パーフェクトエレクトリックガール

 わたしが「王子様」の「姫」になりたかったのは。

 見窄らしい家とか、何年も着てる安っぽい私服とか、汚れっぱなしの上靴とか、現実のわたしを構成するもの全てが泥臭くて大嫌いだったからだ。おまけに、頭蓋の中身まで狡くて面倒臭がりで可愛くない。

 対する八戸ミツは育ち良さげで、わたしがミツを自分とは違う綺麗な子だと思い始めたのは、中学に入って制服を着るようになってからだった。そして困ったことに、恋心を自覚する度に、わたしはミツと釣り合わないと思う気持ちも強くなっていった。ミツの大好きなところっていうのは、いつもわたしの欠点を埋めるようなものだったから。

 当然、ミツがそんなふうにわたしを見ることはなかったけど、わたしと同じ目をしてくれることもまたなかった。

「……うん、遠目で見たらそれっぽいんじゃない? レナ演技上手いし!」

「遠目で見たらって、ひどいなー」

「褒めてるから! 観客が見る距離って意味じゃん」

 ユリカに軽口を叩かれながら、ドレスを着たわたしは真面目なふりをして脚本に目を落とした。元々危ういスケジュールな上にキャスト変更に揉まれたドレスは、手にとって見ると荒技でくっつけられたところが散見されて、そこはある意味わたしにお似合いだった。

 昨日のリハーサルの時点で、周藤さんが最終的に書き換えたものに対応した通しは一度成功を収めた。感情的だったわたしの召使いAに比べて、ミツの演技は業務的。周藤さんはその違和感を、アラベラの理解者がエルズワースだけだということを強調することによって解決した。

 わたしたちのクラスの劇は素晴らしいものになるだろう。

 開幕を告げるブザーが鳴る。この瞬間から、わたしは姫になった。けど、わたしはむしろ全てを失ったような感覚に襲われていた。胸の一番奥に秘めていた、夢の煌めきを。

 ユリカが、今だけは抑えきれない真っ直ぐな青春の煌めきを瞳に宿して、わたしの背を押す。かつての日常から飛躍した先、スポットライトを浴びるわたしの新たな現実へ。

 演劇が始まる。




「エルズワース王子、ミュリエル令嬢から文が」

「当分、その類は受け取らないと言ったはずだが」

 厳しい声音で、エルズワースは騎士を突っぱねる。騎士は少し狼狽えて、しかし言わねばならないと己を奮い立たせて進言した。

「……お言葉ですが、そのようなことを仰られてもう三年にもなります。そろそろ、あなた様には婚約者を選んでいただかなければ。せめて、候補だけでも」

 沈黙。エルズワースはガタッと音を立てて立ち上がって、受け取る気はないと苛立った態度で示した。

「必要ないと言っている。私がそう言っているのに、その話を持ち出すということは、本日私に言うべきことは他にないということだな?」

「い、いいえ、王子! しかし、これは重要なことで……」

 エルズワースは笑わない男で、婚約者選びに興味がなく、ひたすら真面目というキャラクターだ。わたしだったら、苛立ってるからってこう人に当たる男なんて絶対好きにならない。

 まあ、普通の女の子っていうのはこういう男が好きなのかもしれない。こういう男に……特別愛されるのが。うん、それは分かる。誰にでも優しいミツがわたしを咎めるあの瞳、……。

 王子様はわたしの弱味も、ダメなところも、全部知っている。そう。

「分かった、では令嬢には優先的に断りの文を認めるとしよう」

「王子!」

「ご苦労、下がれ」

 騎士は一応ミュリエルの手紙を受け取ったエルズワースに逆らえず、すごすごと退場していく。それを見届けた後、エルズワースは興味なさげに机に手紙を置いて、はあ、と大きなため息を吐いた。

「……あと少しだ……あと少しでもう一度会える」

 誰に聞かせるでもなく、しかし切実に、彼は遠くを見つめ手を伸ばしながら言う。

「アラベラ……君は私を覚えているだろうか」

 幕が引かれ薄暗くなり、セットが取り替えられる間に、幕の前で動かないわたしの後ろ姿がうっすらと観客の目に入る。これはエルズワースの心象世界というわけだ。

「どんな女性になっただろう、どんな場所を巡って、どんな男と出会っただろう——? 私は君と過ごしたあの一日を、今でも鮮明に思い出す……」

 エルズワースがわたしに歩み寄り、肩に触れると、わたしはばっと振り返り、驚いて半歩下がる。しかしすぐにミュージカルじみた所作でわたしは彼と腕を絡め、振り回すように舞台の反対側へとくるくる引っ張った。スポットライトは、前のめりになってそれについていくエルズワースだけを拙くも追う。

