パーフェクトエレクトリックガール
清純派おにロリ推進委員会
エレクトリックパーフェクトガール
「姫様、レイア姫様。お可愛らしゅう御座います」
マリーが、顔の優しい皺の中でも特に優しい皺を深くして微笑む。わたしのパニエのシルエットを指でなぞるように撫でる手は生き生きとしていて、今日のマリーは、落ち着いていて上品だけれど華やかなラベンダーの花束のようだった。
マリーは、幼い頃からわたしの世話をしてくれた。昔はお転婆……というよりも、もっと野蛮だったかもしれない……わたしはお世辞にもお淑やかな女の子ではなかったし、着飾ったりお化粧をするのだって面倒臭がってばかりだったから、そういう性格を抜きにしても可愛くなかったと思う。それでも、マリーはいつもわたしに女の子の生来持つ輝きを見出してくれた。
そして、今日、わたしはその光を纏っている。
わたしは姫になったのだ。真っ白なドレスはウェディングドレス。首には宝石のネックレス。肘から手を覆うのはレース素材のスリーブで、コルセットは少し苦しいけれど、わたしは堂々とヒールのパンプスで立つ。
「マリー……ありがとう」
マリーがラベンダーなら、姿見に写るわたしはさながら白いアネモネの花だった。感極まって瞳を潤わせたわたしに、マリーは仕方なさそうに目を細めてベールを下ろす。まだ泣いてはいけない、お化粧が崩れてしまうから。何も言われていないけれど、わたしはうん、うんと頷いて、すうと一度深呼吸をした。
「……行ってきます」
「はい」
わたしはゆっくりと歩きだす。対になったベールガールたちがわたしの後に続く。
教会から荘厳な、絶え間ないオルガンの音色が漏れ出しているのにようやく気が付いた。終わらない夢を見ているような心地で、その場所に近づいていく。その時間は無限のように感じられたけれど、境界線を越える一歩は一瞬だった。
わたしのために用意されているとは思えない、広い、とても広いステージ、大きなステンドグラス——だけど、その空間の奥に立つたった一人の視線と、わたしの視線は合う。その人——王子様はタキシードに身を包んでいて、こんなことをわざわざ言うのも野暮で恥ずかしいことだけれど、特別にセットされたふわふわの明るい髪も、引き立てるメイクなんてされてしまった顔立ちも、長い脚も、全部が格好いい。
王子様は目元を綻ばせて、わたしが壇上に来るまでが待ちきれないふうに爪先を少し動かす。わたしは駆け寄りたくて堪らなくなったけれど、ヒール、トレーン、ベールガール、色んな不安要素があって、せっかくマリーに可愛らしくしてもらったのに不恰好なところは見せたくなくて、台本通り緩慢に歩く。
……わたしは……そして、王子様のところまで辿り着く。王子様は、決して男らしいとかハンサムとか、そういう人ではない。ただわたしにとって唯一の優しい人で、ふわふわの子犬みたいな容姿をしているくせに「にっ」と口の端を上げる笑顔が可愛くて、そう、こうやって私に手を差し出してくれる、その仕草がどうしようもなく眩しい人だ。
王子様の唇が柔らかく弧を描く。わたしの名前を呼ぼうとしているのだ、と、その瞳が煌めくから分かる。わたしの鼓動は速くなり、全身が緊張して、でも心がほどけていく。
「レイア——」
「——レナ!」
「わっ、」
いきなり大声で名前を呼ばれて、わたしは飛び上がるほど驚いた。実際には、頬杖をついていたところから身動ぎをしたから、椅子がほんのちょっとだけ動いたのと、肘をゴンと机に軽く打ち付けただけだった。
「ちょっと、聞いてた? 今、残った面子で、とりあえず演者と裏方どっちがいいか手上げてもらってたんだけど」
