インパーフェクトメカニカルガール
ミツ。
今、どこにいるの?
「…………」
わたしのせい?
冗談だったんだよね? それか、わたしが変な夢を見ただけかな。
ミツ?
わたしたち、親友だよね。
「……はあ」
ミツとわたしのトークルームは今日も音沙汰なし。生活リズムの乱れとストレスで濃ゆい隈のできた自分の顔が写るロック画面を鞄に放り入れて、わたしは重たいため息を吐いた。衝撃でまた画面の点いたスマホが暗闇に報せるのは、八月二十七日という絶望的な日付。本番まで、タイムリミットはあと一週間しかない。その内みんなで集まって練習できるのは、多くて僅かに三回。机の半分を占領する積み上がったテキストのように、気分は重い。
わたしの演技は普通だけど、あんまり間違えないから結構みんなに褒められるし、お咎めなし。エルズワース・成田はめちゃくちゃ照れるし揶揄われて不謹慎なことも言うけど、練習については真面目だから問題はない。ミュリエル令嬢役の江野さんは、最初は演技に迫力がなかったけど、随分上達してきた——一旦セリフが飛ぶと頭が真っ白になることを除いて。アラベラの父役の森くんは、相変わらず声の低さでゴリ押してる感は否めないけど、衣装があればまあそれっぽくなる。
ピリピリすることもあったけど、脇役で目立ったミスのないわたしは大体の場合傍観者だった。これまでにどんな話し合いがあったか、いまいち覚えていない。……わたしの時間は、夏休みが始まる前の、配役が決まってすぐのあの日から止まっていた。
「ごめんなさい。ユーザー・レナ、しばらく何も言わないで欲しい。それができないなら……私は、あなたの友人ではいられなくなる」
わたしを突き放すミツの言葉がフラッシュバックする。ユーザーなんて呼び方も論外だけど、友人、って言い方も何だか堅苦しくて、ミツを大親友だと思っていたわたしは、サポートだかヒューマノイドだかよりも前に、暗くて深い落胆に沈んで何も言えなかった。当然、何も訊けなかった。冗談だと否定されることはないと分かっていて、わたしは、それが恐ろしかった。
ミツが三時間きっかり動かなかった間、保健室のベッドで、わたしはミツの制服の下を覗いてしまった。……乳頭のない胸、鼓動の代わりに聞こえる微弱な物音、胸元に触れると浮かび上がる水色のテキスト——
わたしがミツと過ごしてきた九年間——ミツがわたしの小学校に転校してきて大親友になってからの全ての時間、ミツは一度もわたしに裸を見せたことはない。体育の着替えで肌着は脱がないし、水泳授業の時、ミツは絶対にタオルを体に巻いて着替えていた。で、ミツは……宿泊行事には決まって参加しない。
八戸ミツはヒューマノイド・ロボットだったのだ……。
「…………」
今日は午後練。わたしは学校に行かなくてはならないし、そこでミツと会う。
あの日以前より雑になったヘアセットで妥協して、わたしは軽い制鞄を持ち上げた。元々わたしはこういうことに律儀に皆勤するタイプではないんだけど、ミツと連絡を取れなくなった現状でみすみすチャンスを逃すわけにはいかなかった。
誰もいない狭い家にわたしの立てる音だけが響く。母さんは朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。行ってきます、と言う習慣は、中学生になったあたりで消滅した。
靴を履く。学校指定の白さを誇っていたはずの靴は薄汚れて、踵は少し潰れている。滑りの悪いドアガードを外す。わたしの目はまだ寝ぼけている。
「……えっ」
押し開いたドアの前に人影があって、反射的にわたしの喉は恐怖に引き攣った。でも、すぐに、そこにいるのは同じ制服を着た少女だと分かる。
「——ミツ」
わたしの家にはチャイムがない。だから立って待ってたんだ。
「あ……えっと、」
ドアを半開きにしたまま、わたしは狼狽えた。ミツに表情はあるのになくて、つまりそこに立っているのは、わたしが会いたい八戸ミツじゃなくてヒューマノイド・ロボットだった。その彼女(性別があるのかどうかも、もう分からないけど)がわざわざわたしの家に来る意味が分からなかった。
わたしは単刀直入に訊くことができなくて、不器用に質問した。
