月明かり

仁矢田美弥

第1話

 質素な丸太づくりの小屋であったが、まだ新しく、中に入ると木の匂いをたっぷりと含んだ空気が風をうけて動いた。

 イワンは仲間たちとともに、思い思いの場所に画材道具を置き、そして『さて、どうやってこの小屋を配分して使うべきか』と思案する。

 正午過ぎの鋭い光が小屋の窓や隙間から差し込んだ。

 エフィーム(愛称フィーマ)とニコライ(愛称コーリャ)とレオニード(愛称リョーニャ)は、リーダー格のイワンにもの言いたげな視線を向けた。

「われわれには好ましい場所だ。フィーマの父君に感謝しなければ、な」

 イワンは満足げにそれらの視線に応えた。エフィームは目に見えて元気になる。この農村の地主がエフィームの生家なのだった。

 広大な森と農村の風景。ロシアの短い夏を謳歌するかのように、さわさわと鮮やかな緑が光を放ち、鳥たちのさえずりが響きわたっていた。


 こうなると、もう小屋の中で安らいでいるわけにはいかない。

 四人はさっそく、付近を散策するために外に出た。とは言っても画学生。持つべきものは持っている。

 片腕に画架を抱え、片腕に画材一式を詰め込んだ大きな鞄を提げて闊歩する四人の青年たちを、農民たちは驚きの目で見ていた。この地方では相当に珍しい光景なのだろう。


【※ロシアの名前の愛称は分かりにくいと思いますが、会話文のみ愛称で書きたいと思います。】


 このようなあふれる光、穀物畑の波打つ姿、真っ白な綿毛雲を浮かべた青い空、そこここに屹立し枝を張る樹木、見晴るかす地平線、すくまったように群生する果樹園、粗末ながら人の生活の息吹のする家々。

 サンクトペテルブルグでは見られない光景に、ロシアの大地の広大無辺なることを全身で感じとった若き画家たちは、早くも我を忘れた。

 いったいどこでスケッチを始めようか。どこもかしこも素晴らしくて、逸る心を抑えられない。日取りは十分にあるにもかかわらず。


 しばらくすると、沼沢地に差しかかった。ここで、四人の意思は決まった。ちょうど夏の陽を受けて輝く水面に、生い茂った木々の葉が覆いかぶさって、その光と影に満ちた美は息を飲むほどだった。

 彼らはひたすらに光を求めていた。それは彼らが反感を隠せない、壮大でものものしいイタリア絵画の対極にあるものでもあったのだ。


 どのくらい時間が経っただろう。この場には似つかわしくない音が鳴った。盛大に腹を鳴らしたのは誰だ。

「リョーリャ、君だな」

 四人のうちでいちばん太っているレオニードがやり玉に挙げられた。レオニードは否定する。

「すまない。俺だ。皆の集中力を阻害したことは詫びる。だが、俺はもう我慢ならない」

 しかつめらしくニコライが述べ、その後すぐに自分でぷっと噴き出した。

「腹が減っては戦はできぬ。そろそろ食事にしようか」

 笑ってイワンが答えた。

「この近くに、俺のよく知っている百姓頭の家がある」

 地主の息子、エフィームが応じた。

「子どもの頃から知り合いなんだ」

「それはちょうどいい」

 イワンは答え、画材を片付け始める。

 エフィームのいう、百姓頭の家では、すでに昼食が用意されていた。エフィームや他の二人からすると、実に質素なものではあったが、それでも心づくしのパンや果実、川魚の料理にお茶もあった。もともとが貧しい小市民の出であるイワンには、百姓頭の偽りのない善意・地主の子息に対する素朴な敬愛は痛いほどに伝わったが、やや後ろめたさが残るものでもあった。

 四人はサンクトペテルブルグの帝国芸術アカデミーの学生である。食事を終えると、さっそく議論が始まる。それはアカデミーの体質や芸術の考え方に対する批判、いや憤りに終始するものであった。いつものことである。

 彼らはアカデミーへの反抗の烈烈たる意志をもって、この夏を迎えたのであった。ロシアの風土や文化に合った新しい芸術を模索していた彼らの最初の試みであった。広大で豊かな自然と、農村の生活をしっかりと見ること、それを自分たちの芸術に取り入れていくこと。それが彼らの狙いであった。

 若々しい熱を放った彼らは、午後も陽が傾くまで、スケッチに夢中になった。


 貧しい出身であるにもかかわらず、イワンはその才能や聡明さ、そして行動力という天賦の才能を持って、他の三人からリーダーと見なされていた。エフィームが志を同じくする、仲の良い三人を誘ったのは、最初は軽い気持ちからだった。単に避暑を楽しむくらいに考えていたのだ。しかし、その提案にイワンは食らいつき、そこで農村のありのままの絵を描いて、アカデミーへの反撃の烽火とすべきことを説いたのだった。三人が感激したことは言うまでもない。

 そうであるからこそ、イワンはいやがうえにも高揚していた。三人の前では押し隠していたが、本当は彼がいちばん武者震いしていた。

 けれど、その夜イワンに思いがけない異変が訪れることになる。

 小屋に用意されていた簡素な四台のベッドで、ようやく銘々が眠りについたのは夜半過ぎであった。イワンも、夏用の薄掛けにくるまって横になっていた。しかし頭は冴えわたって、さっぱり眠気の訪れる気配はない。自分の中では昂奮がまったく冷めていないことを感じながら、月明かりに浮かび上がる物の輪郭を凝視していた。

 しばらくすると、他のベッドからは寝息やいびきが聞こえ始めた。


 それでも、とうとう、まどろみがきた。このまま寝入るのだと悟ったそのとき、月明かりが眩しくイワンを照らした。

 イワンは幼少の頃より、何かと身体感覚をともなった幻覚を見る癖があった。あるはずのない人影、あるはずのない声。あるはずのない建物や山々。それは全く恐ろしくはないばかりか、この世にいてあの世を見るごとき感銘をいつも彼に与えるものだった。だから、月明かりが眩しいほどに感じられたとき、むしろ彼はそれを期待をもって迎えた。予感がする。が来る。


 彼の予感は当たった。しかも彼が期待していた以上に。

 月明かりが翳ったと見た途端、窓枠の中に細い人影が現れた。影であるが、それが若い女性であることを彼は見てとった。そして、自分を呼んでいるということを。彼は薄掛けを払いのけ、他のみんなを起こさないように静かに床に降りて、画架と画材を手にそっとドアの外へ出た。


 彼には分かっていた。現れた女性の求めるものが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る