第5話 悪魔でなく、鬼
「――サム! サ~ム!!」
耳に響く自分を呼ぶ声と、瞼に感じる温かい光で、サムは目を開けた。
「……あぁ、おはよう」
「いつまで寝てんだよ。ほら、行くぞ」
見知らぬ少年はそう言うと、サムへ手を伸ばした。
サムは上体を起こし、辺りを見回す。そこはとても狭い小屋だった。ところどころ穴が空いている屋根からは太陽の光が差し込み、つぎはぎの壁の隙間からは風が吹いている。
「? どうした?」
返事をしたものの呆然とするサムを見て、少年が頭の上に疑問符を浮かべる。
サムは意識がはっきりとしないまま、何をしていたのかを思い出そうとした。
すると、自分の手が目に入る。誰もが当たり前のように動かす普通の手だ。健康的とは言えないが、その白い肌の下には確かに血が通っているのが分かる。
サムは自分の手を太陽の光にかざした。眩い光を手のひらで受け止めると、そこにじんわりと温かさが広がった。
「……?」
太陽光のぬくもりが残る自分の手をサムは見つめた。サムは何か違和感を感じつつも、その正体に気付けない。それよりも何故か、生きているという実感がサムの心に刻みつけられた。
「なぁ、マジに大丈夫か?」
「あぁ、いや……うん。大丈夫。ただなんか……悪くない気分で」
そう言ってサムは自分が寝ていたマットレスを手で撫でる。バネが飛び出し、黒い汚れまみれ。紛れもなく、サムの慣れ親しんだ寝床だ。
「あー? そっ、か。んで仕事は? 行くのか?」
「え? ……あぁ、そうだ。お金を貯めて……。……今行く」
「ようやく起きたかよ? 急げ急げ」
目的を思い出したサムは、ボロボロの上着を羽織り、少年と外へ出る。
小屋から出て目に入るのは、木に囲まれた鋪装されていない道。少し遠くには高い建物が並ぶ街が見える。2人はいつも、この景色を見ながら金を集めに行っていた。
見慣れた景色に、サムは何故か懐かしい気持ちを感じた。
「最近なーんかツまんないな。サム、また本の読み方とか教えてくれよ」
「……は、嫌だよ。お前どうせすぐ寝始めるだろ」
「いやいや、今回はマジでやる気だぜ? 俺の本気知らないだろ~?」
何気ない会話だった。一日のほとんどを一緒に過ごす彼らは、それでも会話が尽きることを知らない。日によって、金の稼ぎ方だったり、喧嘩だったり、内容は違っていたが、それでも一緒に居ない時間は無かった。
それがサムの日常だ。食事も、物乞いも、何でも、この少年と行動を共にする。
今日も2人は、楽しそうに会話をしていた。不衛生な身なりで、2人して少し下品な笑い声を上げている。
いつもと変わらない生活の筈だったが、サムは途端に、これが、かけがえのないものだと感じた。特に気に留めることはしなかったが、サムは心のどこかで、この時間が永遠に続けばいいと思った。
「なぁ、車の窓ふきはやっぱ止めないか? 前に怒って来た奴が居たらヤバいぞ?」
「ん? ……あぁ、大丈夫だろ。確か、最近は何かのイベントで観光客も多いらしいし。金持ってるくせに世間知らずだからな、連中は」
どこか、ボーっとした様子でそう言い放つサムに、少年は難色を示す。
「うーん、何だかな……。それより拾い物を狙うのはどうだ? 人が多いってんなら小銭もじゃんじゃん落ちてそうだけど」
「おいおい、この世じゃ価値が大きいのは小銭より紙の方だぜ? ……まさか数字が読めないなんてことは無いよな?」
煮え切らない少年に、サムは少し煽るように冗談をこぼした。
「ちょ! 馬鹿にしすぎだ! でも言われてみれば、何で金属とかよりも紙なんかの方が高いんだ?」
「それは……紙の方が楽だから? ほら、管理とかさ」
「ホントかよ…………なんか変な世の中だよな」
突然、少年は何気ないように含みのある発言をした。その言葉に何か引っかかりを覚えたサムは、前を歩く少年の背中を見つめ、その真意を問う。
「何が?」
「だってよ、小銭って……ようは鉄とかでできてて、それって道具とかハイテクって感じの物に使えるんだろ? じゃあ何でそれより、あんな紙切れなんかの方が高い値になるんだ? 燃やすくらいしか使い道なんて無いだろ??」
