第4話 外れた歯車

「――サム」


 知らない少年が、サムの名を呼んだ。そう、彼がサムと呼ぶから、サムは、サムと自分で名乗っている。


 これはサムがよく見る夢だ。目の前の少年が、失った過去の住人であることはサムも何となく理解できているが、どうしても思い出せなかった。

 思い出そうとすると、決まって彼は恐ろしい姿に代わり、サムを襲おうと近寄って来るのだ。


 自分が過去に彼に対して何か大変なことをしたのではないか、などと考えながら、焦りと不安でサムは逃げ出す。

 彼はずっと、こちらを追いながら「サム」と言葉を繰り返す。ここで逃げてはいけない、とサムは頭では分かっているのだが、どうしてもその足は止まらない。

 そうして進んでいくうちに手足の感覚が無くなり、歩くことすら叶わなくなると、後ろから彼の足音が近づいて来る。

 サムは怖くて振り向けないまま、大きくなっていく足音を聞き――。


「!!!」


 いつも、ここで目が覚める。サムは起きると大量の汗をかいていた。びしょびしょになった寝間着の着心地が、最低なその気分を後押しする。

 外を見てみると空はまだ薄暗く、鳥のさえずりすら聞こえないほど周りは静かだ。


「……」


 今から寝なおすわけにもいかず、サムは服を着替えて散歩をすることにした。



 冬もそろそろ終わりを迎える。雪はまだ解けてないが、温かい日差しを感じるようになってきた今日この頃。

 とはいえ朝はまだ凍てつくほどに寒い。この島は地球の北側に位置しており、冬の寒さは骨身によく沁みる。


「ああ、サムさん。おはようございます」


「おはようございます昭成さん」


 サムがやって来たのは、神を祀っている小さな社。そこには昭成も居た。

 昭成は、ほとんど明るみも無いほどの早朝に、竹ぼうきで掃除をしている。


「お手伝いします」


「助かります。……また、あの夢ですか?」


「はい。ここ最近、前よりもよく見るようになってしまいました」


 この朝の散歩は、ほとんど日課と化しているものだった。サムはとっくの昔にあの夢のことを昭成に明かしており、こうして早朝にサムが昭成の手伝いに来ることは、もはや珍しくもないことだった。


「……大丈夫ですか?」


「え?」


「心なしか、今日は一段と顔色が優れませんよ」


 そう昭成は、サムに心配の言葉をかける。事実、うっすらとだがサムの眼の下にはクマができていた。

 自分が若干の睡眠不足であることはサムも分かっているが、例の夢によって、軽い不眠症になっていたせいで、なかなか眠れない日々を過ごしていた。


「昨夜のは、少し強烈だったからですかね……」


「また悪化しているのですか?」


「……段々とが距離を縮めてきているんです」


 サムがあの夢を見るたび、彼との距離が少しずつ縮まってきていた。ここ最近は、その距離がどんどんと短くなっている。

 もし彼に追いつかれてしまったら何が起きるのか……ただの夢と割り切ってしまえばいいのだが、サムは、これをよくある悪夢と断じることが出来なかった。


「今日は休んでもいいんじゃないですか?」


 昭成はそう提案したが、サムは首を横に振る。


「そういう訳にはいきません。これは自分のためのことなので」


「……そうですか。ですが体を壊してしまったら元も子もありません。どうかご自愛ください」


「はい。ありがとうございます」


 そう言って昭成は礼をし、寺へ帰っていく。1人残ったサムは昭成から受け取った竹ぼうきを手に、社の掃除を再開した。


 サムは掃除を終えると、社の供え物を取り換えて蝋燭に火を付けた。明るみ始めた景色に温かみのある色が灯る。サムは数舜、その火を見つめると、手を合わせて瞑目し始めた。



 こうしてサムの1日が始まる。信心の意を表し、どれだけ体に雪が降り積もっても、最低1時間ほどは神に祈りを捧げる。ただの日課のようなものと言えばそれまでだが、「神は居るんだ」とそう思えるようでサムはこの時間が好きだった。


「っ……」


 しかし時折、鋭い痛みがサムの手足を襲う。

 そう、3年という年月が経った。にも関わらず、例の痛みは一向に良くなる気配が無い。むしろ、時間が経つにつれ、段々と痛みが大きくなっていくようにも、サムは感じていた。


