第3話

 アリョーナの負担を減らすため、粗末ながら椅子が用意され、彼女はそこに腰かけた。背景には輝く青い空、滴るような木漏れ日。一同はそれぞれに好きな角度で画架を立て、アングルを調整しながらも、つい彼女の顔を盗むように見てしまう。モデルとはいえ、そう若い娘をじろじろと見るのは品のないことだということは皆承知だ。それでも周りに気づかれないように視線を送っているのだ。そのことにイワンは初めから気づいていた。彼もまた、自分を抑えることができない。


「髪を解いて垂らしてもらってもいいかな」

 太っちょのレオニードが明るく言った。彼は容姿に自信がない分、かえって開けっぴろげな質だった。しかし、イワンは考えるよりも先に声を発してしまった。

「リョーリャ(レオニード)、それはやめたほうがいい。あくまでありのままの農村の若い女性を描くのが、僕たちの目的だろう?」

 レオニードは驚いた表情を露骨に見せた。彼のことだから、本当にびっくりしたのだ。ふだんのイワンはこれほど険のある物言いはしない。エフィームも目を丸くし、イワンを見る。

 そのとき、軽く口笛を鳴らしたニコライの態度をイワンは見逃さなかった。しかし、堪えた、いやむしろ、当然の反応だと彼には分かっていた。

 イワンは自分で自分でとりつくろおうとして、すっかり動揺してしまっていたのだった。

 アリョーナの髪はけっきょくイワンの主張した通り、編んで垂らしたままだったが、夏の木漏れ日に艶めく黒髪はやはり美しかった。うつむきがちの彼女に何度も頼みこみ、ようやく彼女はしっかりと正面を見てくれるようになった。

 栗色の瞳は深く、滴るような緑の中にいるためか、深い湖のような緑を湛えている。唇はつややかな桃色。肌は、百姓娘とは思えないほど抜けるように白い。

 他の三人の仲間の手前、必死に抑えてはいたが、イワンの心は高揚していた。画筆を持つときはいつも全神経を集中し、つまり魂を込めてそれを動かしているつもりだったが、今のこの思いに比べれば、まだまだ隙のある取り組みだったように思われる。

 最初は彼女に見惚れていた一同も、今は寡黙になり、一様に真剣に筆を動かしている。ときおり水鳥や木立を飛び交う小鳥の声やそれによる葉たちの舞い散るさまが視界に入ったが、それさえも気にかからない。

 アリョーナは初めてモデルを務めるにもかかわらず、まるで慣れているように一点に物憂げな視線を送ったまま静止している。先ほどここに連れられてきたときのはにかんでいるような様子とはまるで別人のようだった。

 つい、夢中になって時間を忘れていた。

「坊ちゃんたち」

 地主自ら手荷物を提げてこの場所に来たとき、そこにいた画学生の全員が、地主の親切には申し訳ないが、思わぬ邪魔が入ったように感じてしまったものだった。

 しかし、気がつくと腹が減っている。

 四人はありがたく地主の持参した弁当に手をつけた。

 アリョーナは木陰に隠れてそっと食事をしているようだった。

 食事が終わると、イワンは言った。

「この魅惑的なお嬢さんをあまり長時間苦しめては罰があたりますね。今日はこれくらいにしておきます。でも、どうか、どうか明日以降もここに来てください」

 アリョーナは地主に促され、微かに頷いた。

 他の三人は不満げではあったが、彼女を思いやる気持ちから承諾した。

 アリョーナが去ると、四人は黙り込んでしまった。ぼんやりと、スケッチすることも忘れ、緑と水面の反射で夢のように美しい沼沢地のようすを見ていた。このままでは今日の画業は無理だろうと判断したイワンは、小屋に帰ることを提案した。皆は頷くでもなく、拒否するでもなく、イワンが画材道具を抱えて歩き出すと、慌てて後についた。

 ニコライ(コーリャ)がぽつんと声を発した。

「皆、僕が彼女に踊りを申し込んだら、怒るだろうか」

 四人の中でも際立って美男子のニコライが言うことに他の三人は驚いた。それくらい、あの田舎娘は街の着飾った令嬢たちに比べても魅惑的なのだ。全員がそれを感じ、内心驚き、そしてもう少し近づきになりたい思いを押し隠していたことが判明した。

「君は彼女をもてあそぶつもりかい。野の花を無下に手折るような真似はやめた方がいいぞ」

 強い口調でイワンが言うので、ニコライは驚いたように顔を上げた。ニコライはこのメンバーの中でもいちばんにイワンを崇拝している。やはり言わなければよかったという色がその美しい顔に浮かんだ。

「野の花といっても、可憐で優しいこの村の花たちはもちろんだが、彼女なら都のもっと豪奢な花にもきっと負けない」

 気さくなレオニード(リョーリャ)が話の穂をついだ。イワンはなぜか黙りこくってしまった。

「いちど彼女に、うちにある姉のドレスを着てもらおうか。都まで行かなくても、十分に貴婦人になれるよ」

 地主の息子のエフィーム(フィーマ)は気を利かせたつもりだったが、相変わらずイワンは黙っている。

 三人は、イワンが──アカデミーへの反発もあって──強くこだわっている、農村の景色や習俗のありのままを描くという理念を貫こうとしているのだと解釈した。

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月明かり 仁矢田美弥 @niyadamiya

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