2.日常


「その名前、覚えてる?」


 鼻先と触れ合うほどの至近距離に何かを突き出されて、弟という名の絶景をぼんやりと瞳に映していた俺は我に返った。


 何かとは一枚の紙だった。受け取り、印刷された文字の多さにわざとらしく顔を顰めてみせる。


「名前、いっぱいあるんだけど。どれのこと?」


「上から17行目。数えなくてもいい、横に印をつけてあるから」


 うんうんありますねえ、ラピットの顔を模した可愛いマークが紅いインクで記されてますねえ。


 思わず、くくっと喉を鳴らす。


 ごめんな、その声が聴きたかっただけ。気づかないわけねーのにって苛立ちながらも丁寧に教えてくれちゃう、アルヴィンらしさのにじみ出たその声が。兄さんだけに与えられた特権だからさ。


 ちなみにラピットっていうのは、純白まん丸ボディとまあるい顔、楕円を描く一対の耳を持つ魔導生命体のことだ。短い四本足でのちのち歩き、風魔法の力ですいすい空を飛ぶ。うさぎに似ているが、人間を背に乗せられるほどでかい。弟はこの癒し系生物をこよなく愛している。


「んー、と……シエラ・バーンネル?」


「母親の仇である『闇泳の魔物』を捕らえて欲しい、って大聖堂で訴えた子。母さんの目に留まったから、兄さんが単独で向かうことになった」


「へえ。さぞかし簡単な任務だったんだろーな、ぜんぜん覚えてねー……」


 リストのタイトルに視線を流す。今年度分の、都立ティアニーリア神学校の新入生名簿……聖都ここの神学校に合格するのって、めちゃくちゃ難しいんじゃなかったっけ。誰から聞いた話かは覚えてねーけど。


「……あえて言葉を選ばずに言うけど。兄さん、また少し忘れっぽくなったんじゃないか?」


「そ?」


 弟は憂い顔でカップを置く。白地でふちの部分に金色の流線があしらわれた、シンプルなデザインのカップ&ソーサー。陶器のミルクピッチャーも硝子のシュガーポットも、飾り気のないものだ。


 俺が訪ねたときアルヴィンは必ず、用事が済んだらさっさと帰れ、みたいな表情をしながら、とびきり味と香りのいい紅茶を淹れてくれる。


 だけど自分が飲んでいるのは無色透明、無味無臭の水。特別な処理を施すことで「情報」を綺麗さっぱり飛ばした超純水だ。それが、アルヴィンが口にできる唯一の飲食物だから。


「まーいいじゃん、仕方ねーことなんだし」


 ひらりと書類をテーブルに伏せる。糸状に伸ばした魔力を操り、つつうと滑らせてアルヴィンに返した。


 アルヴィンの、黒手袋をはめた人差し指と中指が、とんと書類を叩く。書類は事務机へと飛んでいき、仲間を迎え入れるように捲れ上がった紙束の狭間にすっと差し込まれた。紙束は音もなく直方体を成す、完全に元通りというわけだ。


「それに、ヴィーが覚えててくれるし。俺たち、二人で一人なんだからさ」


 俺は序列第三位で、アルヴィンも第三位だ。


 アルヴィンは神域から出られない。その行動範囲は基本的に、神域を構成する「裁きの塔」「大聖殿」「大聖殿附属図書館」の三箇所に制限されている。


 基本的にと言うからには例外もある。兄であるアルラズ・スノウ……つまり俺が正義執行のために必要だと判断した場合には、この美しい籠の鳥を独断専行でどこへでも連れ出すことができる。


 後から決して軽くはない代償を支払うことにはなるが、一人になった俺たちに敵はいない。序列第一位のトエニカにだって負けないだろう。実力も、当然、母さんへの愛もだ。


「頼りにしてくれるのは光栄だけど、一緒にいられないケースが殆どだろう? 自分が救った人の名前くらいは、覚える努力をした方がいいよ」


「なんで? 俺が出ることになんのは嫌ーな事件を起こした罪人が出たときだけだし、向こうも俺のことなんて、事件ごと綺麗さっぱり忘れてーと思うぜ?」


「兄さんに救われた人たちは、兄さんのことを忘れない。シエラ嬢もきっと覚えてる。それに兄さんは彼女の養父に、自分の身分を明かしてる。もしかしたら、会いに来るかも知れない」


