泡立ちのブルーホール

蟹味噌ガロン

誰も戻らぬ深い穴

 ブルーホールと呼ばれる海の穴がある。洞窟や鍾乳洞が何らかの理由で海に水没し、海の中に深い穴が出来上がった場所のことだ。上空からそのブルーホールを見ると、青い海の中に深い青色の円となっている。


 そして、そこは多くのダイバーが事故で命を落とす危険な場所でもある。


 俺の目の前にあるブルーホールは別名"泡立ちのブルーホール"と呼ばれている。名前の由来はその通りで、海面が泡立つ事があるというだけ。なぜ泡立つのかの理由は不明だ。何せ危険すぎるため、これまで調べられてこなかったのだ。


 ここ泡立ちのブルーホールも他のブルーホール同様に、過去に潜ったダイバー達を幾度となく飲み込んでいった禁断の地だ。


 ただし、泡立ちのブルーホールに限っては、戻らなかったダイバー達の遺体回収ですら出来ない。内部構造すら不明という、相当いわくつきの場所だ。


 ブルーホールの内部はサメの住処になっていたり、狭くて暗い為、窒素酔いが起こりやすいと言われている。


 ……中には化け物が住み着いているのだ、なんてバカみたいな噂話が流れる。


「俺が帰還第一号だな」


 海に漂うボートの上で、俺は腕を回して気合いを入れる。今日は良い天気だ。昼下がりの日差しが強く、あたたかい。時期的には日に日に気温・水温共に上昇し、水の透明度が下がっていくため、潜るなら今日だ。スーツを着用し、ボンベを背負って海に足を入れた。


 何故そのようないわくつきの危険な場所に潜るのかって?


 ここ泡立ちのブルーホールの底を、この目で確かめたいからに決まってるだろう。


「さて、どんな風景が広がってんのか」


 どの程度の深さなのか。今回は100メートルほどまでは潜る予定だ。ブルーホールが泡立つ瞬間を目撃することが出来ればベストだ。


 冷たく温かい海の感覚がふくらはぎから太腿へ、そして胴体から頭部へ。視界にはぶくぶくと白い泡が水面へと昇ってゆく。見慣れた光景だ。口に咥えたレギュレーターからゆっくりと息を吸い込む。


 深く、深く海の底へと潜る。


 海にきらきらと輝く太陽の光。

 潜るにつれて太陽の光が段々と届かなくなってくる。


 徐々に辺りが暗くなってきた。


 ごぼり、ごぼりと。空気の泡が顔の周囲に出来る。

 ゆっくりと、呼吸をするたびに泡が上へと昇っていった。


 ゆっくりと深く潜るにつれて鍾乳石のゴツゴツした突起が見えてくる。ヘッドライトを点灯させ、ゴツゴツした鍾乳石に引っかからないように注意しながら、ただただゆっくりと奥へ沈む、沈む。


 ふと、視界の端に何かを見つけた。ヘッドライトの明かりを照らし、近づく。


 ボロボロになったダイビングスーツだ。鍾乳石に引っかかっているそれを手に取る。


 何故スーツだけ? それに何故破れてただの布切れ同然となっているのだろうか? 首を捻りながらも近くに何かないかと探してみると、見つけた。さらに下の方に何かある。


 ヘッドライトに照らされるソレはダイビングに使うボンベだ。ベコベコに凹み、捻れてぐしゃぐしゃになったボンベが転がっていた。


 どんな風に力をかければあんな風に凹むのだろうか。

 そこまでぐしゃぐしゃになったボンベなど、見た事が無い。あるはずがない。


 嫌な予感が急に襲ってくる。

 背筋がぞわりとした。


 周囲を急いでヘッドライトで照らす。おかしな海流でもあるのか、突然変異したサメでもいるのか、と変なことばかり頭をよぎって周りを見て気づく。


 どうして魚一匹、居ないのだろう。


 こんなにプランクトンが豊富な場所なのにどうして魚一匹も見当たらないのか。泡立ちのブルーホール外の海には多種多様な魚をたくさん見かけた。それなら同じ様に泡立ちのブルーホールの内部にも魚がいて当然のはずなのに。サメだって見当たらない。

 どうして。どうして、ブルーホール内には生き物が全く居ないのだ。


 息が少し浅くなっていた。ボンベの空気をこれ以上、無駄に消費しない様に目を閉じ、呼吸を整える。

 そして徐々に高まる不安を押し殺しながら、上を見上げ、ゆっくりと海面へと上昇していく。一度浮上しよう。


 まだ俺は全く潜れていない。今いる深さはブルーホールの全長の何分の一くらいなのだろうか。ほとんど潜れていない事は確かだ。けれども、帰らなければきっと大変な事になる。ダイバーとしてのこれまでの経験が脳裏で警鐘を鳴らしていた。


 そうして浮上していくと少し周囲に太陽の光が満ちてくる。

 なんとも無かったか、と油断したその時だった。まるで窓から差し込む太陽をカーテンで遮ったかのように急に再び暗くなる。


 何かが光を遮った。


 目の前に答えがあった。


 大きな手だ。


 人ひとり分を握ってしまえそうな程に大きな手。細長い指に広い水かきがついている。


 現実にはありえない。見た事が無い。

 一瞬、夢かと思い、息が止まった。


 ごぼり、と泡の音で正気に戻る。


 振り返れば大きな手はもうひとつ、俺の背後まで迫って来ていた。大きな両手で挟まれた。


 ごぼごぼと、泡が顔の周りに溢れた。俺は思ったよりも動揺していた。手足をばたつかせて身体が上へと逃げている。急浮上はまずいのだと頭では理解している。理解しているのに体が勝手に上へと向かっていた。


 つと、見なければ良いのにブルーホールの底を見てしまった。


 白く、長い腕が見えた。

 長い長い腕の、その根元には。


 歪な歯が俺を待ち受けていた。


 鮫よりも数の多い歯だ。


 そこに引っ掛かっていたのは。


 色とりどりのダイバースーツの残骸。


 見た瞬間、駄目だった。心臓が止まってしまったようだった。全身が冷える中、必死で手をかき、足をばたつかせて光へと向かって上昇する。


 息をしているのかなんて分からない。


 口の中に血の味がしている気がした。目の前が泡で真っ白に……


(急げ急げ急げ急げ急…………あれ?)


 光が小さくなった。


 ゆるり、と大きな手に挟まれた。


 見上げる海面では細長い指が交差する。


 籠の目みたいだった。


(ぁ)


 手が海底に引かれる引かれる、引かれる。

 それは急激に。

 否応なしに海底へ。


 底の景色は、暗かった。


 











 手の中のかつて人だったものは肺だけでは無く体も、ボンベも急な潜水に耐えきれずにぐしゃぐしゃになっていた。


 無邪気な大きな両手は楽しげに獲物を捕まえて海底から海面へと上下して遊んでいる。


 ブルーホールはその日一日、海面の泡立ちが消えなかった。

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泡立ちのブルーホール 蟹味噌ガロン @kanimiso-gallon

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