第28話

 翌日は予想通り、父親不参加の買い物になった。


 子供達が騒いで起こさないよう早めに連れて出たせいで、やり残してきた家事が色々ある。昼食を済ませて帰る頃には流石に目を覚ましているだろうか。新聞配達が回る頃まで起きていたから分からない。私だって付き合わされていたし腰は怠いし、なのに朝は私だけいつも通りだ。


 こんなことを考えたくないし考えるつもりもなかったのに、気づけば囚われている。刑事の妻に向かない、という判断はいくらなんでも早すぎるだろうか。


「おかあさん、りょうすけが逃げた」

 下から響いた悲痛な訴えに、お釣りを受け取る手が揺れる。


「ごめん、追い掛けて捕まえてて。追いつくから」

 長男に指令を出しながら、どうにか受け取れた小銭を財布へ流し込む。慮るような笑みを浮かべる店員に頭を下げた後、レジ袋を引っ掴んで逃亡した次男捜索に向かう。しかし見渡す限りどこにも、次男はおろか長男の姿さえなくなっていた。


 刑事の子供が迷子なんて。

 一瞬ちらついた皮肉を押し遣り、今は探すことに集中する。日曜のショッピングモールなんて、人混みに紛れたら分からなくなってしまう。捕まえたところでじっとしていればいいが、動いていたら分からない。こんなことなら、夫を叩き起こしてでも連れてきておけば良かった。こんなことなら。


 最後の通りを抜けて出た時、おかあさん、と聞き覚えのある声がした。慌ててそちらを向くと、人混みの奥、休憩スペースのソファ前で手を振る長男と次男の姿があった。


 しかしそれよりも、私の足を止めたのはその隣にいた人物だ。山高帽にシャツ、ジャケットと格好は随分変わっていたし、サングラスも薄い色になっていた。でも、見間違えるわけはない。

 幸哉はゆっくりと近づく私を確かめて、携帯を耳元から下ろした。


「りょうすけがね、走ってこの人にぶつかったの。それで、どうしたのって言われたから」

 自分の罪などまるで忘れたように飛びつく次男を抱き上げながら、すまなそうに話す長男の頭を撫でる。一瞥した向かいの薬指には、まだ新しい指輪が嵌っていた。


「いいのよ、追い掛けてくれてありがとう」

 長男のあとは当然、もう一人に声を掛けなければならない。


「ごめんなさい。息子がご迷惑を」

「気にしなくていいよ、杖がなくても子供にぶつかられたくらいじゃ大丈夫」


 幸哉はなんの躊躇いもない口調で返し、手を扇ぐように揺らす。その手は、一目で機械と分かるような義手だった。別れてから四年、か。山高帽の下から少し見える髪はかつらだろうか。服装も何もかも、私と過ごしていた頃とは随分変わってしまった。

 それにしても、と言いながら、幸哉は長男の目線までしゃがみ込む。


「この子は利口だね。名前を聞いてもすぐには言わなかったよ。偉いね」

 普通とは違う見た目に驚いたのは最初だけだったのか、長男は撫でられたあと照れくさそうに私を見上げた。


「でも、そっくりだからすぐに分かったよ」

 視線に滲ませた私の不安に薄く笑んだあと、腰を上げる。


「こっちに帰ってたんだ」

「ええ、今年の春から」

「そっか。今度はどこ?」

「県警の刑事課に」


 答えると、へえ、と少し含みのある声がした。


「返り咲いたんだ、すごいね。おめでとう」

 決してそうは思っていない言葉を連ねてサングラス越しに視線を上げる。少し重たげに瞼を擡げる、あの仕草だ。


「そっちは、どうなの。元気にしてるの」

「まあね、この通りだけど」


 幸哉はわざとらしく掲げた右手をゆっくりと動かして見せる。ロボットみたい、と口走った次男に少し笑った。


「ありのままでいられないっていうのは窮屈なもんだね。好きにさせてもらえてた頃が懐かしいよ」

 薄い色の向こうで、今も変わらない色であろう瞳が少し懐かしそうに目を細める。あれから四年も経っているのに少しも衰えた様子がない。相変わらず、美しい男のままだった。


「おかあさん」

 握り締めていたレジ袋を引かれて、視線を落とす。不安そうに見上げる長男に母親の役目を思い出し、一息ついた。


「子供達を助けてくれて、ありがとうございました」

「いいよ、そんなの。でも君を呼んだのに繋がらなかったんだよね。携帯変えたの?」


 当たり前のように切り出された話に面食らう。寧ろ、まだ連絡先を持っていたのかと尋ねたいくらいだった。


「教えてよ。連絡が取れないと困るから」

 ポケットから取り出された携帯に、釣られたように次男を下ろす。バッグの中から携帯を取り出し、自分のしていることの意味もよく考えないまま連絡先を交換した。


 おなかすいた、とごね始めた次男に確かめた時間は昼に差し掛かろうとしていた。じゃあ、と切り出した私に幸哉は頷く。


「次は、ちゃんと出て」

 手を振る次男に緩く振り返しながら、目を細めて言う。久し振りにあの、喉の干上がる感じがした。


*


――あの人ね、ぼくを見て「そっくりだなあ」ってびっくりして、名前を聞いたの。言わなかったら、おかあさんの名前は『あさいさやの』でしょって言ったんだよ。


 お子様ランチに舌鼓を打ちながら、長男は嬉しそうに「そっくりなんだって」と言った。普段から私似だと言われているから、その対象が私だと疑いもしない。まさか傍にいた男が実の父親なんて思いもしないだろう。


 ようやく回せた二度目の洗濯物を干していると、夫がリビングへ姿を現す。やっと目が覚めたのか起こされたのか、でももうすぐ三時だ。


「何か食べる?」

「いや、いい」


 半袖シャツの襟から伸びる野太い首を掻きながら、夫は縁側に腰を下ろす。再び背を向けて洗濯物を干していると、やがて煙の臭いがした。


「今日、誰かに会ったのか」

 迷子になった話だから内緒にしようと話してみたが、やはり無理があったのかもしれない。


「隼輔が言ったの?」

「いや、亮輔がな」


 自己申告の点はなんとも言えないが、まあ次男なら大したことも言えないだろう。安堵して、手に取ったタオルをはたいて皺を伸ばした。


「レジでお金を払ってる時に逃亡して、ぶつかった人がいたの。その人のことでしょ」

「『手がロボットみたいだった』て」


 「誰か」ではない。分かっていて尋ねたのだろう。それなら最初からそう聞けばいいのに、言い逃れのできないところまで追い詰めて、答えなければならないように持っていく。家庭に刑事の技術を持ち込んで、どうするつもりなのだろう。


「清乃」

「助けてもらっただけよ。他に何が知りたいの」


 自ずときつくなった物言いに、罪悪感が追いついて俯く。握り締めた手の内でハンカチがぼんやりと温もり始めていた。


「俺はただ、お前の気持ちが知りたいんだよ」

 背後の声に、ハンカチは更に硬く握られる。全てを明かせばどうなるか分かっている癖に、それでも訊かずにいられないのかもしれない。夫は「刑事以外の人生」を終わらせたいのだろうか。それならもう、いっそのこと。


 しかし、やおら振り向いた先に夫の姿はなかった。リビングにもキッチンにも、見える場所にはどこにもいない。ただ縁側の下に、まだ長い煙草の残骸が転がっているだけだった。

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