どうやら少年は硬貨と紙幣の、その価値の曖昧さに疑問を抱いているらしい。
サムは「こいつってそんな細かい事を気にする奴だったか?」と、少年を訝しむ。少なくともサムは、目の前の少年が、このような哲学的な疑問を抱く人間ではない事を知っている。
「お前はどう思うよ?」
悩み足りないのか、その少年はサムに意見を求めた。サムはその答えに悩み、困り顔を浮かべる。
「……どうもこうもないだろ。人がそう決めたんだから」
それがサムの精いっぱいの答えだった。少年の疑問を拭うため、ちゃんとその由来を知っていたかったと一瞬サムは考えたが、そんな事をいちいち気にしていても仕方ないと思い、頭の中を振り払う。
「そっか…………。何か、ヒトって思ったより身勝手な生き物だったんだな……」
少年は、どこか力なく、そう小さく呟いた。そんな発言をして、普通に歩く少年だったが、サムの眼にはその背中がとても儚げに見えた。
「な、なぁ大丈夫か? 急にどうしたんだよ?」
心配になったサムは、そう聞かざるを得なかった。
「別に、本当に何もない。ただ…………なんで気付けなかったのか、今になってみると、すごく不思議に感じるんだ」
返って来た少年の言葉は冷たく、寂しそうな感じがした。ただならぬ雰囲気を感じとったサムは悪寒を感じ始め、あの街へ急ごうとする。
「……そう、か。……とりあえずさ、もう早く行こうぜ」
「……」
「っ……? お、おい?」
サムが足早に歩こうとすると、少年が突然立ち止まる。それには明らかに、サムの行く手を阻むような意図があった。
「……お前は行けないよ、サム。あの街はもう……死んでるんだ」
ふざけているような雰囲気ではない。少年は真面目に、そう言った。
訳の分からないことを言い出す少年に、サムは困惑する。しかし、同時にサムの頭は、それを理解しようとすることも拒絶した。
「今になって始まった話じゃないけどな。……もうあそこには何も残ってないんだ。だから、お前はもう行かなくていい」
「……な、何言ってんだよ」
そう言葉を絞り出すのがやっとだった。
まるで要領を得ないといった様子のサム。そんな気を知ってか知らずか、少年はそのまま、サムの方へ振り返って話を続ける。
「……覚えてないよな。今日、というよりこの日は、あのレストランのゴミ箱を漁る日なんだ。いつだったか……俺がしくじった尻ぬぐいで」
その文言は、まるでここが現実ではないと言っている風だった。
そんな変なことを言い出す少年……サムの親友の姿からは、まるで生気というものを感じられない。
そして突然、サムの頭に鋭い痛みが走る。堪えがたい激痛だ。
「……サム。もういいんだ。俺はもう、気にしてなんかないんだ」
そう言葉を紡ぐ親友は、とても悲しそうな顔をしていた。目にはうっすらと涙さえ見える。
その親友の顔が嫌だ、と思ったサムは何とか声を出そうとする。
すると、背後から何者かの気配がした。気付けば周りの風景も変わっている。その景色に、サムは既視感があった。
「アァ……ァアアァアアア……」
サムが振り返ると、そこに居たのは、あの化け物だった。サムが、いつも見ていた悪夢の住人がそこに居る。だがしかし、いつもあれから感じる怒りや苦しみは鳴りを潜め、その醜悪極まりない姿からは、何故か後悔や哀愁を感じる。
「サム」
親友が、サムの名前を口にする。
ここでサムは、ようやく気が付いた。彼が呼ぶ自分の名前は、自分と、あの化け物に向けれらている事を。
すると、化け物が姿を変えた。まるで業火が一瞬で消えるようにして現れたのは、サムと瓜二つの子供……いや、サム自身であった。
「……許さない。俺は…………自分を、許さない……」
子供はそう言うと、顔を両手で覆い、縮こまるように丸くなった。
何が起きているのか、サムは理解できていない。いや、正しくは理解したくないだけだろう。サムは目の前にいる子供を見ると怒りが込み上げ、背中に突き刺さる親友の視線に酷い罪悪感を覚える。
「何で、俺だけ……」
「やめろ」