「み、ミツの家は、駅の反対側だよね」
お父さんに言いつけられているとのことで(お父さんなんて最初からいなかったんだろうけど)、ミツの家にお邪魔したことはなかった。でも、方向は知ってる。わたしと一緒に登校するとしても、いつもはミツがここに来るんじゃなくて駅で待ち合わせていた。
「ユーザー・レナ」
「…………」
「一つ問題が取り除かれた。駅に着くまで、話すべきことを話させて欲しい」
「問題って……」
「昨晩、BHM——
「なに……何の話? 何を言ってるの?」
ミツは。機械的な淡々とした口調で、わたしたちの日常には本来縁遠い言葉を並べ立てる。あの悪夢の続きだ。
「レナ。そんなに長くドアを開けてたら、この季節は家の中に虫が入るかもしれないよ」
「……誰のせいだと思ってるの」
わたしは悔しくて歯噛みしながら、ミツに背を向けてドアを施錠した。ミツはわたしが振り向くのを待ってから、当然のようにわたしの隣を歩く。違和感のないその動作を今の彼女がすることが、わたしにはひどく不自然で歪に見えた。
「何を話すつもりなのか知らないけど、わたしが知りたいのは、一つだけだよ」
「お父さんに、もしバレたら全て話すように言われてる。ユーザー・レナには全てを知る権利がある」
彼女はわたしの知らない何かに必死で、わたしがミツとあの青春を続けられたらそれでいいと思ってることになんて一つも気づいてはくれない。
これが、勝手に盛り上がって想いを告げてしまった罰なんだろうか?
見慣れた通学路、幼馴染の姿をしたロボットは語り始める。
「“タカツカ”は、私の一世代前に役目を終えた。私は最後に造られた記念品だった」
「高塚、って……わたしの、名前」
「お父さんがどんな仕事をしてたか知ってる?」
「お父さんって、わたしのお父さんのこと? ……ううん、事故で死んだっていうのは聞いたけど」
「そう」
「それが何だって言うの……」
「高塚レナの父、私たちのマスター——高塚トキオ氏は、ヒューマノイド・ロボットに、戦闘用途に耐え得る処理能力、知能、俊敏さ、耐久性、全てを実現した偉大な人だった」
——父は十年前に死んだ。元々全然家に帰ってこない仕事人だったから、母さんは悲しんだけど、幼かったわたしにはよく分からなかった。
彼女は、まるでわたしの父の死を悼むような口ぶりだった。娘のわたしよりも。
「戦闘用途って、どういうこと? お父さんは何をやってたの?」
「当時、世界情勢は、水面下において危機的に不安定だった。どの国も戦争の準備をしていて、——ううん、あの時世界大戦は確かに起こってた。ある意味で民主化された戦争の時代、その更に次の時代……その期間で日本が進めた中に、ヒューマノイド・ロボットの開発があったの。最初は高級な盾にしかならなかったけど、マスターは私たちを兵士にしてくれた」
「兵士——」
「でも、高塚トキオのヒューマノイド・ロボットの噂は他国に広まってしまった」
わたしが物心ついた頃には、世界情勢は今の均衡を保った形になっていた。荒唐無稽な話に感じる……が、ヒューマノイド・ロボットは確かに目の前に存在している。
「マスターは、捕らえられた先で、自分の脳を爆破して自殺した……。だからこそ彼らは私たちのレシピを求めていて——二十年経った今も、私たちは“タカツカ”と呼ばれて狙われている」
「そ……それじゃ、ミツも」
「そう。——BHMは、私たちを狙う最後の組織。この抗争は、沈黙の戦争時代の残り火」
それが真実なら、ミツには大きな魔の手が迫っているということだった。
わたしは言葉を失って、恋心で彼女を困惑させ、幼い悩みで彼女を責めていた自分が恥ずかしくなった。ミツにとって何より重要なのは、わたしの父、高塚トキオの技術の結晶である彼女自身を守ることに違いなかった。
「ユーザー・レナ、疑問は解消された?」
「……、……もういいよ」
「納得してないように見える」
「——……」
本当は、八戸ミツとそのロボットとしての自我、どっちが本物なのか知りたかった。でも、彼女は今わたしをユーザーと呼ぶ。それが答えだと思った。
「……じゃあ、ミツは何でわたしの幼馴染だったの?」
わたしは投げやりに訊いた。
「マスターが私に命じたことは、『レナを孤独にさせないこと』だった」
