香水

加賀倉 創作(かがくら そうさく)

香水

 仕事帰り、電車を降りたS氏は、寂れた商店街を歩いていた。通勤時は決まってその商店街を通るのだが、そこにたたずむ店までには、今まで気を留めたことがなかった。今日は仕事が早く終わって余裕があったからだろうか、彼女は商店街を見て回る気になった。しかし、ほとんどの店のシャッターはしまっていた。営業時間を過ぎたのか、それとも潰れてしまったのかわからないくらい、薄暗い空気が漂っていた。そんな中に、一軒の化粧品店が開いているのを見つけた。店構えは決して魅力的とは言えなかったが、妙に興味を惹くような雰囲気を醸し出していた。彼女は立ち止まり、不思議と吸い込まれるようにそのドアを開けた。

「ごめんください」

 店員の姿が見えなかったので、彼女は店の奥に声を飛ばした。だが返事はなかった。仕方なく店の中を見回してみると、どうやら商品らしきものは置かれていないようだった。しばらくして、奥の方から杖をついた老婆が重い足取りで出てきた。

「いらっしゃい。おや、こんな若い子が来るとは、珍しいね。まぁ、お客が入ることがそもそも久しぶりだけどね」

そう言いながら老婆はそばに寄ってきて、S氏をまじまじと見つめている。

「あの、ここは化粧品屋さんですよね。何もおいていないようですが」

「確かに化粧品店だよ。これしか置いていないがね」

老婆はそう言って一つの小瓶を取り出してみせた。小瓶の中には液体が入っており、天井からぶら下がったライトに反射して、七色に輝いていた。

「なんでしょう、これは。不思議な色をしていますが」

「これは香水だよ。とっておきのやつさ」

「はぁ、香水ですか。わたしは香水をつけるたちではないので、せっかくですが結構です。香水以外の商品は無いんですよね」

「まぁそんなこと言わずに。この香水だけだが、本当にいいものだよ」

S氏は押し売りされると思って、店を出ようとしたが、老婆は話をやめなかった。

「お嬢さん、あんたは独り身だね」

「そうですが、それがどうかしましたか」

「あんたはこの頃、いい相手を見つけて、そろそろ落ち着きたいなと考えている」

 図星だったようで、S氏は少々息を荒げて言い返す。

「……そうよ、だから何?あなたには関係ないことでしょう」

「この香水、つけてみなさい。優秀な異性が寄ってくる。そんな効果があるのさ」

「何よ、それ。そんなの嘘に決まってるわ」

「今なら特別にタダでひと瓶やろう。タダなら、あんたは損しないし、気に入ればまた来てくれたらいい。そこの値札に書いてある価格で売ってやるから。たったの千円さ」

S氏は、まだ老婆を怪しんでいる様子で、首を縦に振ろうとしない。

「一度においも嗅いでみたらどうかね、ほら」

老婆はそう言って開いた小瓶を差し出してきた。バニラのような香りだった。

「悔しいけど、これなら私の好みの香りだわ」

「そうかいそうかい、ならおまけにもう一本あげよう」

老婆は満遍の笑みで、香水を二本差し出した。

「そう。ありがたくもらっていくわ、どうも」


 次の日から、S氏はかかさず香水をつけて外出するようにした。効果があらわれるのに、そう時間はかからなかった。道ゆく男性からの視線が明らかに増え、声をかけられることもあった。彼女は、まるで有名人にでもなったかのような気分になった。そして、不思議と男性との出会いが増えていき、夜な夜な色んな男性とデートを重ねるようになった。デートの相手はそうそうたる顔ぶれだ。弁護士、開業医、大手企業の重役、プロスポーツ選手、パイロットなど、高収入の職種ばかりだった。おまけに美男子ばかりで、皆優しい気質でエスコート上手なのである。しかし彼女は、どうもしっくりきていない様子だ。

「この香水、確かに素敵な人を引き寄せてくれるのだけれど、誰も彼も自分とはかけ離れた存在だから、どうも現実味がないのよね。夢でもみているようだわ。もう少し控えめな、私にちょうど合うくらいの人を引き寄せることはできないのかしら」

