6.忘失


 ときどき夢に見る、幼い頃の記憶がある。


『あの丘の上まで競争しよう』


 近所の男の子たちが言い出した。やめておけばよかったのに、彼らのにやにやした表情を見て、気の強いわたしは殆ど勝率のない勝負に乗った。


 はじめのうちは、わたしと背丈のあまり変わらない男の子たちの背中を必死に追いかけていた。だけど、だんだん引き離されていって、彼らの嘲笑は遠くなり、背中はやがて見えなくなった。


 それでも走って、喉奥に血の味を感じながら走って。ようやく丘の上についたとき、わたしを待っている人は、誰もいなかった。


 わたしの故郷は、治安があまり良くない。丘の上からは、西空に沈みゆく天の炎がよく見えた。


 頬を伝っているのが、汗なのか涙なのか分からないまま、わたしはまた走り出す。疲弊しきったか細い脚はもつれて、何度も転びそうになる。それでも前へ進むことを諦めずに、行かないで、とわたしは叫ぶ。男の子たちが駆けるより、ずっとはやく落ちてゆく炎に向かって。


 わたしの言葉は当然、届かない。背後から追いかけてきた夜闇が、わたしの肩をつかまえる。


 ……二年前までは、そんな、恐ろしくて悲しいだけの結末を迎えていた。


 でも違う。今では、違う。


 夜闇につかまりそうになったそのときに、背後から冴えたる輝きが差して。思わず振り返りそうになるわたしの耳元で、


『だいじょーぶ、そのまま行こう』


 誰かが軽やかな声で囁くの。


 足が軽くなるわけでも、呼吸の苦しさが和らぐわけでもない。だけどわたしは、そのまま走り続けることができて……そして、お母さんの腕のなかに帰りつくことができる。


 お月様の、見守る下で。





「アルラズは、俺の兄。双子の兄なんだ」


 そっか。だから、お顔立ちがそっくりなんだ。


 隣に浅く腰掛けた眷属様を窺う。出会ったときには「再会」だと信じて疑わなかったけれど、今はこの方とアルラズ様の違いを感じられる。はっきりしたものも、曖昧なものも。


 記憶の中のアルラズ様は、上にはノースリーブの黒いインナーに重ねて、襟がゆったりとした作りの灰色のシャツを。下にはダボっとした黒いパンツをお召しだった。とてもラフな格好だ。


 この方がお上品に着こなしていらっしゃる、フォーマルなお召し物。あの方だったら息苦しく感じるんじゃないだろうか。そう思った。


「兄さんは性質上、忘れっぽくて。どんなに大切で、どんなに覚えていたい思い出でも、いつの間にか遠ざかって触れられなくなってしまう。だから俺が代わりに『記憶』しておくんだ。兄さんが経験したこと、思考したこと、余さず全て」


 なんだか、不思議なご関係。


 わたしは俯いて、きっちり揃えた自分の膝頭を見つめた。その上に置いた両手をきゅっと握る。


「それでは、わたくしのことも……」


 当然のことだけれど、二年という時を経て、わたしの身体はそれなりに成長している。


 もし、わたしが今日お会いできた方がアルラズ様だったなら? きっと、わたしが恐れていた通りに名前を問われただろう。名前を問われることもなく、お別れすることになったかも知れない。


 それに。あの方は、ご自分が「忘れっぽい」ということを明かしてはくださらなかっただろう。既に忘れさった相手ならば、尚更……


「兄さんは、」


 心の空隙を覗き込むあまり、頭を突っ込みそうになっていたわたしを、澄んだ声が引きとめた。


「尊い選択だった、って言ってた」


「……え?」


「兄さんが捕らえた『闇を泳ぐ魔物』……御母堂の仇に対する、貴方の選択。その手を、暴力で痛めなかったこと。貴方の感情より、御母堂のご遺志を尊重したこと。

 ……俺も、兄さんに同感だ」


 瞳の奥が熱くなる。わたしは唇を細く噛んだ。


 どうしよう、また涙がこぼれてしまいそう。わたしが泣いたら、また眷属様にご心配をおかけしてしまう。たとえそれが嬉し涙でも、だ。


「貴方のこと。ティアニーリアの特待生の座を勝ち得て、聖都へ単身越してきたこと。日々図書館ここへ通い、粛々と学問に邁進していること。その心の片隅で、兄との再会を願っていることを、俺は知っていた。

 それが何故かについては、俺がそういう存在だから、としか答えられないけれど」


 わたしの声、どうか感激に震えないで。

 どうか上手に笑えていて。


「……だからこうして、アルラズ様に代わって、わたくしと会ってくださったのですか?」


「いいや。貴方と接触するつもりはなかったんだ。さっきも言ったように、偶然重なったいくつかの条件が、俺と貴方を引きあわせた……

 その条件を、もうひとつだけ明かすよ」


 す、と息を吸う、わずかな間。


「貴方の体内の魔力含有量が、とても少なかったこと」


 はっと、顔を上げた。


 誰もいないお庭。冬の眠りから目覚め、清水の駆け回りはじめた水路。日に日に春の気配が膨れ上がっていく、瑞々しい緑の園。


『体内の魔力含有量が、とても少ない』


 手の施しようもない、わたしの欠点。


 魔力無し、魔力無しと、何度もからかわれた。その度にわたしは悔しくて、落ち込んで、涙を流して……お母さんは、わたしを何度も励まさなければならなかった。


「俺にとって魔力というのは、主張の強い情報なんだ。特殊結界に迷い込んだのが貴方ではなかったら、侵入に気づいただろうし、その段階ではじき出していただろう」


 最愛の家族を奪われても、真実を見つけて欲しいと誰かに縋ることしか、できなかった。


「長い長い時を記憶してきたけれど、隠れ家にひそむ俺のところまで辿り着けたのは、家族以外には、貴方だけだ。そんな貴方になら……祝福の意くらい、伝えても構わないかなと、思った」


 まもなく幕を開ける学生生活にも、暗い影として付きまとうだろう、わたしの欠落は。


「合格おめでとう。ひたむきに努力を重ねる貴方なら、この先に続く、険しい夢路も越えることができる。正しいと信じるものの為に、励んで」


 この瞬間。この奇跡によって、報われた。


「……っ、うぅ、う……ぅわああああああぁ!

 っく、ああ、ああ、ああぁああ……!」


 声を張りあげて泣いた。


 眷属様がどんな表情をなさっているのか、わたしには分からなかったけれど。背中を優しくさするように、ふわりと甘い香りがして。わたしの子供じみた衝動を、眷属様が許してくださっている証のような、そんな気がした。


 ただ、ひたすらに泣いて。心臓にこびりついた劣等感を洗い流すくらいに、泣いて。そして。


 そこから、今まで言葉にすることの叶わなかった、わたしの本当の気持ちが現れた。


 やがて、涙が枯れ果てて。


「アルラズじゃなくて、ごめん。

 ……兄に伝えておきたいことは、ある?」


 眷属様にそう問われたとき、わたしは……

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