弱音を吐く子供に、サムは苛立たしい気持ちを抑えられなかった。自身の恥辱を傍から見ているような不快感に、サムは表情を歪ませて言葉を吐き捨てる。
「くる、しいよ」
「……お前のせいだろ」
サムの手に力が入る。思い切り爪を立てているのか、拳に血しずくが滴っていた。
「ビリー」
「お前のせいだろがァ!!!」
我慢の限界を迎えたサムは、目の前の子供に拳を突き立てた。殴られた子供のものか、それともサムの拳からか、勢いよく赤い塊が飛ぶ。サムはそんなことを気にすることなく、続けて何度も拳を振るった。
「何、被害者ヅラなんかしてんだ!? 全部……全部、お前のせいだろ!! 全部、お前の罪だ!! 償うんだよ!!! だって、だって……!!」
他でもない自分が、弱音を吐き始めたことに気が付くと、サムは振るいあげた拳を止めた。
その拳は真っ赤に染まっていた。
しかし纏う血だけでは、その鬼の手は誤魔化せなかった。よく耳を澄ませば、その震える手から無機質な機械音が聞こえて来る。それは、サムにとって目を背けられない現実そのものであり、自身の罪の証明でもあった。
「ご……め……」
サムに殴られ、顔がぐちゃぐちゃに変形してもなお、子供は告白をやめなかった。
「ごめ……ん。……ご、めん、ビリー」
「……」
それが、かつて自分が言えなかった謝罪の言葉であることを、サムは思い出した。
最後の最後まで、親友へ言えなかった言葉。文字通りの一生分の後悔。友の亡骸に言葉を残すことすら叶わず、サム自身も一度、その一生を終えた。
「……何の為に、生きてるんだ……この身体は……」
そう言ってサムは自分の身体を見下ろす。血に塗れた冷たい手足に、時が止まっているかのように成長しない自分の体躯。この身の何もかもが、サムは嫌いだった。
「……記憶なんか無くたって分かってた。自分が、許されない人間だって……思い出したくも無かった…………もう、緩やかに……死なせてほしかった……」
力なく項垂れるサムは、そう告白した。もう子供の姿はどこにも見当たらない。
「サム……」
「やめてくれ……言葉とか信条なんかじゃもう、ダメなんだ。……終わったんだよ」
サムが神を信じようとしたのは、少しでも本当の自分から逃げるため。それがただの現実逃避で、許された気にしかならない行為だと分かっていてなお、その事実に蓋をしていた。
サムの目から涙がこぼれた。後悔や羞恥、何より自分自身への怒りで胸がいっぱいだった。
「……サム」
「……もう……やめてくれ」
そこにいる親友は、自分が生み出した都合のいい幻だとサムは確信していた。自身の妄想で、故人となった友を、傷を慰めるための道具として使っている。そう考えれば考えるほど、サムは更に自己嫌悪に陥っていった。
しかし、親友であるこの彼は、サムのただの妄想なんかではなかった。
「サム、思い出してくれ」
この一連の景色は、サムの頭が作り出した妄想ではない。
「俺の、最後の言葉を」
ここに死んだ親友の意識はもちろん、あるわけがない。
しかしその正体は、サムの頭の中にある確かな記録だ。
「……これで最後なんだ。これから先、こうやって話すことはもう無くなる。だから最後に聞かせてくれ。お前の……サムの本心を」
「……」
そしてサムは回顧する。一度、人生が終わったあの時の事を。
子供たちの悲鳴と、肉と骨を砕く音。それが自分の頭の内側から響いてくるような地獄の景色。
そして、耳に残った親友の最後の言葉。
「――許してやる」
最後まで素直になりきれなかった親友の、偉そうで、冗談交じりで……紛れも無い本心の言葉。
「――許してほしい」
そしてサムは親友の最後の願いを思い出した。
サムは、自分の中で止まっていた歯車が動き出したような感覚を覚える。
思い出したくない過去とともに封印していた大事なこと。結局、自分にとって都合のいい妄想に浸っていることを自覚するサムだったが、この本音に嘘をつくことなどできなかった。
デーモンのプログラムには、宿主であるサムの体を制御、支配する役目があった。
与えられた任務をこなすため、あらゆる事態を予測し、対応する人工知能のような機能が備わっている。