 さらに今回のは一段と強い痛み。サムは常日頃から、この痛みに慣れようと努めているが、我慢できずに表情が歪んでしまう。

 いつもこの調子で、祈りに集中できなくなり、合わせていた手を解く。そしてサムは、いつものように落胆した様子で、社の奥にある小さな仏像を見つめた。


 サムは神を信じている。いつか自分を許せる日が来ることを心待ちに、正しい道を歩もうと努力しているのだ。

 しかし今の所、結果は出ていない。もちろん、この道が一朝一夕で達成されるものでは無い、とサムも理解している。

 しかし、自身の祈りが、そのままどこかの虚空へ消え去る度、サムは疑問を膨らませざるを得なかった。


 そしてサムは、ふと思い出す。今日はとある行事日だったと。

 社に一礼をしたサムは少し名残惜しそうに、その場を後にした。



「――鬼は外!」


 2月3日、今日は節分の日だった。幼い子供たちが、鬼の格好をした大人に向かって豆を撒いていた。あまり人が多くない寺だが、元気そうな笑い声が溢れる。


「サム~! こっちに来なよ~!」


 縁側から中を覗くサムを、紫織が大声で呼んだ。


 どこか口調が丁寧になっていたサム。しかし、変化があったのは彼だけではない。


 紫織の姿を見てみると、数年前とは見違えるほど変わっていた。

 坊主だった頭には、長い綺麗な髪が生えそろっており、うっすらとだが、顔立ちや体格に女性らしさが表れ始めている。

 大抵の事に興味を示さなかった気難しい性格もどこへやら、今は誰にでも無邪気な笑顔を浮かべるくらい、快活な女の子になっていた。


 彼女の大きな変化に多大な貢献をしたのは、サムであった。

 同年代の子供と比べると、サムはかなり大人びた性格をしていた。更に、この島では、あまり見ることのない異国の顔だちに、人とは違う身体的特徴を持っているサムの存在は、紫織にとって新鮮なものだった。

 自分の知らない世界があることを、身近に感じ取って生きて来た紫織は、みるみるうちに、サムから人として良いであろう影響を受けていた。ちなみに、坊主をやめて髪を伸ばし始めたのは、サムのことが気になり始めているからである。


「俺はいいよ。皆で楽しんで」


「え~? また?」


 サムの返答に紫織が不満げな声を返した。しばらくサムを睨みつける紫織だったが、気まずくなって目を逸らしたサムを見ると、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


 サムは3年間、この行事に参加したことが無かった。

 この島国に伝わる「鬼」という悪魔。昭成との勉強の一環として、サムはこの存在を知った。


 物語に多く登場する鬼は、そのほとんどが災いや悪の象徴である。一般的に、妖怪として知られている鬼だが、昭成によると、それにも様々な解釈があるしい。

 例えば、得体の知れないもの、地獄の拷問官など、さらに一部の地域では神として信仰されることもあるようだ。


 その話を教わってからというもの、鬼にまつわる事柄、行事にサムは抵抗感を覚えてしまっていた。

 理由は本人でも上手く言い表せない。

 サムの頭の中では、鬼とは忌むべきものだ、という結論に至っている。だが、そう思うたびに、サムは心のどこかで矛盾のような違和感を感じてしまうのだ。


 だからこういう行事が無い限り、サムは意図せず、鬼についてあまり深く考えないようにしていた。


「サムさん、紫織さん、こちらへ来てください」


 昭成がサムと紫織を呼び出した。名前を呼ばれた2人が顔を見合わせる。「何の用だろう?」と不思議に思いながら、2人は昭成に言われるがまま、部屋の外へと出ていった。




「これを。お二人もそろそろ大人なので、今年から鬼役です」


 そう言って手渡されたのは鬼の面だった。赤く塗装された木彫りのそれは、とても迫力があり、その完成度は幼い子供なら簡単に泣き出しそうな程である。

 サムは思う所があるのか、微妙な顔でそれを受け取った。それとは対照的に、紫織は受け取った面を、目を輝かせて食い入るように見ている。


「本当は少し早いんですが、紫織さんの要望が強く……」


「やった! ようやく大人だ~!!」


「大人に拘るのなら少々落ち着いてくれると有難いのですが……」


 そう言うと紫織は、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ね始めた。昭成は少し呆れてその様子を見ている。