そう思った彼女は、再びあの化粧品店に行くことにした。


「お嬢さん、香水の効き目はどうだね。気に入ってくれたかい?」

「効き目はありすぎるくらいよ。会う人会う人、色んな面でレベルが高すぎて、私にはついていけないわ。もう少し私に分相応な相手を惹きつける香水はないの?」

「贅沢な悩みを抱えたもんだ。待ってなさい、今調整してきてやるから」

一時間ほど待つと、老婆は大きめの瓶に入った香水を持って戻ってきた。

「ちょうどいい具合に薄めてみたら、量が多くなってしまったが、これを持っていきなさい」

「やけに時間がかかると思ったら、ただ薄めただけなの、それは。引き寄せる効果が弱まるだけでなくて?」

「心配無用。門外不出の特製の液で薄めてある。これであんたに見合うようないい男が現れるはずさ。効果はしっかり現れる」

「信じて、いいのね。今度こそ、いい人が見つかるといいな。はい、これお代ね」

「まいどあり」

 そうして千円と引き換えに、新しい香水を手に入れた。店を出るや否や、彼女は全身に香水をふりまいた。その帰り道、何軒かバーに寄ったが、なんと声をかける男性は一人もいなかった。今までは前の香水の効果でモテていただけに、彼女は虚しくなってつい飲み過ぎてしまった。そしてその日は風呂にも入らないままバーで朝まで寝てしまった。

「……こんな朝まで、つい飲み過ぎてしまったわ。それになんだか、体が痒いわ」

 彼女の肌には掻きむしった痕が数カ所あったが、あまり気には留めなかった。


 それから香水の効能を信じて、欠かさず香水をつけて出歩いたが、期待していた変化はあらわれなかった。街中で視線を浴びることも、声をかけられることも無くなった。それどころか、いつも親しくしてくれる同僚の男性たちでさえも、どこかそっけない。新しくもらった香水をつけ始めてもう一週間が経つが、不安になったので、同僚になぜ無愛想な態度を取るのか聞いてみることにした。

「ねぇ、思い切って聞くけれど、最近私を避けてない?いつも仲良くしてくれていたのに」

「えっ。それは……」

 同僚は、答えづらそうにこう言った。

「最近の君は服に蠅みたいなのが何匹もついていて、なんだか不気味に感じてしまったんだ、それで避けてしまった。それにほら、今だって……」

 彼女が自分の着ている衣服に目をやると、蠅が五、六匹とまっていた。

「何よこれッ、あっちに行きなさいッ」

 彼女はあわてて振り払ったが、蠅は再びとまったり、そばをただよったりを繰り返している。

「こうしてやるわッ、えいッ」

 彼女は近くにあったハエ叩きで、見事に全部はたき落とした。周囲からは感嘆の声とともに拍手が贈られたが、彼女は恥ずかしくなって、その日は早退した。


「最近ついてないわ。きっと全部、あの香水のせいよ。出鱈目なものを掴まされたんだわ。あのおばあさんを問いたださないと」

 帰り道、そう思った彼女は例の化粧品店に向かった。着くと、勢いよく扉を開け、興奮気味にこう言った。

「ねぇ、私だけど。ちょっとおばあさん、あの香水、何か細工したんじゃないの?」

 すると老婆はいつものようにゆっくりと奥から現れた。

「なんだい、藪から棒に。妙な言いがかりはつけないでもらいたいね」

「言いがかりじゃないわ。あの香水、おかしいわよ。男の人は寄ってこなくなるし、代わりに蠅がたかってきたのよ。虫が寄ってくる成分でも入れたの?相手探しに必死な若者に、いたずらなんかして楽しいわけ?年寄りが若さに嫉妬したのか知らないけれど、嫌がらせならやめてほしいわ。今日は職場で蠅にたかられるのを見られて、とんだ恥晒しよ。もう居場所がないわ、どうしてくれるのよ……」

 そこで、彼女の言葉を遮るかのように、大きめの地震があった。揺れは十秒ほど続いた。老婆は体勢を崩してしまい、倒れ込んでいた。

「結構揺れたわね。さっきは言い過ぎたわ、怪我はないかしら」

「ああ、この通り平気だよ。それよりあんた、あの瓶は相当大きくて不安定だったが、どこに置いているんだい」

「どこって、化粧棚の上だけど」

「それなら人の心配をしている場合でないかもしれないねえ。さっきの話からして、瓶が揺れで落ちて、香水がこぼれてしまっていたら、大変なことになる」

「それってもしかして……」

彼女はさっきまでの怒りの感情など忘れて、慌てて店を飛び出した。へとへとになりながら家の前に着き、ドアを見ると、彼女は腰を抜かした。ドアにはおぞましいほどの量の虫が張り付いていた。

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