これは本来、人間の感情や、身体に起こる小さな機微を抑制する働きをしていた。しかし、どんな巡りあわせか、消えたはずのサムの自我が、あの船の出来事によって蘇った。
起こるはずの無いエラーが、彼の親友の姿かたちをして現れたあれは、まさに奇跡と言っても過言では無いだろう。
その結果、このデーモンのプログラムは、任務の遂行という役目を終え、別の何かに変わった。その正体は定かでないが、こうしてサムにとって必要な道を示している。
そのことをサムは知らない。目の前にいる彼の存在が、自分の幻想を表していると本気で思っている。
しかし、だからこそサムは自分の本心と向き合うことに決めた。
「――ごめん、ビリー」
サムは、そう呟いた。とても小さな声だったが、やけに静かなこの場所で、その声はよく通った。
そう言ってから少しして、感極まってしまったのか、サムの目からボロボロと涙が溢れる。少年はそれを真剣な表情で見つめていた。
「前にも言ったけど……いいんだサム。もう許すよ。だから」
「――許す、許すよ……! お前は何も、悪くないんだ」
サムはビリーを抱きしめた。サムは、あの頃より少しだけ成長した身体に、目一杯の力をこめる。
ビリーは何も言わずに笑顔を浮かべ、サムを優しく抱き返した。
親友と喧嘩別れをしてしまった一生の後悔。それが長年の罪悪感とともに、どこかへと消えていく。ひとしきり涙を流したサムの心中は、とても穏やかだった。
果たして、それが良い事なのかサムには分からない。しかし、そんな事はどうでもいいと思えるほど、サムが恋焦がれた平穏が、そこにあった。
「サム、もう時間が無い。お前は今すぐ起きないといけない」
表情から笑みが消えたビリーが、深刻そうな声色でそう言った。サムはゆっくりと体を離すと、不安そうな顔で親友の言葉に耳を傾ける。
「どういうこと?」
「目が覚めれば分かる、けど……良くない事だ。これから酷いことが起きてしまう」
尋常じゃない様子でそう話すビリーを見て、サムは冷や汗をかく。
警告を素直に受け止めたサムは、来た道を戻ろうと走り出す。しかし不意に親友の顔が、脳裏をよぎってしまった。
「また会えるよな……?」
振り返ってそう言ったサムに、ビリーは首を横に振った。
焦ったように何か言葉が出かかるサムだったが、それが仕方ないことだと悟ると、寂しそうな表情でビリーを見つめる。
「俺はもう……どうしようもないけど、あっちはまだ間に合う。大切な人たちだろ」
ビリーは不敵に笑いながらそう言う。その元気な姿は、サムがよく知るビリー本人のものだった。
別れを惜しむ感情を恥じるようにサムはひた隠し、そして覚悟を決める。
「じゃあ、また」
「……ははっ……ああ、またな」
サムが走り去ると、そこは役目を終えたかのように景色を崩していく。遠くに見えるあの街は消え、段々と暗闇が広がっていった。
ビリーはその最中、何かを懐かしむように目を閉じ、そして姿を消した。
今度は、サムが振り返ることは無かった。あの懐かしい道をひたすらに彼は走る。
この場所に居るからか、それとも先ほど記憶を取り戻したからか、サムの頭に様々な情景が浮かび上がる。親友と、一緒に勝ち目のない戦いに挑んだ事、どうでもいい事で馬鹿みたいに笑った事。辛いことはたくさんあったが、それと同じくらい大切な記憶があった。
覚醒が近いのか、サムの身体は徐々にリアルな熱を感じ始める。ビリーの警告に嫌な予感を覚えながらも、サムの心が怯むことは無い。
ビリーがくれたこの決意を胸に、サムは無情な現実と戦うことを決めた。
「――急げ!! 早く避難を!!」
サムの覚醒し始めた意識に、慌ただしい複数の足音と切羽詰まった人の声が入って来た。時折、子供の悲鳴も聞こえ、微かにパチパチと何かが燃える音が聞こえる。
サムは急いで上体を起こした。サムは尋常じゃない量の汗をかいていたが、その上からでも分かるほどの熱気を感じる。
ビリーが言っていたように、何かが起きている。それだけ分かったサムは部屋の外へ急いで出ていった。