合理と哀愁のシチュエーション。クラス中の視線をわたしに集めやがった張本人様は、ひらひらと真っ白な議事録のファイルを弄びながらそう宣う。わたしはすぐさま、「そっか、ごめんごめん」と悪びれなく返した。
「まあレナは演者だよね」
で、ユリカもすぐさま、結局わたしの意見なんて聞かずにそう言う。わたしはヘラヘラ笑った自分の口角がひくつくのを感じたけど、わたしが選ぶとすれば最終的にはやっぱり演者を選ぶのは事実だから文句は言わなかった。えー細かい作業とか絵とか苦手だし、というセリフを、わたしがこれまでの人生で何回言ったことか。わたしはそういう人間なのだ。
十六歳、夏、二度目の高校演劇。クラスメイト同士がにらみ合う配役決めの時間は、どの学年になっても妙な空気感だ。
もちろん確固とした自分の目標を持って、その通りに挙手できるなら苦労はない。問題は……問題があるとすれば、演劇という行為に付き纏う非現実への飛躍が、プライベートを隣人同士で癒着させた高校生にとっては些か異質だということ。
わたしには無理だった——この場で、演者をやりたいかやりたくないか(裏方をやりたくてやるっていう選択肢は過去の自分が潰してしまっている)、その選択を自ら曝け出すことは。ユリカが背中を押してきっぱり突き落としてくれたのは、実はわたしにとってはラッキーだったわけだ。
「うんうん、何でもいいよー」
「それが困るんだけど」
ユリカはちょっと不機嫌だった。わたしとユリカは、入学直後の一ヶ月間出席番号が近かったから最初はうっすら仲良くしていたけど、それ以上にはならなかったから徐々に互いの優先度が下がっていった。今はほぼゼロに等しい。ユリカの中には、わたしの雑な部分の印象だけが残った。
このまま配役まで決められるのはさすがに嫌だな、と思って、わたしはいかにも生徒らしい拙いチョークの字に目を向ける。ユリカとタッグの男子が書いたひょろひょろの『ウルサンの鐘』の字。周藤さんっていう子が書いたオリジナルの脚本——ウルサンっていうのは蔚山広域市のことじゃなくて#FF8304らしい。曰く、クライマックス、王子と姫が誓いを交わすシーンで夕焼けを浴びた鐘の色、とのことだ。これを大道具班はどうやって表現するんだろう。
右、タイトルの横からメインキャストが並ぶので、わたしは左の方から空欄に対応するキャスト名を見てみる。騎士B、神父、召使いA(Bは埋まっている)、街娘……。どれもパッとしない。名前がないから当然だ。
「——じゃあ、私他薦してもいい?」
唐突に、そう声が上がって、私は最初にユリカに呼ばれた時より驚いた。
その声はいつも通りで、ユリカのように集団の時間を切り分けようとするものではなかった。振り返ると、彼女は相変わらず何の変哲もない学校机に勿体ないほど綺麗に背筋を伸ばして座っていて、面食らったわたしに、珍しくどこか申し訳なさそうに苦笑いをする。
「レナの役のこと?」
「……うん。レナちゃんに召使いAをやって欲しくて」
「いいけど、何で?」
大親友の他薦はもちろん快諾したけど、彼女がこういった場で発言するのは珍しかったから、思わず訊いてしまった。彼女は答える。
「心細いから……」
「え?」
わたしはもう一度、黒板を見た。
ウルサンの鐘。
王子、成田(クラスで一番身長が高い)。
姫、八戸。
令嬢、いや待って——八戸? 八戸ミツ⁉︎
それは紛れもなくわたしの大親友の名前だった! わたしは彼女をまた振り返って、黒板を見て、彼女を見て唖然とした。ミツは困ったような顔をしている。
「ええっ、ミツが姫なの⁉︎」
「だからさっき、みんながそれがいいって言ってそうなったじゃん。ガチ寝じゃん」
驚いたけど、ミツの顔がとんでもなく可愛いってところは同意せざるを得ないので、わたしは「いいじゃん」と無難な返事をしつつ頭の中で、数秒で十種類のドレスを彼女に着せた。彼女はほどよく身長が高くて身体のバランスがいいから、たとえ受験を控えて厭世的になった高校生が低予算で作ったドレスでも着こなしてしまうだろうと思った。