「——っ」
「待って」
最低だ。やっぱり耐えられずに走って逃げ出そうとしたわたしを、彼女は簡単に捕まえてしまった。その手はミツの外見の印象に反してびくともしなくて、わたしはまた怖くなる。彼女は悲しそうな表情をして言った。
「友達になれて、すごく嬉しかった。学校も楽しかった。だけど、BHMとの抗争に巻き込むわけにはいかない。……だから、もう少しだけ待って欲しい」
「ばか。……今更、戻れるわけないよ……」
「…………」
演技をしている時でも出てこない、激情に震えた自分の声が滑稽だった。彼女の声と、よく対比が効いている。
「わたし、ミツがちゃん付けで呼んでくれるの、大好きだった」
「——あ、」
「心配してくれるのが大好きだった。ミツが、こんなわたしのことを選んで、大切にしてくれてるのが……嬉しかった」
けど、それはミツ自身の意思じゃなかったんだ。
元に戻ってとも縋れないなら、大好きなシルエットが歪んでいくだけなら、訣別するしかない。
「——見えてる世界が違うのは分かったから、せめて、もう、ミツのことは思い出にさせて! そんな呼び方しないで。……わたしの中のミツを嘘にしないでよ‼︎」
今度は、彼女の手は簡単に振り払えた。わたしは一目散に駆け出して、曰く戦闘用で俊敏なヒューマノイド・ロボットがその気になって追いかけてくることを恐怖しながら駅に駆け込む。
頭の中はぐちゃぐちゃで、疑心と願望が入り乱れて何も解らない。今まではこういう時、全部ミツに聞いてもらっていたのに。今からあの教室で、主役を引き立てる脇役を演じなければならないのに、悲劇のヒロインじみた感情が溢れて止まらない。
「ううーっ……、」
入線メロディーに紛れて小声でうめいて、わたしはちょっと泣いた。ミツのことが恨めしかったし、何より自分が情けなくて嫌だった。
どうせ同じ電車だって分かってるはずなのに、ミツは追いかけてこなかった。
「エルズワース様」
「…………」
「心中お察し致します。愛する人の父が、あんな男だったなんて——。今や、王都中の人が知っています。婚約者様のお屋敷にも、大勢が詰めかけているとか……。エルズワース様? 婚約者様のことは、どうなさるおつもりなのですか?」
「……私は、彼女を婚約者にしたいわけではない」
「あら、そうですの?」
「——本来私の婚約者選びは家柄に始まり、家柄に終わるべきものだった。彼女は優秀な外交官の娘だったが、それだけだ。それすら汚れた今、私は彼女を選ぶべきではない……」
「ええ、ええ」
蒸し暑い教室で、江野さんはじりじりと距離を詰める。ミュリエルの性格は江野さんとはまるで合わないが、彼女はうまく自分の可愛さにミュリエルを落とし込んだ。エルズワース・成田は脚本では動じないが、現実では少し身動ぎする。
「……だが……どうしても他の選択肢を考えられないんだ」
「————」
「頭では諦めるべきだと分かっている。それなのに……溌溂な彼女の淑やかな所作が、——私の言葉に耳を傾けるあの微笑みが、——瞼に焼き付いて離れない……。確かに彼女の父は悪人だったかもしれないが、彼女もそうとは限らないはずだ。私は……やはり、彼女を……」
「失礼ながら、エルズワース様はきっと、女性経験が少ないからそう思ってしまうのですね」
「……何だって?」
「——わたくしで試してみませんか、殿下?」
「……! 何をっ……」
「——ああ、騎士の皆様、そう殺伐となさらないで。わたくしは、エルズワース様に友人としてアドバイスしたいだけなのです」
最初の頃はこのシーンに野次が飛んだけど、もうみんなそのエンタメには飽きた。クラス演劇の成功(あるいは失敗)という、もっとホットなシーンが目前に迫っているからだ。みんなそのためにピリピリしている。本来なら理想的な状態なんだろうけど、わたしはどうも外からそれを眺めているような気分が抜けなかった。
「アラベラ様としたことを教えてくださいな。わたくしが同じことをして——もし、あなたの心が動いたら、わたくしの仮説は正しいということです」
ここで暗転する。演技に合わせて動きを確認している他班が額を突き合わせている。