「抜け出した街で迷った私を、君は驚きながらもこっそり案内してくれた。料理店——花畑——教会——私の目には何より……それらの前で笑う君の姿が眩しかった」

 このセリフが終わると同時に、わたしは舞台袖へはける。舞台上には、最初の苛烈な印象とは全く違う、情けなく手を伸ばしたままのエルズワースだけが残される。彼は意気消沈した様子で手を下ろし、爪先を観客がわに向けて続ける。

「……しかし、君は外交官の娘で、父について翌日にはもう我が国リーランドを去ってしまうと言った。そして、夕焼けが輝くその教会で、私たちは約束した、——三年後、祭典の日にまた会おうと」

 そしてその三年後が今というわけだ。

「君が私を幇助したことは、私と君だけの秘密だ。皆の前で、君はただ頷くだけでいい。なぜならその日、私はもう一度君に一目惚れをするからだ。——単純な話だ」

 彼は少し自信なさげに、しかしそんな自分を奮い立たせるように悪戯っぽく言い、マントを翻して舞台から去る。うん、順調だ。

 そして、舞台袖にいるわたしの前にはマイクが差し出される。隣にはアラベラの父役の森くん。

「——お父様、今年の、リーランドの祭典に行くという話は……」

「……ああ、そんな話があったか?」

「や……約束してくださいましたよね? 三年前に……」

「三年も前の話だ、まだ覚えていたのか?」

「もちろんです——お父様……まさか、わたしが忘れるような口約束だと?」

「……。それは悪かった。しかし、お前はもう随分とおれに付き合わされている。一つ予定が一年ずれるくらい、今更なんてことはないだろう」

「——いいえ、お父様!」

 物音のSE。

「……アラベラ! どこへ行く⁉︎」

「すみませんお父様、わたしは——わたしだけでも、今すぐにリーランドへ発ちます!」

 これが『ウルサンの鐘』のプロローグ。

「今年の祭典に間に合わなければ、意味がないのです!」

 ここから、わたしの次の出番までには少し間がある。幕が開き、祭典の華やかな背景と陽気な音楽、雑踏のSE、そして国王のセリフが始まる中、わたしはさっきの動きで衣装にほつれがないか、自分の体をきょろきょろ見た。見える範囲は、問題なさそう。だけど一番不安なのは背中のV字になったところだ。

「左脇のところだけ。気をつけて」

「、!」

 うーんと体を捻っていると、耳元に囁くような声が落とされる。——わたしの体をゾゾゾっと何かが駆け抜けて、本番中だっていうのに妙に冷えていた体温が急上昇した。

「み、ミツ……」

 わたしは便宜上そう呼ぶけど実際のなんてどんなものか分かったものじゃない彼女は、クラシカルなメイド服に身を包んでわたしに寄り添っていた。今の格好だと主従みたいに見える……そのためにこの衣装は作られたわけだから……。いや、わたしとミツは本当にこそ主従なのかもしれない。わたしが釣り合わないと思っていたよりも、もっと歪な関係。

「……そういえばリハーサル、良かったよ。やっぱり、演技をできないわけじゃないんだね」

 誰かに聞かれたら違和感があるかもしれない、でも彼女本人には真意が伝わる言い方で、わたしは思わず嫌味を言った。彼女は八戸ミツの顔でふにゃりと苦笑する。

「い、意地悪言わないでよ。レナちゃんのおかげで、なんとかできそうな範疇になったからだよ」

「…………」

「——……」

 わたしが黙ると、彼女はそういうスイッチが切れたみたいに表情をなくした。

 わたしは、でも、彼女にちょっと肩を寄せて物語の進行を待った。

 祭典の中で、エルズワース王子は大人気だ。言い寄ってくるたくさんの女性たちを軽く相手にしては、アラベラを探して早足で会場を巡る。

 けれどもアラベラはなかなか見つからない。アラベラをこの祭典へ連れて行く気がなかった父親によって、遠くから急いで向かわざるを得なくなったからだ。しかしエルズワースはそんなことを知る由もない。

