空色のおわかれ

 海の向こうにね、わたしの国があるの。

 彼女はいつからか、週のうち二回はそんなことを言うようになった。私は彼女が、私とおなじ海の見える町にある、私の家の二軒となりで生まれたことをしっていたから、それは彼女なりの――どこがおもしろいのかわからなかったけれど――冗談なのだと思っていた。


 もうすこしで夏の足音が聞こえてきそうなころ、長く息をはくような、ただ止まないということに意味を見出そうとしているような、煮えきらない長雨が途切れて、やや色褪せた青空が週になんどか顔をのぞかせるようになって、そのときの太陽の日差しから確かな熱を感じられるようになってきたころ、道端のあじさいの花びらのすみが赤茶けた色に変わって、誰も見向きもしなくなるころ、そんなころの、ある一日に、立ち寄った砂浜にて「帰ることになったの」と彼女は言った。

 彼女の背後には海があって、薄く空を覆う雲間から、ときおり届くまっすぐな日差しを波間で受け止めて、乱反射したそれがちかちかと目にはいって、まぶしいと思った。

 どこへ?

 私はたずねた。海の向こうにある水平線を見つめていた彼女は私のほうを振り向いて、しかしなにも答えなかった。私の質問に失望したようにも、私の質問を想定していて、曖昧に笑ったようにも見えた。悲しんでいるようにも怒っているようにも、喜んでいるようにも見えた。彼女はなにも答えないまま、履いていたローファーとソックスを脱ぎ去って、もういらないというふうな、それらにまったくの興味をなくしたという調子で、砂浜に投げ捨てた。

 私は砂浜にひざをかかえて座っていて、なんとなく、手のひらで砂にふれた。それは熱くも冷たくもなく、体温くらいの生ぬるさは、その一粒一粒がふれたところから、私と溶け合おうとしてくるみたいな、居心地の悪さがあった。

 しかし彼女は全く気にしないそぶりで、足裏で砂の温度や感触を踏みしめてから、ゆっくりと一歩、踏み出した。

 彼女の踏み出す足の一歩ずつを、そのなめらかな素足に砂のまとわりついて、かかとからさらさらとすべり落ちていくさまをじっと見ていた。彼女の背中が遠ざかっていって、その素足の指先に波がふれるかふれないかというところで、彼女は立ち止まって、もう一度、私のほうへと振り向いた。

 失望していたのかもしれないし、悲しんでいたのかもしれないし、怒っていたのかもしれないけれど、彼女は曖昧に笑っていた。私へのそういった感情たちをすべて飲みこんだら、たまたま笑っているように見えただけかもしれなかった。

 私はなにかを言おうとしたけれど、そうするよりも先に、彼女はふたたび海のほうを向いて、身体をしなやかな流線型にしならせて、静かに、静かに、音も聞こえない美しさで、海に飛び込んだ。


 その日、私は太陽が完全に海の向こうに沈むまで、彼女が戻ってくるのを待った。彼女は海に飛び込んだまま、一度も顔を水面から出すこともなく、そのまま戻ってこなかった。

 もしかしたら、彼女は最初から、ここにはいなかったのではないかと思うくらい、その別れは鮮やかなものだった。


 次の日の砂浜にはもう、彼女の素足のあとさえ残っていなかった。なにもかもが、彼女のいなくなったままに、彼女がいないことで生まれた隙間をはじめから全部想定していたみたいに、なんの滞りもなく流れていて、今日もまた一歩、昨日よりわずかに上がった気温と、わずかにするどさをました日差しから、夏が近づいたのだろうとわかった。

 下校途中にながめた砂浜には、海の家の準備をしているらしい人たちがいた。私は遠目で彼らを見るだけで、砂浜に降りることはしなかった。

 別れの言葉を言い忘れた後悔さえ、夏がはじまったら、忘れてしまうのだろうと思った。

 彼女の脱ぎ捨てたローファーとソックスだけは、まだ砂浜にぽつんとあった。

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