わたしの出番は次だ。立ち上がって、ずっとスタンバイしているアラベラに付き添って枠内に入る。それで、しばらく突っ立ってるだけ……。
ミツの背中は、一人だけまだ衣装が届いていないのに違和感がないほど凛としていた——アラベラ姫の衣装の素材に選ばれたのは、輸入品で入手に時間のかかる布だった。みんなの視線は彼女に集まっている。わたしと喧嘩別れ(一方的だけど)をして、ますます喋らなくなった彼女を。
わたしとミツが学校に来ても話さないのを訝しまれる時間はなかったけど、わたしは心の底で、誰かが八戸ミツがわたしの方を見ないことを指摘して欲しいと思っていた。そうすれば、ミツは元通りの態度になるかもしれない。彼女の言ったことを信じるとして、ヒューマノイド・ロボット……“タカツカ”なんて、多数に知られたらまずいはずだ。
……でももしそうなっても、それで元通りになるのはきっと態度だけだ。
わたしは今更、“タカツカ”の置かれた状況に慄き始めていた。実感は湧かないけど、彼女は、わたしとの友情より重い——人間で言えば、命の——問題に立ち会っているんだ。わたしの我儘に付き合わせてる場合じゃないのかもしれない。
八戸ミツは一歩踏み出し、セリフを諳んじる。
「姫になれば自由な時間はないかもしれないと、エルズワース様は仰ったわ。その時は構わないと思ったものだけど」
「…………」
「いや、やっぱり聞かなかったことにして。贅沢な悩みだもの、この街が少し遠くなってしまうかも、なんて」
心地良く張り詰めていた空気が、冷たくなっていく。わたしは演技を装って少し俯いた。
ミツのセリフは丁寧に紡がれる。聞き取れるし、意味も分かる。だけど、それだけだ。気持ちがこもっていない。それはアラベラ姫の役者ではなく、立ち上がって朗読をしている八戸ミツだった。心なしか、最初で最後になったわたしとミツとでの練習の時より酷くなってる。
「……八戸さん」
監督が呆れたように待ったをかける。わたしは、死刑宣告を待つ時の方が、その後に何もなくなるから気楽そうだとさえ思った。ヒューマノイド・ロボットに演技が下手という特徴があるのかどうか、わたしは確信できないけど、いずれにしてもミツは演技が下手な普通の女子として批判を受けるしかない。
「この間、もうちょっと抑揚をつけて演じれない? って言ったじゃん」
「————」
「セリフしっかり覚えてるのはいいけどさ、なんというか……演じる気ある? せめてもっと大きい声は出せないの?」
ミツがどんな表情をしているのか、わたしからは見えない。
責められているのが他の人だったら、わたしは迷わず監督のがわについただろう。じゃあ、今の彼女だったら——?
例えば単なるスピーカーにもそれぞれ出力の限界があると、わたしは知っている。機械は人間以上に、根本的に与えられたスペックしか持てない。この推測がどれだけ意味を持つのか分からないけど、ミツはできることをやらないような人じゃない。きっと、彼女の演技はずっとこのままだ。相手が人間なら——信じて待ってあげるのが礼儀だ。監督やみんなだってそれを分かっているし、今更代役を募る方が大変だって計算してる。
ただし、本番もこうだったら、きっとみんなはミツをこの視線で見続けるだろう。わたしはそれに耐えられそうになかった。
ミツは——わたしの幼馴染の八戸ミツは紛れもなく、隣にいるわたしのためだけに存在した。彼女に舞台上で、その他大勢のために、アラベラという他人を演じる機能はないのかもしれない。それは洞察か、あるいは独占欲だった。
「——ミツ、もう無理しなくていいよ」
わたしは言った。みんなの視線がわたしを向く。
「演技苦手だって最初から言ってたもんね」
「高塚さん、ちょっと、俺が言いたいのは」
「ミツ」
良心を滲ませる監督の言葉を遮って呼ぶと、彼女はわたしを振り返る。彼女は渦中にあって落ち着き払っていて、「頑張ってみようと思う」と言ったミツの明るさは、もうそこにはなかった。元々八戸ミツの人生に、ヒューマノイド・ロボットの限界は少しずつ迫られていたのかもしれない。思い返せばおかしなことはたくさんあったような気もする——わたしの盲目な恋心がそれをぼかしていたけど。
