4.再会


 大聖殿附属図書館。


 聖都に越してきた日の翌日から、ほぼ毎日通っている。何らかの身分証明書を受付の司書様に見せ、その場で提示された炎神様への祈りの言葉を心より唱えることで入館が許可される。


 学生証を審査されている間のドキドキは、神学校の入学試験を受ける直前よりも凄まじくて。そのドキドキは入館後、ときめきへと変貌した。


 ああ! なんて、なんて美しいのだろう!

 想像より遥かに素晴らしい、この世の楽園!


 知の象徴たる書物への敬意を表しながら、人間の学びを促進する、静謐なる木造の空間。神学書はもちろん、歴史書、地学書、法学書、哲学書、芸術書、文学書、そして魔導書……膨大な数の蔵書の全てが、相応しい装飾を施された陳列室の相応しい書架へ、整然と収められているのだ。


 ところどころに設置された火炎を模したオブジェは、紙という知識媒体の天敵である火災を、炎を司る神の御意志で以って永遠に制すること……つまり、学問と学問に励む人々を重んずる、炎神様のご意向を表している。


 読み終えた本を返却したわたしは、深呼吸して軽くなった身体に古書の匂いを充満させ、ふわふわと図書館探索を始める。


 神学科を専攻するわたしのメインのお目当ては神学書だけれど、名著と呼ばれるものは学生でいられるうちに全て読んで、内容を頭に叩き込んでおきたい。それくらいしないと、わたしは……


「…………」


 視線がいつの間にか、淡く照らされた石のタイル床に落ちていた。風船みたいだったわたしの心も、空気と鉛を取り替えられたように沈む。


 いけない。配置を全て覚える勢いで背表紙を眺め回さなくては、本に失礼だ。どうしようもないことを悩んでいる暇なんて、わたしにはない。魔力が殆どないのなら、そのぶん知識を詰め込むまでだって、何度も何度も結論づけたじゃないか。


 ……わたしには、魔力が殆どない。


 紅炎、碧水、白氷、黒虚、橙地、紫雷、翠風。


 この世界を構成する七色の魔力。人の身体には生まれつき、これらのうちの一色が流れている。わたしは出会ったことがないけれど、ごく稀に二色以上を持つ人もいるらしい。「複数持ち」と呼ばれるその例外を除けば、人間はひとつの属性の魔法しか使うことができないということになる。


 運命を決めるこの色は、大体が遺伝によって定まると言われている。両親どちらかから引き継ぐことが殆どで、お父さんともお母さんとも異なったとしても、祖父母や曾祖父母の代まで遡れば自分の色を見つけられる。


 わたしは大好きなお母さんから、大好きな翠色を貰った。とても誇らしいことだ。だけどわたしの色は、お母さんとの繋がり以上の意味を持っていない。何せ、そよ風を生み出すことさえ、できないのだから。


 魔石を原動力として各属性の魔法効果を生み出せる道具「魔導具」の需要と供給のバランスが、田舎街でもそれなりに取れている時代だ。魔力がないからと言って、日常生活に不自由が生じるわけではない。


 それでも、人並み以下ということは、周囲の人間がわたしに向ける眼差しに、大きな大きな負の影響を及ぼすものなのだ。


 風魔法の初歩中の初歩である、脚部の身体強化……すなわち「速く走ること」ができなかったために同年代の男子に欠落を見抜かれてから、わたしは散々罵倒を受けてきた。


『恥ずべきことではありませんよ、シエラ』


 そんな未来を容易く想像できたから。教会で魔力の色と量を鑑定してもらった、あの残酷な日、わたしは泣き叫びさえしなかったけれど、ひたすら涙を流し続けた。お母さんに優しく撫でられ、宥められながら眠る間際まで、ずっと。


『あなたの心には、素敵なものがたくさん、たくさん詰まっているのだから……』


 お母さんは、誰よりも清らかで優しかった。


 だけど。お母さんを失ったことであらわになった、わたしの心にひそんでいたものは……


 弱さと醜さ。それだけだった。




「……あれ?」


 はっと顔を上げる。結局うつむいたまま、あろうことか尊き図書館様のお床様を睨むようにして歩いてきてしまったのだけれど。


「ここって……どこ、なの?」


 図書館の中であることは間違いない。まっすぐ伸びた通路の左右は書架となっていて……ジャンルは分からないけれど、立派な装丁の書物がしずしずと立ち並び、教導のときが訪れるのを待っている。でも、利用者の姿は前にも後ろにもない。


 この図書館は広大だ。蔵書が増えるたびに増築が繰り返されてきたため、少々複雑な造りになっている。そして貴重な歴史的遺産が保管された部屋のなかには、一般開放されていない場所も存在するのだ。


 もし。もしうっかり、立ち入り禁止区域に入ってしまったのだとしたら? 最悪の場合、出入り禁止になってしまう、かも……!?


 じっ、自業自得だけど! それだけは、絶対にだめ〜っ!


「あ、あうあうあうあうあ……!?」


 急速に冷え込んでいく身体、額に噴き出す汗。不安のあまり左右の三つ編みをぎゅうううと握り締め、意味を成さない言葉さえ発しながらも、わずかに残った理性が命じるまま辺りを見回す。


 落ち着いて。落ち着くの。杞憂かも知れない、道を尋ねられる人がいないなら本に聞けばいい。どんな種類のものが集められているか分かれば、きっとわたしが今、どこにいるのかも……


「っ!!」


 わたしは再び硬直し、全身の毛を逆立てる。

 ふいに気づいてしまったからだ。


 ひと、イル。イタ。


 書架と書架の狭間。年代物ということだけが分かる絵画の飾られた柱の前に、ぽつりと置かれた木椅子。そこに、すらりと長い脚を組んで、身を護るように背中を丸めて、黒手袋を嵌めた片手で顔を覆って座っている。多分、男の人。


 ど、どうしてすぐに気づかなかったの!? ほんの数メートル先……こんなに静かな場所で、息遣いが聞こえてきそうなほど、近くにいるのに!


 男の人がおもむろに顔をあげ、わたしの心臓が高く鳴る。どっ、どっ、どっ、と烈しく鳴り続ける。わたしの身体を丸ごと楽器にして喚く、その音をも次第に遠いものにしてしまう、おそろしいほどの美しさは。


 わたしの存在にたった今、気づいたように。

 驚いたように見開かれた、双眸は。

 思わぬ涙で次第に滲んでいく、紅色は。


「…………アルラズ、さま?」


 わたしを人間に戻してくれた、あの方のもの。

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