悪魔

 犬を飼っていたの。


 あなたはそう言って天井から窓へと視線を向ける。見つめていた天井には小さな黒い羽虫が一匹、真白の中にぽつんと張り付いており、あなたの視線が外れるのを待っていたように、音もなくあなたの目の届かないところへと飛び去っていく。窓の外には低く暗い雲が鈍く重苦しい様子で立ち込めており、いつもなら見える幾つかの山の峰を覆い隠している。

 遠雷が地に敷き詰められた家々の屋根を伝い、壁を伝い、窓を伝い、アスファルトを這って耳に届く。あなたは目を閉じて耳を澄ます。あとどのくらいでそれが頭上にやってくるかを考える。瞼の裏に羽虫が飛んでいる。それは白い色をしている。瞼の裏の赤黒い中で点ほどの小さな白いそれが羽ばたき、視界の端から端までを往来する。遠雷がまた聞こえている。峰を伝い、屋根を伝い、壁を伝い、窓を伝い、地を這ってあなたの鼓膜を震わせている。真黒の中に白い羽虫がぽつんと張り付いている。それは飛ぶことをしない。あなたは目を開ける。窓の外には低く暗い雲が鈍く重苦しい様子で立ち込めている。あなたの視界の端を黒い羽虫が横切る。あなたはそれを目で追うことをしない。


 どんな犬?


 遠雷に耳を澄ませていたあなたの耳に、その声は不躾な程に大きく聞こえる。あなたはその声の発せられた方を向く。彼女は首を傾げて微笑んでいる。ベッドの脇に置かれた簡素な丸椅子に座り、彼女は微笑んでいる。あなたの答えを待っている。あなたは自分の発した言葉を思い出そうとした。彼女の質問を何度も頭の中で繰り返した。


 犬を飼っていたの。


 あなたは確かにそう言ったことを思い出す。あなたがそう言ったから、彼女はそれについて質問したのだと思い至る。なぜ彼女は今更そんなことを尋ねたのだろうと思った。ほんの数秒前のことなのに。しかしあなたは飼っていた犬について、彼女に話をしたことはなかった。あるいは彼女に限らず、それについて誰かに、言葉として話をしたことはなかった。だからあなたは言い淀んでいる。それについて語るとき、一言目がどんなものであるべきかを知らない。彼女は微笑みながら丸椅子に座っている。あなたの言葉を待っている。


 あなたの飼っていた犬は、茶色い毛並みをした大きな雄の雑種犬だった。あなたは彼を、五歳のころから五年間飼っていた。大きな声でよく吠えるので、あなたは彼を鬱陶しいと時々思っていた。しかしそれは時々であって、ほかの大部分では十分に可愛がっていたし、好ましいと思っていた。彼もあなたによく懐いていた。

 あなたが十歳の頃の夏のある日、彼は散歩の途中で車に轢かれて死んだ。あなたはリードを手にしていた。あなたがリードから手を放した。彼は駆け出して車道に飛び出した。あなたは道路に横たわる彼の姿をよく覚えている。彼が車に轢かれたときの、けたたましく弾けた音を覚えている。首が見たことのない方向に曲がった彼の姿を。とくとくと流れる赤黒い血の色を。熱されたアスファルトから立ち上る鈍色の匂いを。あなたが手を放したリードの長さを。

 あなたはその日夜通し泣き続けた。母の手があなたの頭を撫で続けていた。あなたは彼の死体がどうなったのかを知らない。


 遠雷が聞こえている。あなたがそれを思い出したのは、その音が彼の低く唸ったときの声に似ているからだと気付く。雨が近いと気付く。彼女は微笑みながら簡素な丸椅子に座っている。あなたの言葉を待っている。あなたは未だ一言目を見つけられずにいる。彼女から目を逸らして窓を見る。低く暗い雲が鈍く重苦しい様子で立ち込めているその手前、小さな黒い羽虫が窓ガラスに張り付いている。あなたの視線がそれを捉えると、逃れるようにあなたの目の届かないところへと飛び去っていく。あなたは目を閉じる。瞼の裏に白い羽虫が飛んでいる。遠雷が聞こえている。羽虫の羽ばたくときの、ほんの微かな音をそれが掻き消している。近づいている。あなたのところへ。彼が。ゆっくりと。低く唸りながら。


 帰ったほうがいいよ。


 あなたは彼女のほうを向かないままに言う。彼女があなたから視線を外し、窓の外を見たのがわかる。空気が緩やかに波打つ。微かに。彼女の僅かな動きによって。


 雨が降る前に。


 あなたは言葉を続ける。彼女が丸椅子から立ち上がる。頼りないその細い足が床を擦ったときの高い音が聞こえる。あなたは窓の外を見ている。雲に覆われた先の峰に降る雨を想像する。遠雷が聞こえている。だんだんと大きく。近づいている。あの日彼が血を流した道路を這って、あなたの鼓膜を震わせている。彼の唸り声が。彼女が窓に近づき、開ける。風が吹いている。湿り気を帯びた風。小さな黒い羽虫が開けた窓から外へと飛び去っていく。あなたはそれを目で追うけれど、すぐに見えなくなる。


 そうだね。


 彼女が言う。彼女が窓を閉める。カーテンの裾がゆるりと一度だけ波打って止まる。彼女はあなたを見ない。丸椅子の脇に置かれた鞄を手に取る。


 また明日。


 それだけ言って彼女は去っていく。あなたは窓の外を見ている。去っていく彼女の足音が聞こえている。しかしすぐに聞こえなくなる。あなたはベッドに独り取り残される。目を閉じる。羽虫はいない。遠雷が聞こえている。それだけが聞こえている。今はそれだけを感じている。

 あなたは目を開ける。強い光が一瞬、白く瞬く。それから音が聞こえてくるまでの数秒間、思い出そうとする。

 あの日、どうしてあなたは、彼のリードから手を放したのだっけ。

 しかしあなたは思い出さない。思い出すことをしない。

 彼女が雨に濡れませんように。それだけを願っている。

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