「あの、俺は別に今年からじゃなくても……」


「すみません、サムさん。紫織さんがどうしてもと……」


「当たり前でしょ。サムと私は同い年なんだから」


 サムの過去は記録ごと消えているため、年齢や誕生日などは本人にも分からない。

 しかし、紫織がサムは自分と同年代だと吹聴していたので、いつの間にか、それが周知の事実となっていた。


「今年こそは参加させるから! ほら!」


 紫織はそう言うと、サムが持っていたお面を取って彼の顔に被せた。諦めたサムが渋々お面の紐を結び始めると、紫織も満足げに自分のお面を被る。


「もう行っていいんだよね?」


「えぇ、まぁ……はしゃぎすぎて怪我なんてことは無いように」


「はい!」


 紫織は、いち早く子供たちの元へと向かった。昭成は、そんな様子の紫織を見て、いつものように溜め息をついている。


「……サムさん。大丈夫ですか?」


「あ、はい。紫織もこちらを気遣ってくれての行動だと思うので」


 心配をする昭成に、サムは安心してもらうために笑顔をつくった。鬼のお面をしているため、その笑顔が届くことは無いのだが。


 すると、サムは思いついた。

 節分での鬼とは煩悩の象徴とされている。ならば自分の中の鬼を追い出してもらうことで、結果的に良いことに繋がるのではないか、と。

 前向きに考えるための苦し紛れな言い訳だが、これも必要なことだと思うと、サムは自然とやる気を沸かせることが出来た。


「辛いようでしたら、私の方から紫織さんに話をしても……」


「いえ、俺もこのままじゃいけませんし……来年から誘われない、なんて事になったら嫌ですからね」


 サムは冗談交じりにそう言うと、パラパラと豆が撒かれる音が聞こえてくる部屋へ向かった。




「悪い子はいねえがぁ!!」


「ちょ、豆撒いてるだろ!! いい加減にしろ紫織姉ぇ!!」


 部屋に入ると、鬼役を任されて張り切っている紫織と、元気そうに騒ぐ子供たちが居た。一部の子供は、飛んでくる豆をものともせず追いかけてくる紫織に、不満の声を漏らしている。しかし、何だかんだその子供たちも楽しそうに過ごしていた。


「あ! また鬼が来た!!」


 一人の女の子が部屋に入って来たサムに気付く。すると子供たちは新しい鬼の登場に驚きつつも、意気揚々と豆を握り始めた。


「鬼は外~!!」


「いたたた……」


 投げられた豆がサムの身体に当たる。そしてサムは嫌そうなフリをする。

 お世辞にもサムの演技力は良いものと呼べない大根芝居だったが、子供たちを楽しませるには充分だった。


「鬼は外~! 福は内~!」


「おのれぇよくも!」


 次々と豆が鬼たちへ撒かれる。広い部屋を駆けまわる子供たち。

 その熱気が収まるのには、もっともっと時間が必要だろう。子供たちが全力で楽しむその様子を見て、サムはそう思った。



「アイタタタ……すまんサム。俺ぁ離脱するから。あとは若いのでやってくれ」


 鬼役の一人の男が、そうサムに詫びを入れると、彼は腰の辺りを抑えながら部屋を出ていった。無理が祟った老体を引きずる男を、サムは困り顔を浮かべて見送る。


「疲れた~」


「え~! もう?」


 どうやら疲れ始めた子供が出てきたようだ。もう既に、かなりの時間が経っているため、そろそろ潮時なのだろう。

 最後の仕事だ、と気合を入れるため、サムが緩みかかった面の紐を結びなおした、その時。


「サム」


 どこからともなく、サムを呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある声だが、ここで生活している子供たちのものではない。


 ドクン、とサムの心臓が跳ねる。サムが恐る恐る声の方へと向くと、そこには、夢に出てくるあの少年が居た。

 間違いない。これはただの幻覚だ。サムもそんなことは分かっていたが、自分の目に映るその姿は、言い知れない現実味を帯びていた。


「!!」


 名を呼ぶその少年が、サムの方へゆっくりと歩き始めた。まるで、あの悪夢の再現のような光景に、サムは冷や汗を流す。


「鬼は外!!」


「っ!」


 子供が投げた豆がサムの身体に当たる。無論、それに大した威力は無い。

 しかし、何故かサムは大きく体勢を崩した。思うように力が入らなくなった体に、サムは焦りを覚えた。それでも必死に身をよじり、夢の少年から逃れようとする。

 その様子を見た子供は、投げた豆が効いたと気分を良くしたのか、更にサムに豆を投げつけた。


「っ……」


 豆が体に当たる度、どんどんと力が無くなっていく。まさかこれが演技じゃないとは露知らず、子供たちの無邪気さがサムを襲った。


「ちょっと何やってんの!!?」


 しばらくして、サムの異常を察知した紫織が、心配そうな様子で駆け寄って来た。


「サム! 大丈夫なの!?」


「……ぁ…………ぅ」


 この異常を悟られる訳にはいかない、と思うサムだったが、もはや声を出すことすらままらない状態だった。

 あの夢と重なるこの状況に、恐怖するにまで至ったサム。紫織に体を仰向けにさせられると、あの少年の様子がサムの目に映った。


 どういう訳か彼も苦しんでいるようだった。頭を抱え、のたうち回るように苦しむその様は、とても狂気的で見るに堪えない。

 しかし、それでもその歩みは止まらない。ゆっくりとだが着実にサムの方へと進んでいる。そして進めば進むほど、化けの皮が剥がれるように、段々とその身を人型の怪物へ変えていった。