「困ったね、私が姫だって」
ミツは心底可笑しそうに、でもちょっと思い悩んだように言った。わたしと二人になると、彼女の声はいつもひそひそ話をするように抑えられて、ただの雑談でも心がくすぐられる。ミツは人見知りだからわたし以外に特定の友人はいない。校舎裏のベンチがわたしたちの定位置。
半袖のセーラー服は、そんなわけないけど薄く青く透き通った白色をしている。ミツの白くて綺麗な腕に、木陰の涼しさは投影されている。
「アイツらも案外見る目あるじゃん。ミツ、絶対似合うよ」
「でも……」
「いーいじゃんやってみようよ! この脚本読んだ時、この姫は江野さんみたいなカワイイ系でも、ユリカみたいなハツラツ系でもないなあって思ったんだよね。ミツなら納得だよ」
『ウルサンの鐘』の姫、アラベラ(ラストネームは舞台でやる上で、と脚本を見る上でややこしいから早々にカットされた)のセリフは多くない。ミツにとってはとんだハプニングだろうけど、わたしはちょっとワクワクしていた。メインキャラクターなのにセリフが多くないってことは、立ち振る舞いが重要だってこと。その綺麗さで、ミツの右に出る者はあのクラスにはいない。
「わたしのセリフは結構多いなあ……、周藤さんは説明セリフをサブキャラクターに言わせるタイプだ」
「あはは、確かに」
「はああ〜、どうしよう……。ミツの頼みだし、わたしもミツのアラベラ姫見たいから頑張るけどさー」
「…………」
ミツは弁当箱も開けずに、その上に出した台本のプリントに目を落とす。アラベラの出演シーンは、全体の三分の一くらい。
わたしが言ったことに頷きも微笑みもしないのは珍しくて、わたしは思わず怯んで黙ってしまった。彼女は、脚本の文字を読んではいなかった。
「……ミツ? そんなに嫌だったなら……」
「違う。私は演技が苦手だけど、嫌じゃないよ。頑張ってみようと思う」
ミツの声は迷っていない。彼女の困惑は、彼女自身に託された姫役へ向けたものではなかった。
心臓がドクンと鳴る。
わたしだ。
「——レナちゃんは、召使いAでいいの?」
「……!」
ミツの瞳がわたしを真っ直ぐに射抜く。全てを洞察しようとする冷涼な眼差し、でもそこに宿っているのは、不安。不安の種は——わたしへの心配。その視線を受けると、わたしの喉はカラカラに乾いてしまう。
心配してくれているのに、わたしの脳内は嬉しいばっかりで埋め尽くされて、わたしは頬が赤くなっていないことを祈りながらよろよろと視線を逸らすことしかできない。するとミツは膝を寄せて、わたしの顔を覗き込むようにした。
ミツはよく天然で純粋でふわふわな女の子だと思われてるけど、この時のわたしにとっては違う。ストレートなのに軽い明るい髪も、日光の下で見たら長い睫毛も、わたしのために用意された狡猾な罠のようにしか思えない。……甘い罠だ。
「レナちゃん、言ってたよね。演劇やってみたいって」
「うん……」わたしは半ば恍惚としながら頷く。
「どうしてあの時、立候補しなかったの? ……教えて欲しい。じゃないと、私は納得して引き受けられない。私はレナちゃんが主役だったら嬉しいな、って思ってたから」
演劇に興味があるのは嘘じゃない。一度でいいから、思いきり他人になってみたい。大きく腕を動かして、声を出して、感情を表現してみたい。想像の中では、私は舞台上のスターだ。
でも、どうやらわたしのその気持ちをゆうに上回るものは、例えば直近で二つある。一つは、わたしの現実から『ウルサンの鐘』への飛躍の大きさ。そしてもう一つは、——たった今わたしを支配する歓喜だ。
