5.畏怖


 熱い涙が頬を伝っていくのを感じながら、はくはく、と唇を動かす。声が出ない。お母さんにアルラズ様への気持ちを伝えようとするときと同じ。再会が叶ったのに、伝えるべき言葉が見つからない。この涙の正体さえ分からない。


「……、」


 アルラズ様はお応えにならない。その手が、目元だけを探るように動く。わたしはその意味を知っている。お養父さんが咄嗟に、自分が眼鏡をしているか確かめるときの動き。細かい文字を読んだあとで、老眼鏡を外していたことを忘れて立ち上がったときによくする動きだ。


「…………、」


 沈黙のままに、アルラズ様は視線を伏せた。何かを思索していらっしゃるみたい。お顔に影を落としそうなほどに長くて、密生した銀色の睫毛が、うっとりするほどにお綺麗。


 …………銀色?


 そう、銀色だ。睫毛の色も髪色も、三日月のはなつ冴えた光のような銀色をしている。だけど、わたしの記憶の中のアルラズ様は。


 胸のうちに、違和感がじわりと広がっていく。


 ご体調がよろしくないのか、やがてアルラズ様は木椅子の背凭れに手をつきながらゆっくり、それでいてスマートに立ち上がった。


 黒いスラックス、黒いシャツ、アイボリーのカーディガンにダークグレーのジャケット。


 きっちり締めた臙脂えんじ色のネクタイの位置を片手で直してから、美貌の眷属様はどこか寂しげに微笑んだ。


 唇が、ひらく。

 わたしに、お言葉をくださる。


『わりー、誰だっけ?』


 再会のときを待ち侘びながら、ずっと、そう言われることを恐れ続けてきた。

 でも、


「いつか、こんな日が訪れるんじゃないかと思ってた」


 うつつの世界でわたしに送られたのは、


「母さんからもらった名前を、覚えていてくれてありがとう。貴方あなたのことは、よく覚えてる。でも、ごめん」


 とても、とても、優しい声だった。


「『はじめまして』、シエラ・バーンネル嬢。

 貴方にとって、これは再会じゃない。俺は、アルラズじゃないからね」




 扉をひらいた先は、図書館の中庭だった。


 一足先にお日様の下に出させてもらったわたしは、すぐに振り返る。眷属様の手で閉め切られるなり、扉は消えてしまった。色鉛筆で描かれた絵を、上から消しゴムでこすって消したみたいに。後には白紙が、図書館の外壁が佇んでいるだけ。


 眼を丸くし、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。はっと我に返って辺りを見回すと、眷属様は枝葉の整えられた低木の傍らにいらっしゃって、やや腰を屈めてしげしげと花を観察なさっていた。


 淡い水色をしたお花さん、気を確かに。間近に迫った美という概念の化身に、恥じらったり酔いしれたり圧倒的な敗北感を覚えたりして、そのつぼみを閉ざすことのありませんように……って、見知らぬお花を案じている場合ではないわ!


 わたしは両手でワンピースのスカート部分を握りしめて、


「あのっ! そのっ……先ほどの空間、は?」


「俺の隠れ家みたいなものなんだ。特殊結界って聞いたことある?」


「は、はいっ! 世界の内側に小さな世界を創造する、空間操作系統の高等魔法……全属性において使用可能ですが、難易度ゆえに扱える魔導士はごくわずか。使用者は練度が高まるほどに、内部環境をより自在にコントロールできるようになる……文字の上でそう学んだことがございます。

 ですが、そんな凄い『隠れ家』に、どうしてわたくしが立ち入れてしまったのでしょう?」


「いくつもの条件が偶然重なったから、かな。

 例えば……」


 紅色の瞳が、再びわたしを映す。


丁度ちょうど、貴方のことを考えていたから」


 やわらかくて、けれど甘い嘘を吐いているのではないとはっきり分かる、真摯なその声は。鼓膜の内側に滑り込むなり、淡い痺れのようなものになって、わたしの世界を明滅させた。


 花に伸ばしかけた指をそっと引き、眷属様はわたしに向き直る。あらゆる動きが、どこか繊細。


「申し訳ないけれど、俺自身のことはあまり明かせない。それから……俺は私的な場で、家族以外のひとと滅多に話さないんだ。経験不足ゆえに、俺の言葉は貴方の心に寄り添えないかも知れない。どうか、許して欲しい」


「そんな、わたくしに許しなど願う必要はございません! わたくしは、アルラズ様に救われた、ただの人なのですから! わたくしがあの方との再会を願っていたのは、ただ感謝を……」


『本当に?』


 耳元で囁いたのは、わたし自身。


 春に萌ゆる若草の狭間から、にわかに恐怖が這い上がってきて、わたしの首を締める。


『許されないのはわたし。目の前にいらっしゃるのは炎神様の子。尊き「正義」の化身。只人のわたしには、直視することさえ許されない存在』


 気道が狭められ、上手く呼吸ができない。四肢が痺れて、膝が震えて、今にも座り込んでしまいそうになる。


『それでいい。ひざまずくの。今、すぐに……』


 ふいに。


「大丈夫」


 カンカン帽と手袋を隔てて、眷属様の指がほんの一瞬、わたしの頭に触れた。

 触れたのだと、思う。


「どうか落ち着いて」


 囁く声がはっきりと聞こえて、身体がぽっと温かくなって、


「ここには貴方以外に、貴方をとがめるものはない。もし存在したとしても、俺が決して咎めさせないから。だから、大丈夫」


 わたしをむしばんでいた畏怖が、溶けてなくなる。


 おずおずと、自ずと俯けていた顎を上げると、慈愛に満ちた瞳が、わたしの様子を案じていた。


 間近にある紅色のつややかさにただただ見惚れてしまうわたしは、やはり罪深い。それでも寛大な眷属様は、ふわりと安堵の表情を浮かべて、


「向こうにベンチがある。座って話そう」


 小さく首を傾げてみせた。


「ね」

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