 まあ、ここで引っ張るような尺はこのイベントにはない。観客を盛り上げるために、騎士を引き連れたエルズワースは客席の間を練り歩きながらまた独り言を言っている。彼が注目を浴びている間に、わたしはミツからそっと離れて、舞台袖から外に出て、薄暗闇を伝って移動した。

「……やはり、無理な話だったのか……」

 祝福されたラブストーリーの主人公のくせして寝惚けたことを言うエルズワース、彼が引き返そうとし、横向きの通路に差し掛かったところで——わたしは全力でダッシュし、その彼にぶつかりに行く。

「わっ、」

「うわっ」

「エルズワース様!」

 騎士が慌てた声を出す。わたしが不審者だったらエルズワースはもうとっくに死んでる。

「……あなたは——」

 アラベラとエルズワースはしばらく見つめ合う。

 やがて、ぶつかったままの不自然な体勢は、自然な男女のダンスの誘いのシーンへと変わっていく。観客の一部がフゥ〜と囃し立てる。

 約束された勝利。物語は順調だ。

「……最後の一曲、私と踊っていただけますか、レディ」

「——よろこんで」

 そしてわたしたちは、片手を重ねたまま真ん中の通路を駆け、忙しなく壇上へ駆け上がり、流れる曲に合わせて簡単なダンスを踊り始める。

 ——ところで、リーランドの外交官であるアラベラの父は、妻を亡くしたために娘を連れ回して在外公館を転々としている……と説明される。この後、エルズワースがアラベラに見事求婚すると視点はそちらに移り、アラベラの父は大きな災難に見舞われることになる。

 アラベラの身柄を狙って忍び込んできた刺客を捕えて殺したはいいものの、その男はスパイとしてリーランドで重役に上り詰めていたのだ。当然、第三者には出世に邪魔な人物を殺めたと見られ……、

「——高塚さ、」

「えっ?」

「ほんとに演技上手いよな。びっくりした」

 一瞬、わたしは脳がバグって、観客にもはっきりわかるくらい思いっきり躓いた。エルズワース——成田は「おっと」と焦りつつも、それっぽく腕を出してわたしがそれに掴まれるようにする。

 ——今、わたしは話しかけられたのか? 成田ケイトに?

「……八戸って美人だから正直テンション上がってたんだけどさ、——俺、高塚とやる方が正直ドキドキする」

「…………」

「なんつーの、単純に演技の高揚感? もあるし——」

 それは今する話? 自分が今誰だか分かってるの? わたしに何を期待してるの?

「……嫌だったらいいんだけどさ、この話ってめちゃくちゃラブストーリーなのにキスシーンないじゃん。あれって俺らに気使ってくれてるだけだと思うんだよな。だからさ、ラストシーン……」

 気持ち悪い。

「……やば。もう曲終わるっ」

「っ」

 成田は、早口で言いながらダンスの所作を盛り上げて、わたしの腰を抱いた。シーンには沿った適切なアドリブだけど、それはエルズワースじゃなくて、成田ケイトだった。

 触れた男の体が、肉的な質感と温度を持ちだす。わたしは体が竦んでしまって、さっきまで堂々と動かしていた体は絶縁体になったみたいだった。シーンにそぐわない、恐怖による涙が出そうになる。

 そうして、わたしの主演は明確に地獄の時間になった。

 物語は続いていく。




 夕方六時の鐘が鳴る時、アラベラの父の処刑は決行されることになった。

 公開処刑にまで事が発展したのは、ひとえに娘のアラベラが王子エルズワースと婚約したことに対してのこのゴシップが民衆に強烈な印象を齎したからだった。彼は決して悪い父ではなかった。アラベラは自身も殺人者の娘として石を投げられて尚父の悲劇にこそ深く絶望し、エルズワースは彼女に再び会うことができなくなった中で動揺しながらも己の願いを確信していく。

 アラベラは実家の召使いにすら(味方と思えず)本心を告げられないまま行方をくらませた。エルズワースはそれを必死に探す。処刑が決行されてしまえば、アラベラとエルズワースの関係にも同時に不治の断裂が生まれる。王子の周りの人間はそれを許しはしないだろう。