ミツはただ、わたしを慮ってちょっと深入りしてみただけ。こんなに簡単に押し流されてしまう夢しかないだけなのだと知ったら、ミツは失望するだろうか。知られたくない。知られたくないけど、そういう後ろめたさがあるわたしには、ミツと同じような清潔さを保ち続けることもまた難しかった。
「……やってみたいのは嘘じゃないけど、できないと思うから」
「そんな、私の方が右も左も分からないのに」
「そうじゃなくて、……大した夢じゃないから、人の視線が気になるの。情けないよね」
——つまりそういうことだ。わたしは、ミツが覚えていたわたしの夢の価値を下げることで解決を図ることにした。
「意気揚々とやったところで、上手いか分かんないし。ていうか、上手いわけないし」
「レナちゃん」
「マジになって笑われるのも、主役になれたのにヘラヘラしちゃうのも嫌だったの。私、多分そのどっちかしかできない。……わたしよりやりたがっている人に任せた方がいいと思った。その結果で、ミツが姫になっちゃったけど。ごめんねなんか、ミツに背負わせたいわけじゃないの、ホント。聞かなかったことにして」
早口で捲し立てる。ミツにあの顔をされると、思ったことを口に出してしまう。それが彼女に言うべきじゃないことでも。これでミツが視線を気にするようになっちゃったら、わたしはミツの大親友じゃいられなくなるな、って、いつも言ってから気付く。
わたしを心配してくれる時のミツの顔が好き……だけど、今は見れない。
「——ごめん……。召使いにしてくれて、ありがと」
「召使い役は……怖くない?」
「怖くないよ。嬉しかった」
ミツの雰囲気が柔らかくなる。少し間を置いて恐る恐る見ると、彼女は安心したように微笑んでいる。
「一緒に練習しようね、レナちゃん」
「……うん。ミツ、わたし下手だったら言ってね、本当に」
「ふふ。レナちゃん先生も、いろいろ教えてね」
「ご、ご期待に添えるかどうか……」
「あはは。なんで先生が敬語なの」
「だって」
わたしは本当にミツに感謝してて、……とかいうのは重いか。わたしの脳は咄嗟に言い訳を探した。
「——わたしはミツの召使いだからね。教育係も兼ねてるかな〜」
……あちゃー。とわたしは思ったけど、ミツは目を輝かせていた。まあ、それならいいか……と思ってしまうわたしは、とことん彼女に弱い。ふやかされてる。大好き、って伝えたいけど、タイミングがよくわからない。
土、日を挟んで月曜日、わたしはやっぱり浮かれていた。
『ウルサンの鐘』はひどいタイトルだし、お世辞にも分かりやすくて面白い物語とは言えないけど、それでいいと思う。配役決めのあの時間までは心底ベッタベタの王子と姫の恋愛なんて描いた脚本を恥ずかしく思っていたけど、現金なことに、ミツがお姫様でわたしがその召使いって考えたら、わたしは高校演劇という青春の時空にいつの前にか身を預けていた。
でも、姫ってことは、わたしの献身の果てにミツは男と結婚するってことでもあった。成田ケイト、改めエルズワース。
「……『エルズワース様。素敵なお手紙ありがとうございます。私もそうだといいなと思います。またお会いする時、改めてご挨拶させてくださいませ』」
昼休み、わたしたちの憩いの場所で、ミツは脚本に書かれたセリフを読み上げる。小学校の音読で、自分の番が回ってきたからとりあえず何となく読んでみたみたいな声色だった。わたしはそれがちょっと面白くて、ミツがどんな表情でそれを読んだのか気になって見てみる。
けど、ミツは真剣な顔をしていた。茶化そうとしていた自分が恥ずかしくなって、わたしは一旦口を噤む。演技は苦手だと、彼女は言っていた。
でも、わたしには分かった。ミツのこれは『苦手』とは限らない。
「お父様が? そんな、何かの間違いでは」