右肩から右腕は動かないが、その他の体調に問題は無い。その足取りは確かなもので、カタカタと揺れていた手足の震えは、もう無くなっていた。
部屋の外に出ると景色は一変していた。日はとっくに落ちているのに、辺りは火の手に包まれ眩しいほどに明るい。建物は今すぐにでも倒壊してしまいそうで、巻き上がる黒煙で呼吸が苦しくなるのが分かる。
「サム!」
奥から一人の僧が急いで走って来た。引火しないようになのか水分を含んだ袈裟が、勢いよく水をまき散らしている。
「サム! おめえも早く逃げろ!」
「俺は最後でいいです! 他にまだ人は!?」
「そんなこと言ってる場合じゃねえェ! 速くしないと奴らが来る!」
「奴ら……?」
「ああ! 奴ら……寺に火ィ付けやがった……!!」
避難を断るサムだったが、僧の口ぶりから、これはただの火事だとかそんな単純な話では無いのが伝わってくる。
念のため逃げ遅れた者が居ないか感覚を研ぎ澄ましつつ、サムは僧の誘導に従って避難し始めた。
道中、火の中から肉の焼ける独特な匂いをサムは感じ取る。サムはこの匂いを、人が焼ける匂いを嗅いだことがあった。目をやれば、ここら辺の動物にしては大きな塊が黒く火を纏っているのが分かる。中にはそれより一回り小さいものも。
サムは悟ってしまった。デーモンとして生きていたあの戦場に、また戻って来てしまったのだと。そして、サムの心には、悲しみよりも強い怒りが満ちていた。
「みんなは!?」
「こっちだ! もうすぐで――」
パァン!
暗い森まで避難してきたサムと僧は、乾いた銃声を耳にした。周りで息を潜めていた鳥たちが、一斉に羽を広げて飛び始める。
しばらくの沈黙の後、サムは無表情で指を差した。
「……あっちですか?」
「あ、あぁ……」
銃声は、避難した人が集まる池の方向から聞こえた。僧は肯定か項垂れているのかよくわからない声を出した後、そのまま膝を突いてしまう。
「……ここで待っていてください」
「は……?」
呆ける僧に見向きもせず、サムは進み始める。
「さ、サム!! ……っ!?」
流石に黙って見てるわけにはいかないのか、僧はサムの腕を掴む。だが、何を感じ取ったのか、怯えた様子で、すぐに手を放してしまった。
サムは静かに、その様子を見つめる。
「サム、おめえ……」
「……俺が、行かなくてはいけないんです」
すみません、と軽く頭を下げて謝りを入れたサムは、今度は目にも止まらぬ速さで暗い森の闇へと姿を消した。
僧は呆然とそれを見届けた。先ほどのサムの冷たい手と、怒りのこもった目が嫌に頭から離れない。
僧は震える手を合わせ、経を唱え始めた。せめて、サムが歩む道に正しさがありますように、と。
「やめてぇ!」
「――!! ――!?」
子供の悲鳴に続き、聞き馴れない言語の怒声が、サムの耳に入る。
異常を察したサムは足音を消して身を隠し、様子を見始める。
「お前らは
「ご、ごめんなさいぃ……」
「やめてやってぇ!!」
少年が怯えて蹲ってしまっている。軍人のような男が、無慈悲にも子供の頭に銃口を当てがっていた。
声をあげた大人の女性が、近くにいた兵士に銃先で頭を殴りつけられると、その場に悲鳴が木霊する。周りにいる寺の人間はみな怯えきっており、彼らもまた他の男達に銃口を向けられていた。
月光が池に反射して、辺りは明るい。涙で顔をぐちゃぐちゃにする仲間と、自身の血肉で溺れたかのように横たわる犠牲者の姿が、サムの目によく映った。
「クソッ……誰か翻訳できないか?」
「知らねえよ東洋の言葉なんざ」
「……チッ、こんなのただの茶番じゃねえか!?」
「ヒッ!!」
「おい、あんま殺すなよ? いちいち腹立てる度にそれじゃあ、誰も残らん」
本気で引き金を引こうとした男は、味方の制止の声にイラつきながら、銃を乱雑に振り降ろした。意味も分からない怒号が頭の上から聞こえてくる状況に、少年は更に恐怖心を強め、制止の声を掛けた男は一連の様子を見て、ため息をこぼす。
「少しは落ち着いたらどうだ? みっともないぞ」
「おいセルゲイ、分かってんのか!? このままじゃ俺達――」
バババババ!!!!
