔と声にはずっと、ぎゅうぎゅうにはりつめた風船にさらに空気を送りこんでいるような緊張とこわさがあった。それでも母からはなれたくはなくて、でもたのしいことだけを考えていたくて、頭のなかですきな歌を、明るいばっかりの歌を、なんどもなんども、なんどくりかえしたのかわからなくなるくらいに長かった。

 なんどめかもわからない歌の途中で、かちゃん、とちいさな音をたてて母は受話器をおいた。その音に顔をあげた私と、母のうつむいた目とが合って、そこにはさっきまでのおこっていた顔のほんのすこしのおもかげと、あたらしくうかべたかなしみと、なぜだかわからないけれど、ひどく安心したみたいなため息とをまぜあわせた顔をしながら、わらってみせた。

「すこし出かけてくるわね」

 母は私の頭に手をのせて言った。本当に、とても嫌だと思ったけれど、それはもうすでにきまってしまったことで、私がどれだけ嫌だと言っても、けしてくつがえることはないのだろうと、なんでかわかってしまったので、私はなにも言わなかった。そんな私に、母は満足そうにして、頭にのせた手でゆるく私をなぜた。

「良い子でおるすばんをしていてね」

 母の言葉に、私はずっとにぎっていたエプロンの裾をはなした。えらいわね、と母は言った。エプロンの裾にできたしわを、母は直そうとはしなかった。

 いつもなら、母は出かけるとき、そうときめてから、お気にいりのアニメをひとつ見終わるくらいの時間をかけてしたくをするのに、そのときの母はアニメがはじまって、半分も終わらないくらいのときにしたくを終えて、あわただしく出ていった。私はリビングにひとり残されて、まだテレビからはお気にいりのアニメが流れていたけれど、それはもうなんども見たものだったから、覚えてしまったセリフのいくつかを背中で聞きながら、リビングから玄関をのぞきこんで、しんと静まりかえったそこのドアを見た。

 そのむこうを想像さえさせてくれない、おもたげでくらい色をしたドアは、もうこのさき、にどと開かないのではないかと、そう思ってしまうくらいにじっとだまりこんでいて、私はひどくこわくなった。

 リビングから玄関にむかう廊下の途中に、さっきまで母がつかっていた、電話機がある。私はテレビをつけたままリビングを出て、その電話機のところへむかった。電話機のとなりにはまるい椅子があって、私はその椅子の上にたつと、受話器をもちあげた。

 耳にあてれば、母がどこへむかったのか、誰かが教えてくれるんじゃないかと、そんな気がしたのだった。

 母の手のなかではちょうどよいくらいの大きさだった受話器は、私の手には大きすぎて、耳にあてようとした瞬間に、手からすべりおちて、椅子のへりにいきおいよくぶつかって、とてもおおきな音をたてた。

 椅子からおりて、ひろいあげた受話器には、ちいさなひびがはいっていた。そこからいろいろな音が、さっきまでの母の声や、この受話器にむかって、これまでに話しかけられた言葉のかけらたちが、さらさらとこぼれおちてしまったと思った。

 あわてて耳にあてたけれど、そこからはなにもきこえなかった。なにも。

 もう私は、にどと母の声を聞くことができないのだと、そう思った。

 声をあげて泣いたけれど、ひびのはいった受話器は私の声を誰かにとどけることも、なにもしなかった。

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