「ミツ、ストップ」
そのまま、次のアラベラのセリフ——別シーンの——に飛んだミツを、わたしは神妙な面持ちで制止した。ミツは真剣な表情のまま視線を上げる。本当に、書いてあることを読み上げるだけで精一杯って感じだ。ミツはすごく記憶力も言葉の処理速度もいいはずだから、問題はセリフの長さじゃない。
「……レナちゃん?」
「ちょっと脚本貸して。……あった、ここ。 姫と召使いAのシーン」
脚本を捲って、真ん中の方のシーンをミツと一緒に見る。物語はもちろん中盤で、二人が話す内容は、前と後があることが前提になっている。ミツは不思議そうにわたしを見た。わたしは、何でもそつなくこなしがちのミツの大根演技を反芻して、今度はニヤニヤが抑えられなくなってきた。一旦、咳払いで仕切り直す。
「一人で読んでも、なかなか掴みにくいんじゃないかな。だから先に一旦、掛け合いのとこやってみよ? ミツは演技が苦手なんじゃなくて、どうやればいいのかまだ知らないだけだよ」
「……分かった。レナちゃんがそう言うなら」
「じゃあ、わたしからねー」
笑いながら言って、——それから気づいた。今からわたし、練習で、ミツだけの前だけど、演技をするんだって。
わたしは、自分からやると言ったのにギクっと固まってしまった。憧れておきながら、わたしはやっぱり現実の表層に雁字搦めだ。ミツが、アクションを促すようにまばたきをする。ドキドキと、ミツが傍にいるからとは違う、冷たい鼓動が逸る。
そのとき、ミツは脚本へ乗り出した身を引いて、スッと真っ直ぐ背筋を正した。
——それだけだった。わたしは少しぽかんと口を開けて、彼女に呼びかける。
「アラベラさま」
彼女は応えた。
「なあに」
「ああ、エルズワースさまは本当にあんなことを仰ったのですか? 何かの間違いではないのですかっ? アラベラさまはこんなに……こんなにも、尽くされていたというのに……」
「仕方のないことだわ」
「そんなことはありません! アラベラさまは、エルズワースさまのためにこれほどまでに素敵な女性になられました……! 今や、あなたさま以上に姫に相応しい女性は、この王国中のどこを探してもいないでしょう!」
「努力してきたのは、あの子も一緒だわ」
「あなたは、既に選ばれていたのです! それを横から奪い去るなんて、誰であろうと許されることではございません! あんな……あんな、噂ひとつでっ……‼︎」
「————」
「——アラベラさま。あなたは、怒るべきです。憤り、あの方に想いを訴え、報われるべきなのです」
「いいえ、それは違うわ」
「……どうして、ですか……」
「エルズワース様は、私の婚約者である以前に、王子だからよ。王子が向かうは、世間。世間にとって、噂は真実なのよ——」
「————」
「…………」
しばらく、わたしとミツは、お互いの姿を確かめるようにまばたきを繰り返した。ミツの目は見開かれて、それからその顔がぱっと明るくなる。
「——レナちゃん、すごいよ!」
「わっ」
そう言って、ミツはずいっと身を乗り出してくる。大人しい彼女がここまで感情を露わにするのは久しぶりだった(……演技中は、相変わらず大根だったんだけど)。
「やっぱり、この役になってもらってよかった」
「本当? ……うう、誰かに聞こえてなかったかな……」
「あの演技の上手い子は誰だ! って思われてるかもね」
ミツは悪戯っぽく言う。自分の演技を見られる、聞かれるなんて一番恐れていたことのはずだけど、誇らしそうに笑う彼女がはしゃぐのを見ていたら、わたしはやっぱり嬉しくなってしまった。幸せだった。
「か、勘弁してよ〜。主役はミツなんだから、ミツが目立たないと」
「私にできるかな」
「できるよ」