「「!?」」
激昂した男が何か言いかけたところで、森の中から激しい銃声が響いて来た。異常を察知した兵士達は、銃先の向きを捕虜から、辺りの森の中へと変える。
子供の甲高い悲鳴が響くが、森の奥から聞こえてきた銃声はもう聞こえない。
「……2班、応答願う」
男がレシーバーに小声で話しかけた。やけに静かな暗闇を前に、兵士の間で緊張感が走る。しかし数秒経っても、応答が返ってくることは無かった。
男はもう一度、同じ無線を入れようかと思い口を開くが、何かを悩む様に震える唇から、言葉が出ることは無かった。
兵士たちは恐怖していた。目の前に広がる森の闇に吸い込まれる錯覚を覚え、少しでも気を抜けば足の力が入らなくなる。
彼らは数年前の、とある噂を知っている。
ある日から兵士たちの戦死が相次ぎ、原因不明のまま作戦が失敗に終わるケースが増えた。作戦に投入される兵士は、ルーキーからベテランまで、そんなもの関係なく全員死んだ状態で発見される。
それは人為的なもので、某国の仕業とも分かっていたが、そのほとんどに意味不明な報告が残る。
本部の受信機に届く、死ぬ間際の兵士の肉声に「悪魔が出た」と、はっきりとそう残されていた。それにどんな意味があるのかは分からないが、多くの兵士が間違いなく、そう言い残してこの世を去っていく。
多くの人間が幻覚剤の類だと思ったが、恐怖の象徴である事に変わりはなく、一部では一人の人間の仕業だと怯える者も居た。
そんな噂話など、訓練された兵士の前では笑い話同然の筈だった。しかし、今ここに居る兵士の誰もが、その噂話が自分たちの目前に迫る闇であると確信する。
そしてその正体が、ガスや薬剤なんてチャチな化学物質なんかではない事も。
「撤ったぁあい!! 捕虜はもういい……! 近くの者と背中を合わせろ!!」
大声でそう言い放つ男。セルゲイと呼ばれた兵士はその合図に従い、背を合わせて警戒を強める。
彼らは長い付き合いなのか、言葉を介さずにポジションを入れ替えた。
こういう状況では、セルゲイが先導するように決めているのか、訓練されたその素早い動きに隙は無い。
「……お、おい」
しかし、男は気が付く。変わらず怯えてはいるが、混乱しているのか謎のどよめきが広がっている捕虜たちの姿。そして、抵抗もできなかったのか、声を上げることもせずに横たわる味方の兵士たち6名の姿に。
彼らの動きには、間違いなく死角がなかった……わけではない。
ほんの一瞬だが、立ち位置が入れ替わる瞬間に、彼らは視線移動を素早く行わなければならなかった。
まさかその一瞬で仲間が全て倒されるなど、露ほども考えないだろう。
「まずい、まずいぞ!! セルゲイ!!!」
焦りを隠しきれない様子で、男は相棒に合図を送ろうと相手の背中をタップしようとする。しかし、その手は空を切り、代わりにとてつもない轟音と共にドサッと何かが地面に倒れこんだ。
驚いた男が振り返ると、足元に転がるセルゲイの姿が目に入る。何かが頭部を通過したのか顔面が大きく抉れており、もう彼は動かないと男が悟るには充分だった。
そして、友の死を悲しむ間もなく、男の右足に大きな衝撃が走った。その何かは男の左足にまでいとも容易く届き、膝を完全に破壊すると、身体が勢いよく地面と激突する。
反射的に前へ出た両腕では勢いを殺すことが出来ず、転がっている枝の破片が右目に突き刺さる。男の脳は何をされたのか理解できず、ただ全身に行き渡るような鋭い痛みが、彼の喉を大きく揺らさせた。
「アあぁあアァぁああぁがァぁがあア!!」
「……」
悶える男の後ろには、当たり前のようにサムが立っていた。