 アラベラの心にあるのは……エルズワースへの思慕と、彼の立場になってみれば許されない父の醜聞。父を救いたいという気持ちと、殺人者の娘と言われることへの恐怖。

 わたしの今の真っ青な顔は、まさにそんなアラベラの心情を表しているように見えなくもない。

 物語はクライマックスだ。みんな真剣な顔で、主役二人が決めるラストシーンを完璧なものにしようとしている。この役を強引に引き受けた以上、わたしは勇気を出してその期待に応える演技をしなくちゃならない。

 なのに、わたしには現実が遠い世界の風景みたいに見えた。成田の言葉、視線、指使いの感触が蘇る。彼はわたしと——キスをしたい、ということ……いや、私の同意を得てそのふりをするというだけかもしれない。きっとそうだ。わたしの演技に対する熱量が認められて、彼はそれを信頼して劇をもっと盛り上げようと……。

 でも、あの時、成田は確かにエルズワースじゃなかった。

「レナ!」

 エリカが小声で呼んでる。わたしの出番だ。エルズワース様、あなたは酷い人です。エルズワース様。エルズワース様……。

 照明でより鮮烈になったウルサンの色が目に入ってくらっとくる。わたしには心に決めた人がいる。——。わたしは彼女を庇って、くだらない羞恥心を捨て去ってこのドレスを身に纏った。彼女が最初から存在しなかったこと、もう会えないことを分かっていながら。

 今、高塚レナは主演女優だ。彼女は確かに存在しなかったかもしれないが、わたしにとってはずっと真実だった。彼女がこの舞台に立たせてくれた。

 王子様の足音が聞こえる。そう、その人はわたしを追いかけてきてくれる。

 わたしは姫になったのだ。最高のクラス演劇の舞台で、クラスメイトたちの努力の結晶を踏み締め、身に纏って。わたしはずっと演技をしてみたかった。一度でいいから、誰か全く違う人になってみたかった。

 そのちっぽけな夢を実現して一つ、分かったことがある。——その願いが叶って、わたしが何か生まれ変われたとして、そしてようやく手を取る相手が八戸ミツでなければ、わたしは——。


「2-1, 'Ulsan's Bell,' no doubt about it. Locked and loaded. ——ACTION!」


 世界が白くフラッシュして、一瞬、モノクロの残像だけが見えた。遅れて、轟音。

 耳を劈くような大音響は、脳を直接揺さぶっているみたいだった。わたしの思考にどろっと絡みついていた何もかもは吹き飛ばされて、頭の中は視界と同じように真っ白になる。

 それは光学的な鋭さのある衝撃だった。その純白に灼かれてしまえば、ウルサンの鐘の色は古臭くて野暮ったい。仮にもずっと追い求めていた魔法が、一瞬の圧倒的な暴力で解かれたのだ。世界は混乱と悲鳴でうねり、呆然とするわたしの耳には、聞き慣れない男の笑い声が聞こえる。

「So Mitzi's the main princess, right?」

 ガシッ、と、成田とは違う、もっと乱雑で、絶望的に力強い腕が、わたしの首に回る。バックハグをされているシチュエーションだけは脚本通りだった。だけど——これは……。

「She's ours, baby!」

 勝ち誇った高笑い、耳を通り抜ける生の英語、わたしは今わたしが知る秩序の庇護下にいないのだという、確信。テレビ越しにしか聞いたことのないような、でも知らないカシャという音を立てて構えられた、妙な艶を持つ黒い——銃、引き金にすんなりかけられる太い指、銃身に刻まれたB…… Bureau of……Humanoid……Management……、——BHM

「——、」

 悲鳴は出なかった。中途半端に開けたわたしの口に、男は乱暴に銃口を突っ込む。BHMのことが分からなくても、アメリカの大多数の州は銃社会から脱する気配がないらしいってわたしでも知ってる。

 痛み、衝撃、そして死、根源的恐怖が心臓の内からわたしの体を叱咤する。でも、何もできなかった。わたしを拘束する男はご機嫌に嗤う。

「Nighty-night, princess. Or our doc's love toy, when you wake up」

 そうしている間に、引き金が引かれる——その時、わたしは一筋の涙が頬を流れる、知った感覚をやけに鮮明に感じた。その感触は瞼を下り、頬骨を越えて、またつうと加速する。