わたしが即座に言うと、ミツは困ったように、でも楽しそうにクスクス笑う。彼女は、復習するようにもう一度「アラベラさま」から「噂は真実なのよ」のテキストを目で追って、それからもう少しページを繰った。ストーリーはしばらくアラベラを蚊帳の外にして進んで、次に彼女が登場するのは——エルズワースと想いを通わせ誓いを交わす、そのくだりの前になる。
キスシーンこそないけど、異国想定のラブストーリーだから、当然姫と王子の距離感は近い。恋はよく分からないと恋バナを曖昧に躱す高嶺の花の八戸ミツには、エルズワースの愛情表現はちょっと荷が重いように思った。……まあ、ミツはやっぱりやる気で、わたしはそういう真面目なところが好きなんだけど。
「……誓い……」
「さっきのシーンはアラベラ姫が沈んでるところだから、淡々とした喋り方で合ってるけど……ラストシーンはそうは言ってられないね。こりゃ特訓だ」
演技をミツに褒められて、わたしはもう有頂天だった。偉そうにそうミツに言うと、彼女は気合を入れた顔で頷く。
「レナちゃん——」
「ん? 何?」
「大変なお願いだって分かってるんだけど、……レナちゃんならできると思う」
いきなり何? わたしは狼狽え方も分からないまま、ミツのいつになく真摯な瞳に下から見つめられて動けなかった。
「王子様役も、やって見せてくれないかな」
「え……!」
それは、わたしにとっては願ってもない頼みだった。考える前に、わたしは「いいよいいよ! やろっ!」とオーバーリアクションで手をばたつかせている。格好つかない! けど、これからわたしは姫のために王子様を演じるんだ。
「ラストシーン以外にいいシーンあったかな?」
「うーん」
アラベラとエルズワースが直接対面するシーンは、全体を通して三つ。一つが冒頭に約束された公的な挨拶、二つ目がダンスパーティのくだり。
「……やっぱり、前の二カ所は登場人物が他にいたりするし、わたしたちだけで練習してみるならラストシーンじゃないかな」
その提案に下心が全くなかったと言うと、嘘になる。
ミツは「覚えてる? さっきは何とかなったけど」と心配そうに問う。わたしは、「大体ね。脚本ミツが持ってていいよ」と答えた。既にかなり読み込んでるのがバレてちょっと気恥ずかしいけど、ミツはそんなことを揶揄う人じゃない。
「じゃあ——やってみよう。えっと、鐘の前で……王子様が姫を捕まえるところから」
わたしは意を決して、ベンチから立ってみた。ミツもそれに倣って立ち上がる。距離を取るわたしを見て、彼女は若干不安そうにわたしに背を向けた。
また、わたしから始めないと始まらない。呼吸を整えて、ミツの……アラベラのことだけを考える。彼女は、夕方六時を告げる直前の鐘の前で泣いている。鐘は高いところにあって(詳細は決まっていない)、彼女が立っているのは、その鐘の下ではあるが、やはり高い、屋根の上だという。彼女はそこから広場を見下ろしているのではなく、反対側に立って空を見上げていた。
「——アラベラっ‼︎」
わたしは絶叫するような心地で彼女を呼ぶ。
駆け寄って、逃げようと体を傾けた彼女を抱き締める。
「——こんなところで……一人でいさせてすまない……」
……待って! と叫んだのは、わたしの心臓だった。ミツはわたしより身長が高くて、でも、エルズワースとしてぎゅうっと抱き締めると、その柔らかな体つきが、曲線的な骨格が、わたしの全身に伝わってきてしまう。
「エルズワース様、あなたは酷い人です」
「——、ああ、そうだな」
ミツは女の子で、わたしもそう。なのにこんなに甘い痺れを覚えるわたしの卑しい表情を、ミツは見抜いてしまっただろうか。
「……——」
「レナちゃん?」