相手の膝を完全に破壊した金属製の足を下ろし、痛みに悶える男を静かに見つめている。
「っぅ、あっ……ぅぁ……」
「……そろそろいいか?」
サムは男が喋っていた言語で、そう語りかけた。しかし、その声は男に届かない。男は引くわけも無い苦痛を、何とか抑え込もうと意識するのがやっとだった。
「おい」
「っ!!!」
少しトーンの下がったサムの声が、男の本能に警鐘を鳴らした。未だ痛みがマシになることは無いが、それを上回る恐怖が男を静かに震わせる。
「そっちの目ん玉で、これを見ろ」
サムはそう言うと、左手にある物を男に見せる。霞む半分になった視界で男が捉えたのは、手のひらより少し大きい石のような物。
「これは、ここら辺にあるただの石だ。だが比較的、強度に優れていて速度さえつけばヘルメット越しの人間の頭を大きく凹ませることも出来る。……今回はちゃんと肌を狙ったが」
男は、サムが何の話をしているのか最初は理解できなかった。しかし、記憶に新しいセルゲイの死体が、男の脳裏をよぎる。
ゆっくりとした動きで、男は背後にあるセルゲイの死体を横目で見た。目から下の顔半分が大きく抉れ、未だに血が噴き出している。
「そいつもだが、他のやつらもこの石ころでああなってる。顎が吹き飛んだ衝撃で意識を失い、出血多量でそのうち死ぬ」
淡々とそう言うサムは、次にその石を左手の握力で割った。彼が手を開くと、そこには5等分された石の欠片があった。その断面は滑らかで、大きさもほぼ均等に分けられている。
その凄まじい握力を見た男は恐怖するが、サムは気にも留めずに説明を続けた。
「偶然、5つに分かれた訳じゃない……。俺が5つになるよう意図的に割ったんだ。石の硬度、質量、形状、構成、比重……どこにどう力を加えれば、どういう形になるのか、俺にはそれが分かる」
男は混乱した。サムが言っている事の1から10まで何も理解ができなかった。それを知ってか知らずか、サムは欠片の一つを男の折れた右足へ投げた。
「ぐっぅ!?」
膝の傷口に石が命中する。突然の事に男は痛がるよりも驚愕で顔を歪ませた。
「あっちに居る6人は、俺の投擲一振りで倒した。一振りで、6人全員。6つの欠片は全て狙い通りに命中した。ちなみに俺は右利きだぞ。……まあ、あんまり変わらないけど」
楽しくなさそうにサムは笑うと、表情を消して欠片を男の左足へ投擲する。
「がぁア!?!」
あまりの痛みに男は意識がトびかけるが、サムに対する恐怖が、それを許さない。
「残りは3つ。両腕にひとつずつ、最後は顎だ。言っとくが、失血死なんかで死なせてやるつもりは無いからな」
サムはそう言うと、分かりやすく石の欠片を投げる姿勢をつくった。いまだ焦点が定まらない男の目にも、サムのその姿はしっかりと映っており、焦燥と恐怖が彼の全身を支配する。
「本題だ。今からお前に質問をする。分かってると思うが、知らないなんてのは通用しないからな……。お前ら隣国の奴らだろ? 頭はどこにいる」
サムは拷問を始めた。その意図を汲み取った男は、間もなく自分の死を悟った。
わが身可愛さで相手に情報を渡せば自分は母国で処刑される。だが、情報を渡さなければ自分はこの悪魔に殺される。「……いや、渡したところで自分はこの悪魔の手で無惨に殺されるのだろう」男はそんなことを思い、絶望に打ちひしがれた。
しかし死を悟ったところで、その恐怖が消えることは無い。男は次に、自分の死に様を想像した。自分は楽にあの世へ逝けるだろうか? そんな楽観的な考えを持てるほど、男は馬鹿じゃなかった。男は様々な死を連想するが、結局、結論は出ない。