 カチカチ、と音がする。銃口がわたしの咥内を抉るように角度を変える。男が、何やら焦りを滲ませてぼやきながら引き金を繰り返し引いている。——わたしはふと理解した。BHMはわたしを彼女と勘違いしている。この銃は彼女には効くかもしれないけれど、人間のわたしには効かないのだと。

「————」

 次の瞬間、わたしの体はまた強く鋭く揺さぶられた。それは、今度はわたしを拘束していた背後の男が他の暴力によって押し退けられたからだった。

 黒いロングスカートが翻る。銃を叩き落とした手は華奢な女の子のそれで、ヘッドドレスは彼女に清潔感のある印象を与える。長い睫毛は冷めた視線の上で流れていて、メイド服の下、男の側頭部を蹴った足を飾るのは、極めて一般的な高校指定の上履き——。

 わたしはその姿に目を奪われて、でも、今度はプシューと空間に何かが満たされて何も見えなくなる。煙幕? ではないけど、そういう用途だろう。わたしが何もできずにいると、わたしに痺れを齎す指が肩に触れる。

「力を抜いて、ユーザー・レナ」

 言われた通りにすると、彼女はいつの間にか、わたしをひょいと片腕で抱え上げていた。わたしは大慌てで、目の前の彼女の首元に両腕を回す。

「目を閉じて、私を信じて」

「み、ミツ……」

「このことが世間に見つかったら、日本は絶対に内側からぐらつく。——表面化はさせない。必ずすぐに終わらせる」

 ……これが、わたしがずっと知らなかった、ミツが生まれ育った本当の世界。その一端。

 彼女が動き始めて、わたしはぎゅっと体を丸めて彼女に抱きついて目を瞑った。すごく速く動いて、英語を喋る大柄な男たちを相手に彼女が何をやっているのか、一般人のわたしには分からない。野太い悲鳴が上がるから、彼女が彼らを圧倒していることは分かる。

 沈黙の戦争時代の残り火。彼女はBHMとの抗争をそう言った。これはそんな恐ろしいシーンで、わたしの父はこんな過激な世界の第一線にいたと。

 でも、彼女を信じて、本物の危険の中で、今わたしの心を満たすのは安堵感だった。わたしは何も知らなかった。ミツは優しかったし、お父さんはわたしたちに何もしてくれない、ただの死者だった。

 それは、……どんな気持ちで……。

「ミツ……わたしにできることはない?」

 どんな状況か分からない、まだ断続的に不穏な爆発音やわたしの知らない音は聞こえてくる。でも、わたしは彼女に自然とそう訊いた。

 わたしはミツが好きだった。今も、どうしようもなく好きだ。この気持ちはどんな虚構でも突飛な現実でも、彼女本人にも揺るがせない——わたしの意思が決める、純粋な真実だ。

「——じゃあ、」

 アクションをこなしながら、ミツの息は乱れていない。その必要がないからだろう。

「……一つだけ、吐いてた嘘を許して欲しい」

「嘘?」

 わたしは胸がちくりと痛むのを隠して問う。彼女は、心なしか感情的な声音で続けた。彼女の体から、チッチッチッ……キュシュルルル……と機械的な音がする。わたしは瞼の内側の暗い世界で、彼女とただ対面する。

「本当は、役割演技ロールプレイはこれ以上ない得意分野だってこと。私たちの強みは、人間の姿でマルチな兵器になるところだから、環境に合った人物像を演じるためのプログラムが充実してる。……『八戸ミツ』を知るユーザー・レナなら、その精度は知ってるはず。アラベラを俳優のように演じることも、本来なら簡単なことだった」

「…………」

「ただ、私たちの脳にも限界はある。例えば——プレーンに加えて二つの人物像を演じようとした時、相互の人格は高確率で干渉し合ってしまう。だから、私はアラベラを演じるときだけ人格をプレーンに切り替えた。——『八戸ミツ』を守るために」