「っ! ご、ごめん。続きね。——アラベラ、聞いてくれ、あなたにとってはずっと鳴ってほしくなかったであろうこの鐘には——ある言い伝えがあるんだ」
「言い伝え」
「『この鐘の前では、偽りの約束を交わすことはできない』。もし交わせば、それを口にした者は、それから七度目の鐘の後に命を落とすという」
「迷信だわ」
「たとえそうであっても、わたしは王子だ。みだりに命を危険に晒すことはできない。——だが、問題はないんだ。なぜなら……これからわたしが約束することは、全て真実なのだから」
エルズワースは、力の抜けたアラベラの手をそっと取ると、向かい合うようにさせる。
「アラベラ、」
——愛している。
そのセリフが喉につっかえて、わたしは、恥ずかしくて堪らなかった。それが演者として中途半端であることと、ミツを相手にそれを口にできない惨めさとで。
「…………」
ミツもその躊躇いを察したのか、少し照れてはにかみ視線を彷徨わせる。その純粋さも心に痛かった。
エルズワースは片腕でアラベラの腰を抱いていて、もう片方の手は恋人繋ぎにしている。本来なら彼は彼女を見下ろして、包み込むように額を寄せるはずだ。
——わたしにはできなかった。わたしは、わたしが、ミツにそうして欲しいからだ。
「えっと……」
ミツが、棒読みじゃなくて普段の調子で声を出す。わたしは、縋り付くように腕の力を強めた。姫と王子——その役名を聞いて、わたしが最初に想像したのは、ドレスを着たわたしとタキシードのミツの姿だった。
ミツはわたしの王子様なのだ。
「わっ。どうしたの?」
わたしはミツの胸に飛び込んで、多分変になってる顔を押し付けた。どうしたの? って言いながら嬉しそうにわたしの頭を撫でて髪を弄るミツも絶対、わたしのことが好き。
「あはは、照れちゃって可愛い」
「……うう」
どうしよう。自分の頬が真っ赤になってるのが分かった。もしかしたら耳まで赤くなっていて、彼女にはそれがもうバレているのかもしれない。
ああ、どうせ筒抜けに決まってる。どう足掻いても、わたしは……。
「ミツ……好き。大好き」
「もう、唐突だって。レナちゃん、私も好きだよ……」
いつもの、囁くような声。わたしのためだけの声。
顔を上げたら、木漏れ日の淡い逆光さえ味方につけて、八戸ミツはきらきらを纏っている。
「……結婚してって言ったら?」
「わたしとレナちゃんは、結婚できないよ」
「じゃあ、」わたしは固唾を呑んで、震える声で言った。「——付き合ってって言ったら……?」
もうすぐ夏休みが始まる。
わたしとミツは幼馴染だけど、所詮クラスメイトだ。もちろん学校外でも連絡は取り合うけど、登校期間みたいに毎日会うってわけにはいかない。でも、もし、わたしとミツが恋人だったら?
この時、わたしの頭はおかしくなっていたんだと思う。でも、重要なのはミツの返事だけだった。
彼女が少し驚いた表情をした後、わたしを天国と地獄の門前でたらい回しにする沈黙が落ちた。わたしの真っ赤になった頬からは段々血の気が引いて、心臓は痛いほどに鼓動を細かくする。だけど、わたしはミツに好かれてるってことについては揺るぎない自信があった。
それから、ミツはアラベラ姫の棒読みで言った。
「——サポートされていません」
「え?」
わたしの間抜けな声と同時に、目の前の制服に、青っぽい、電子的な光が透ける。
さっきまで熱く感じるほどだった彼女の手が、無機質に思える。瞳孔がぐるっと直線的に回転して、無表情になった彼女は、予め設定された警告を口にした。
「ヒューマノイド・ロボットと疑似的な恋愛感情をやり取りすることは、規約違反に該当します。ペナルティとして、三時間の強制シャットダウンを実行します」
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