なぜなら、処刑を銃殺で済ませてくれる母国が生易しく思えるほど、目の前の悪魔の手がどんな形をもって自分の死に触れるのか、想像すらできなかったから。
「アァ……ァ! 連、邦バンザイィ!!」
男はそう叫ぶと、奥歯に忍ばせていた毒を飲み込んだ。
悲痛な叫びには愛国心など一切なく、その虚栄には、自ら死を選ぶほどの恐怖が、ありありと表れていた。
「チッ……やりすぎたか」
想定外の事態にサムは舌打ちをこぼした。デーモンのプログラムは人心掌握術にも長けていたが、数年のブランクと、過去は制御できていたサムの感情が露呈したことによって望まない結果となった。
起きてしまったことは仕方ない、と即座に意識を切り替えたサムが、手がかりを探そうと動き始める。するとサムは、捕虜になっていた仲間たちが未だ怯えていることに気が付いた。
「みんな、もう大丈夫。今のうちに他の避難場所を探してください」
少し大きめの声でサムがそう声を掛けると、少しづつ人が動き始める。
しかし、その動きはサムに対して、どこかよそよそしい。一部の人間は、サムと目も合わせようとすらせず、黙々と荷物を運び始めている。
「お、おまえ……サムか?」
一人の僧が確認するようにサムへ近づいて来た。もちろん、知らない顔ではない。しかしその様子は、同じ屋根の下で暮らした仲間とは思えないほど、どこか他人行儀なものだった。
「……まだ追手が来るかもしれません。急いで避難を」
「あ、ああ。助けてくれたんだよな? ありがとう…………だが……本当に、こんなこと必要あったのか……?」
僧が改めてその惨状を見回した。銃痕から噴き出た血で服が真っ赤に染まった仲間の屍よりも、サムが殺した兵士の遺体の惨さが目に付く。口や鼻があった箇所が大きく欠け、そこから湧き出るありえない量の血が辺りを赤く染めていた。
「……」
ふと、サムは自分の作務衣を見下ろす。紺色の衣に染み込んだ返り血が月明りに照らされ、脛の部分は蹴りの衝撃のせいか大きく破れている。むき出しになった銀色の足には、低い気温のせいで、赤黒い肉の欠片がこびりついていた。
これに気が付いたサムは、みんなが自分を避ける理由を悟り、同時にうろたえる事無く納得する。サムは静かに瞳を閉じた。
悲しむことなど一つもない。前へ進むと決めた自分が選んだ道だ。サムは心の底から、そう思った。かけがえのない恩人の顔を思い浮かべ、サムは今度こそ、この故郷から旅立つことを決心する。決別を前にしたサムのその顔は、どこか晴れやかな印象を持たせるくらい、曇りのない顔だった。
別れの挨拶を済ませようと、仲間たちの顔を見回すサム。ここにいる人間全員が、サムにとって大事な家族といえるほど、関りの深い人たちだ。
過去の自分の問題に巻き込んでしまい、理不尽に殺されてしまった人たちの顔を見ると、サムは胸を締め付けられる。
すると、何か気付いたのかサムは汗をかきだした。この事態を引き起こした自責の念からではなく、見知った顔が足りないのである。他の人らがどうでもいい、という訳ではないが、サムにとって彼と彼女は、特に世話になった人間だった。
「昭成さんと紫織は……!?」
「それが分からねんだ。お前が寝こんでから、2人でどっかに行っちまって……」
サムの決意に揺らぎはないが、それでも2人が居なくなるような事態は看過できるものでは無かった。
少なくとも彼らの死体が、ここにも、燃えた寺の中にも無かったことにサムは気付いている。はやる気持ちを抑えられないまま、サムが駆けだそうとした。
突如、兵士が持っていた無線から声が聞こえて来た。
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