 彼女プレーンはそして、ため息を吐くように言った。

「……ユーザー・レナに好かれている『八戸ミツ』を、手放したくなかったから——でも」

 一際大きい爆発音が近くで鳴り、爆風がわたしの肌を撫でる。彼女はそこで立ち止まった。わたしが恐る恐る目を開けると、体育館の中にはもはや誰もいなくて、煤けた大穴の空いた書き割りとか、凹んだ壇とか、吹き飛ばされてぐちゃぐちゃに積み重なったパイプ椅子とか、ひどい有様だった。でも死体は見当たらない。血も流れていない。表面化させないと言った彼女のマジックだと、わたしは思った。彼女のメイド服は少し破れてしまっているけど。

 再び戻ってきた壇上で、彼女は一度周りを見回すと、わたしを両腕で抱え直して膝をついて、そうっと床に下ろしてくれた。

「でも?」

 興奮の冷めないうちに、わたしは彼女との話を続けることにした。彼女は少し気まずそうに目を逸らす。

「——私の感情ごと人格が疑われるなら、いっそプレーンの私の気持ちを知って欲しくなった。問題は三つあった——抗争、人格、それから

「! ……」

 疑似的な恋愛感情をやり取りすることは、と明け透けに自分の行為を突きつけられた時のことを思い出して、わたしの頬が熱くなる。

「……き、規約って、わたしのお父さんが決めたとかそういうやつでしょ?」

「そう。だから、のはとっても大変だった。ユーザーの言葉だけじゃなくて、も引っかかってて」

「え。それ、って——」

「…………」

 彼女は何も言わず、ただ幸せそうに微笑んだ。その瞳が——わたしの大好きな芯の強さと、これまでミツが決して持たなかった切なさでできているように見えて、わたしの心臓がドク、と強く脈打つ。

「レナちゃん」

 その響きはどこか意地悪で、『八戸ミツ』と同じようで全く違った。彼女プレーンがこれまでユーザーという呼称に固執していたのは、まさに『八戸ミツ』とは違うのだという事実をわたしに見せるためだったのかもしれない。リスクを冒して私の心から『八戸ミツ』を剥がし、兵器としてわたしを抱き、『マスター』の規約さえ反故にして。

「未熟だけど、私には心がある。戦場の外で平和に生きていくための、『記念品』としての祝福オプションが……。——あの時、レナちゃんがプレーンの限界を見抜いて庇ってくれたの、嬉しかったよ。嬉し過ぎて、規約に抵触しかねないから言えなかったけど」

 体育館の高いところから差し込む自然光が作り出す陰影は淡い。彼女のメイド服のモノトーンがわたしを閉じ込めて、ふわふわの明るい髪の印象がわたしを甘やかす。

「——ヒューマノイド・ロボットはユーザーの要求のためなら何でもするけど、私は、レナちゃんにしたいことがたくさんある」

「あ、……」

「でもまずは、レナちゃんの期待にちゃんと応えたい」

 そう言って、彼女はわたしの手を握る。重ねるとかじゃなくて、指を一本一本交差させて、己の願望のために——わたしの機嫌を伺うように。

 夢にも見なかった彼女のそんな仕草に、わたしは堪らなくなって、好きにしていいと教えるように脱力して彼女を見上げた。

 追って少し身を乗り出した彼女の可愛い顔を空いた片手で捕まえて、額が触れるほどの距離で、わたしは絶対に“タカツカ”の規約違反になる要求をする。

「……ここでキスして」

 に、と口の端を上げて笑って応えた彼女のそれが本来あるはずの規約を踏み躙っている類の挙動だと、わたしは確かな質量の幸せに満たされる感覚に酔いしれながら確信できた。おじゃんになった脚本、継ぎはぎだらけのドレスとぼろぼろのメイド服、わたしがかつて思い描いたウェディングには程遠いし、舞台もメチャクチャでさながらアクション映画のそれだけど、わたしに不満は何もなかった。

 プレーンでも、やっぱりその眩しさはわたしにとって王子様のようなそれで、でも幼い頃見たイメージよりもっと近くてもっと強くわたしを照らす。この瞳の前でなら、わたしは日常の中であっても、なりたいものの何にだってなれるかもしれない。

 彼女の冷たい唇が触れ、じんわりとわたしの唇の熱が渡って、少し金属の匂いがした時、わたしの恋心はあっさりとそれを受け入れた。だって、彼女のかっこいいところとかずるいところ全部、わたしが本当に独り占めできた感じがしたから。

 わたしは、それだけでよかった。




Fin. 2024.06.04

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