わたしにはずっと『八戸ミツ』を演じておいて、という気持ちがないわけではなかったけど、わたしはやっぱりミツに甘かった。一方通行でも、これは愛だし、恋だった。
「ごめんなさい」
「待てよ、諦めちゃまずいって! 今更代役なんてどうするんだよ」
「わたしがやる」
わたしは自らを奮い立たせて、有無を言わさぬ態度で言い放った。教室がにわかにざわつく。
こうして、みんなにわたしがどう見られるかは想像に容易い。でも今は、ミツのことだけを考えることができていた。どんな性悪女に思われたって構わない。
「ミツ、あの時と同じシーンの、召使いAをやって。覚えてるでしょ」
「高塚さん! 何勝手に……」
「……分かった」
わたしはミツの立ち位置を追い越して、離れたところで立ち止まる。
黙らせてみせる。八戸ミツを、自分たちで祭り上げておいて厄介扱いするあの視線から匿ってみせる。
「アラベラさま」
彼女はぽつりと、脚本を読み上げ始める。
わたしは、ある種機械的な感覚で脚本をなぞる。だけどそれは、八戸ミツのそれとは違う。アラベラ姫の立ち方、間の取り方。不完全な、人間によってどう見えるかを計算された、隙のある人間の動作を。
一秒間かけて瞬きをして、ゆっくりと薄く唇を開く。観客席に呼吸音は聞こえないけど、声に乗せる息遣いを乱すことはできる。
「……なあに」
「エルズワースさまは本当にあんなことを仰ったのですか? 何かの間違いではないのですか? アラベラさまはこんなにも、尽くされていたというのに」
「——仕方のないことだわ」
「そんなことはありません。アラベラさまは、エルズワースさまのためにこれほどまでに素敵な女性になられました。今や、あなたさま以上に姫に相応しい女性は、この王国中のどこを探してもいないでしょう」
「努力してきたのは、あの子も一緒だわ……」
「あなたは、既に選ばれていたのです。それを横から奪い去るなんて、誰であろうと許されることではございません! あんな……あんな、噂ひとつで」
「…………」
「アラベラさま、あなたは怒るべきです。憤り、あの方に想いを訴え、報われるべきなのです」
「……いいえ、それは違うわ——」
「どうしてですか」
「——エルズワース様は、……私の婚約者である以前に、王子だからよ。王子が向かうは——世間」
わたしは教室というこの空間を睨みつけて、覚めない悪夢に狂いそうな気を押し込めて吐き捨てた。
「世間にとって、噂は真実なのよ」
「——……」
わたしの召使いAとミツの召使いAは違うし、ミツのアラベラ姫とわたしのアラベラ姫もまた違った。教室はしばし沈黙に包まれる。
だけど、最初に誰かが「……い、いいんじゃないかな」と言ったので、わたしたちの時間は進み出した。
発言したのは、 『ウルサンの鐘』の原作者たる周藤さんだった。いつも恥ずかしそうに端っこで練習を見守っているけど、こだわる時はかなりこだわる。
「適材適所というか、八戸さんが本当によかったらだけど、——もし二人が交代するなら、アラベラと召使いを今の二人の雰囲気に合わせて書き直したくて! えっと——だから、その……」
「……一週間前にすることじゃないのは確かだけど」
監督は顔を顰めたまま言う。しかし当事者であるわたしとミツが平気な様子なのを見ると、ため息を吐いてやれやれと首を振った。
幸い、わたしのアラベラとミツの召使いAは、なんとか許容されるバランスに収まっていたらしい。
「——これだけはまずはっきりさせておくよ。八戸さん、あの時はアラベラ役を引き受けてくれてありがとう」
「ううん、楽しかった。うまくできなくてごめんなさい、みんな……」
「ミツは悪くないよ」
最初から、わたしが堂々と主役に名乗り出ていたらよかった。演技を苦手だと言うミツにもっと寄り添って、無理そうならそれを察してもっと早くこうすればよかった。
「高塚さんも、すごく説得力のある演技だった。二人とも納得してるみたいだし、予定とは違ってもいい配役だと思うよ。たまたま採寸も間に合うしね」
「ややこしくしちゃってごめん。わたしたちも楽しめる、いい劇にしよう」
わたしは涼しい顔をしてそう言ってみせた。
想像の中のわたしは、汗さえもキラキラさせながら大きく腕を振りかぶり、高らかに声を上げながら堂々と歩いたり、走ったりする。