 きっと、もしかしたら、かも知れない。アルヴィンが断定しないのは珍しい。長くて骨張った指を卓上で組んだところへ落とした眼差しも、迷いを帯びているようだ。ますます珍しい。


 可愛い弟のために、ちょっと真剣に考える。


 シエラ・バーンネル、女性の名前だ。神学校の新入生ってことは大方、うら若き乙女……あー、そういうことか。


「だーいじょうぶ、まるっときっぱり断れますって、遊んだり弄んだりしませんってー。俺、母さん以外に興味ありませんから?」


「そういうことじゃない」


「お、違った?」


「……いや、そういうことではある。けど違う」


 いやいや、どっちなんです?


 アルヴィンが立ち上がる。すれ違った瞬間、良い匂いが鼻をかすめた。ふわりと甘くて美味しそうな香り。俺のとは違う、アルヴィンの香り。


 極めて規則的で、だけど内心を誤魔化すような急いた靴音。弟はすぐに戻ってきて、俺の背後に立った。俺の髪を優しく整えて、櫛で丁寧にかしてくれる。


 これがマジで気持ち良い。よく一緒に屋根の上で昼寝する仲の白猫あいつだったら、喉をごろごろ鳴らしてるだろうなってくらい。


 だけど悲しいかな、アルヴィンが俺の髪を整えはじめるのは「そろそろ休憩時間が終わるから出ていってくれ」というサインなのだ。


 残念。やがてアルヴィンの手が止まり、


「想いに応えてもらえないことよりも、忘れられることよりも……過ぎ去るものだと割り切られていることの方が、悲しいんじゃないかな。

 ただ、そう思った。それだけだ」


 体温が遠のく。思わず口端が歪んだ。


 優しいなー、本当に。二人で等分に受け継ぐはずだった母さんの優しさは、ぜんぶアルヴィンの方にいっちまったんだろう。


 人間に寄り添うことのできないアルラズが人間と関わり、寄り添うことのできるアルヴィンは附属図書館の奥の奥にこもって事務作業に明け暮れている。俺たち双子の在り方は、笑えてくるくらいいびつだ。


 さてと。


「はいはい、善処しますとも。美味しーお茶、ごちそうさまー」


 俺はお茶会セットからするりと抜け出した。多分俺から贈られた「お土産」の櫛を鏡台前に戻してふりむいたアルヴィンにまっすぐ、歩み寄る。


「っ、」


 俺とお揃いの紅色をした双眸が、驚きによって見開かれ、すぐに焦りによって細められた。獲物はじりじりと手遅れな後退をはじめ、譲歩を求めて胸の前で左手をひらいてみせた。


「分かった、どうしてもスキンシップがしたいなら握手にしよう。握手で構わないだろう、握手で決定だ、さあ俺と握手をしてくれ兄さん、っ」


「やだ。つーか俺は、スキンシップがしたいわけじゃーない。大事な大事な弟の、」


 アルヴィンは、力では俺に敵わない。抵抗の証である左の手首を素早く捕らえて引き寄せ、噛みつくように抱きすくめた。


「健康診断がしてーの」


 炎神の眷属である俺たちにとって、熱は特別な意味を持つ。俺以外のなにものも、アルヴィンにはれられない。だから俺がれるのだ。


 第一ボタンも滅多に外さない黒いシャツ。露出を最低限に抑えた、フォーマルが過ぎる服装。ネクタイくらい緩めればいーのに、そう思える厳重な包みごしに、硬直した身体の温度が俄かに高まっていくのが分かる。


 うなじに近い位置、紅色の結い紐でまとめられた、清水のような手触りの銀髪に指を通して。白い首筋から香る甘さを、すんと吸い込んで堪能してから、


「ん、ポカポカでよろしい。だけど、くれぐれも無理はしないよーに。抱えらんねーぶんまで抱え込むな、って何万回言っても忘れたフリするよーな悪い子には、おしおきしなきゃなんねーかも」


 弟を解放……しようと拘束を緩めた途端、俺は額をがっと掴まれて、全力で押しのけられたのだった。

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