第2話

「イワン、君はそんなに寝坊助だったのかい」

 茶化すようなレオニードの声で目が覚めた。イワンは自分のベッドの上に横になっていた。窓からは朝陽がさんさんと差し込んでいる。

「どうしたんだい、狐につままれたような顔をして」

 ニコライも笑って言った。イワンはようやく起き上がった。

 眠いのは当然だ。夕べ一晩、ほとんどをあの女性を描いて過ごしたのだから。

 そう思いながら、後ろ向きに立てかけたままの自分の画架をひっくり返して、驚いた。そこに留めておいたキャンバスは真白だったのだ。

──そんなばかな。

 確かに彼は夜通し彼女の絵を描いていた。その形跡がまったく残っていないのだった。彼は黙り込んだ。


 二日目のその日も、一同は昨日の沼沢地に出掛けることにした。まだスケッチを何枚か取り、そのうえでキャンバスに木炭で構図をつくったくらいのものだったからだ。

 行く過程でニコライが言った。

「限りなく美しい光景ではあるけれど、僕はそこに人々の姿も入れたいのだが」

「人々とは、美人のことかい?」

 レオニードが内心の興味を抑えて尋ねる。

「そうだなぁ。やはり、生き生きとしたロシア娘を添えたいものだ」

「それなら」

とエフィームがうれしそうに言う。

「このあたりの美人さんにお願いしてもいいんじゃないか。彼女らだって、絵のモデルになれる機会などそうはないし、きっと喜ぶに違いない」

 イワンは少し眉根を寄せ、

「妙な下心はないんだろうな、君たち」

 とたしなめる。

「さすが、お堅いイワンだ。大丈夫さ。僕たちには理想があるんだ。村娘をもてあそんだりはしないよ」

 レオニードはあくまで乗り気だ。

 イワンは内心少し恐れていたが、もちろんそれに気づく仲間はいなかった。

 エフィームはサービス精神が旺盛、いや、自分の家の領地であるから、もてなせるだけもてなしたいと考えているのだ。もう、百姓頭に話をつけて、村内の美人の話を聞きだしてしまった。

「皆、仕事をしているのだから、邪魔をしない方がいいぞ」

 イワンは忠告したが、百姓頭はさっそく村一番の別嬪さんと評判の十七歳の娘に使いをやり、午後から絵のモデルを務めるよう命じてしまった。

 先に沼沢地に行ってスケッチをしていた四人のところに、百姓頭がうつむいた娘をともなってやってきた。

 二つのおさげにした黒髪がつややかに輝いていた。服装は、仕事からそのままに来たわけではなく、明らかに晴れ着を着ている。

 百姓頭が四人の前に来ても、娘はその背後に隠れるようにして、なかなか顔を見せない。

「お待たせしやした。アリョーナです」

 村長は娘の肩をそっと持って四人の前に引っ張り出した。そう、それはまさに引っ張り出す、というのがふさわしいようすだったのだ。

「顔をお上げ」

 それでもしばしうつむいていた娘は、意を決したように真っすぐに顔を上げた。

 四人は息を飲んだ。アリョーナは、想像をはるかに超える美人だったからだ。そう、サンクトペテルブルグの華やかな女性たちにもそういないような。

 イワンの顔から表情が消えた。

 イワンは百姓頭の後ろに隠れるようにしていた姿に覚えがあった。ほっそりとした娘のシルエットは昨夜窓から見たものと同じだ。そしてまた、彼女がうつむきながらも視線を自分の方に向けていることにも気づいていたのだ。

 皆の息を飲む気配を感じながら、イワンは失望に似た妙な心地に襲われた。それは自分でも意外なことだった。昨夜、月明かりの中で夢中で描きつづけた娘のことを、なぜか皆には知られたくないと感じていた。そのことに気づいて、イワンの自尊心は傷つき、羞恥に頬を赤らめた。

「なあ、イワン、すごい美人だな」

 声をひそめてニコライがイワンにささやきかけた。ニコライは裕福な商家の息子で、なかなかの美男子であった。本人は節度をわきまえているつもりではあるが、やはり女性に対し危ういところを持っていた。

 彼は他の三人のうちでもとりわけイワンを崇拝しており、絵画への情熱において、イワンの意に背くようなことは決してなかった。しかし、そのことと、身持ちの良さは別であった。

 イワンは自分のニコライを見る眼差しがきつくなっていることに気づいた。彼はニコライを信じていたが、彼女への彼の関心が混じりけのないものとは到底思えなかったのだ。

 それとも、これはニコライへの嫉妬だろうか? 彼女をニコライにも描かせることへの恐れであろうか。ともかく、いつも平静を保てている自分が揺らいでいるようで、イワンは自分に対して不機嫌になった。それを意識しつつ、

「コーリャ(ニコライ)好みの娘さんかい?」

と無意味な質問をしてしまった。ニコライはにやりとして、「ああ、とても」と答えた。

「フィーマ(エフィーム)に頼んで、あの娘をしっかりとドレスアップさせてみたいと思わないか」

「バカを言うな」

 イワンはムキになって答えた。

「俺たちの目的は、ここでありのままの村の生活や村の人間を描き、ロシアの大地に根差した美を追求することじゃないか」

 ニコライは首をすくめ、

「そんなことは分かってるさ。ちょっと見てみたいと思ったことを言っただけだよ」

と軽く答えた。

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