「ハァ……! ハァ……!」


「サム!!」


 彼が近づくたびにサムの呼吸が乱れる。滝のように汗を流し、体を震わせていた。


 他の子供が呼んできたのか、昭成を含めた大人たちが真っ青な顔で、部屋に入ってくる。周りから心配の声を掛けられるが、もうサムの耳には届いていない。


「ウォ……アォ……アァッァァアア」


 自分の一回りも二回りも大きい皮膚の無い怪物は、奇声を上げながら地面を這う。時折、機械のような音がから聞こえ、サムは更に心音を速くする。

 夢よりも、彼は近くまで迫って来ていた。

 そして遂に、サムの目と鼻の先までやって来た。


「サムさん!!!」


「サム!!!!」


 もう何が現実で何が幻か、サムには分からなかった。


 怪物が伸ばしたその手が……サムの右肩に触れる。



 ――ガコン。


 体の内側から何かが外れたような音がすると、サムはすぐに意識を失った。



 サムの身体は成長期を迎えてるにも関わらず、身長はあまり伸びていなかった。これは、人の個人差によるものではなく、例の施術が原因であった。

 彼の生身の部分が成長しても、体内に存在する精密機器が一緒に大きくなるなんてことは無い。だから本当は、サムの身体は定期的なメンテナンスを必要とする。

 しかし、このような島に適切な設備があるわけはなく、何の調整もしないまま短くない時を過ごした。


 結果、彼の身体的な成長は、機械に押しとどめられることになったが、いつまでもそうしていられるわけではなかった。

 植物が岩を割って枝を伸ばすように、サムの生身は、体内にある重要な機関を捻じ曲げてしまった。


「う……ぁ……」


 意識が朦朧としている中、サムは自室で寝かされていた。高熱で汗が大量に吹き出し、異常が発生した右肩、右腕は神経がまともに動かなくなっており、さらに今までの比じゃないほどの激痛が、サムを襲っている。

 まともに声を出せず、苦しそうにうめき声をあげるサムを、昭成が心配そうな様子で見ている。


「サムさん、私たちに何か出来ることは……」


 昭成の問いかけに、サムが力なく首を横に振った。


「そうですか……ここに水を置いておきます。また後で来ますので、ゆっくり休んでください……」


 そう言うと、昭成はできるだけ扉の音を立てないように静かに部屋を出ていった。



「……何か異常があればすぐに私に言ってください」


「分かった。……大丈夫そうで?」


「……今は何とも」


 サムの部屋の外に人が集まっていた。興味本位で見ている子供も居たが、ほとんどが心配そうな顔をしている。

 昭成が大人の会話を終えると、いち早く紫織が前に出てきた。


「サム大丈夫なの? お医者さんは?」


「……お手上げです。本土にいる名医を連れてくるにも時間がかかりますし、そして何より……分かるでしょう? サムさんは普通の人とは違いますから」


 昭成たちはサムの身に何が起きたのか把握できていない。仕方の無い事ではあるが、そんなことで紫織は納得などできなかった。


「私のせいだ……。私が、サムに無理やり……あんなに嫌がってたのに」


「紫織さん……」


 大切な人が遠くへ行ってしまうかもしれない。更に、それが自分のせいだと言うのなら、紫織が自分を責めてしまうのも仕方の無い事だった。


「……ッ!!」


「紫織さん!!」


 紫織が逃げるように廊下を駆けだした。自分の命を粗末にするようなことは無いだろうが、思いつめた少女の表情に、昭成は嫌な予感を覚える。


「すみません。私が後を追います」


「あ、ああ」



「――ハァ、ハァ」


 休むことなく走った紫織は肩で息をする。太陽が沈み始め、辺りに波の音が響いている。彼女の目の前には、あの大きな船の残骸があった。


「何か……サムを救う方法が……」


 紫織はサムを救うため、ここへ訪れた。サムの身体に使えるような設備や、部品を見つけるために。

 しかし、そんな彼女の思いとは裏腹に、ここに使える物は何もない。設備はサムの祖国にある専用の施設のみに存在し、ここにある電子部品は、サムの身体に比べたらどれもジャンクに等しい。

 稚拙な考えであったが、紫織は何もしないわけにいかなかった。


「紫織さーん!!」


 昭成が息も絶え絶えな様子で、廃船に侵入する紫織の名前を大声で呼ぶ。その声に紫織は一瞬、体の動きを止めるが、そんな事を気にしてはいられないのか、奥の方へと姿を消した。


「!! 紫織さん!!」


 ただならぬ様子の紫織に、昭成は本格的に焦りを覚え始める。身に纏った袈裟をまくり上げ、海水に濡れることも気にせずに急いで紫織の後を追った。

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