アラベラ姫はわたしが特別やりたい主役じゃなかったし、実際あまり似合ってもいないと思う。だけど、大口を叩いて実際に演じてみせたわたしを、クラスのみんなはミツの顔色を窺いつつ認めてくれた。彼女は一丁前に八戸ミツの顔で、主役を演じるわたしを嬉しそうに見ていた。
練習が終わって、あの日以来初めてわたしから近づいていくと、彼女は立ち止まってわたしを待った。
「——レナちゃん」
「……。呼び方、無理に戻してとは言ってないよ」
「でも、この方が嬉しい?」
「やめて、そういうの。……ユーザーってやつでいいよ」
「本当に?」彼女は微笑する。「『ユーザー』は、私たちにとって一番大事な人って意味だよ」
「そういう話をしに来たんじゃない」
やっぱり、彼女はロボットであることを隠そうともしない。その上で、命じられた庇護をまるでわたしのものと同じ愛かのように語る。彼女に今のわたしの気持ちが分かるだろうか? いや、分からないに決まっている。
「——あの……Bなんとかってやつは、大丈夫なの」
「BHM?」
「そう、それ」
わたしはただ、かつて八戸ミツだった彼女が、命を落とす……という言い方はちょっと違うかもしれないけど……可能性が恐ろしくて、目を背け続ける気にはなれなかったというだけだった。
「大丈夫だよ。BHMの装備はあの時代から停滞してるし、私たちはそういうのに対抗するために造られたんだから。鹵獲が目的だから、向こうもやれることは限られるし」
「……そう」
そこは誘拐とか、言って欲しかった。
「今までもずっと……狙われてたの?」
「わたしは『記念品』だから、存在を知られてなかった。でもBHMは最近、過去に鹵獲したわたしたちの仲間を使って、わたしたちの位置情報を取得できるようになった」
「そ……それって、危ないじゃん! 今だって……」
「安心して、ユーザー・レナ。マスターは抜かりない」
マスター。高塚トキオ。わたしのお父さん。
「私たちと同じビーコンを持つものはたくさんあるから。私たちは逆に、それを利用してBHMの動きをコントロールすることができる」
「そんなこと言ったって……」
「絶対に負けたりなんかしない」
声を少し硬くして言う彼女の、その少し険しい表情は、わたしが初めて見るものだった。やっぱり危ないんじゃん、とわたしは思う。でも、わたしの家にはお父さんの遺品の一つもないし、お母さんは何の仕事をしてるのか知らないまま結婚したの一点張り。わたしが首を突っ込む方がやばそう。いや、わたしはただ怖いのかもしれない。
「絶対……私はユーザー・レナの元に帰って来る」
「お父さんに命令されたから?」
「——違う」
核心を突くと、彼女は一瞬理解に時間をかけた後、迷うことなく否定してくれる。でも、それを言葉通りに受け取って安心できるほど、わたしは安い女じゃなかった。
胸の奥でぐるぐる溜まっていた暗いものが、ついに吐息に混じりだす。
「じゃあさ、」
「……?」
「今日、わたしが代役になって——どうだった? 悔しかった?」
「え……、そんなわけない。ユーザー・レナがやりたいことをやれるのが、一番——」
「わたしは、ミツのためにやったんだけど」
自分の声が尖っているのが分かる。本当はこんなこと言いたいたいわけじゃない。
「ミツがあのまま変わらない演技をして、みんなから疎まれないようにって、善意でミツの役を奪ったの。……せめてお節介って言ってよ。頑張るって決めたのに、って。——今のあんたはもう、わたしの大親友の『八戸ミツ』じゃない」
「——……」
彼女は困惑している。わたしは顔を逸らした。
「わたしはミツのことが好きだから、あんたを庇ったの。でも、やっぱりあんたに心はないんだね」
感謝して欲しいわけじゃない。ただ、虚しかった。
「それだけ。色々話してくれてありがと、応援してる。……じゃあね」
逃げるように背を向けて、わたしは一人で帰路につく。イヤホンを耳にかけたけど、音楽を選ぶ気力はなかった。わたしのプレイリストに染み付いた呑気なリズムは、今の気分を逆撫でるばかりだった。
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