第27話

 ねえおかあさん、と囁くような長男の声に引き戻される。


「ごめん、寝そうになってた。どうしたの?」

 寝落ちしそうな目元をこすり、欠伸を噛み殺す。長男は布団を首元まで引き上げながら、こちらへ寝返りを打った。


「おじいちゃんが言ってた『前』っていつ」

 いきなり引っ張り出された失言に、眠気が覚める。子供は、特に長男はこういうところがあるから気をつけているのだ。しかしあの時に指摘していたら、それはそれで注意を引いてしまっただろう。


「隼輔や亮輔りょうすけの産まれる前よ」

「産まれる前は、おとうさんとケンカしてたの?」


 不安そうに尋ねる声に苦笑し、頭を撫でた。常夜灯の下で、幼い瞳は私の挙動を見逃さまいと追い続ける。柔らかい髪にはまだ癖もなく、指の隙間を滑らかに滑っていった。


「ううん、産まれる前もケンカしたことないよ。産まれてもっと楽しくなったってこと」

 撫でる手を止め、まだ華奢な体を引き寄せて抱き締める。ついこの前まで乳臭かった頭は、すっかり汗っぽいような子供の臭いに変わってしまっていた。


 胸の辺りで深い息のあと、おやすみ、と聞こえる。答えて背をさすっているうちに、やがて息は穏やかな寝息へと変わった。


 背中に密着していた次男の腹巻きを整えて頭を撫で、隙間から慎重に抜け出す。まあ夫がいてもいなくてもこの辺りは変わらない。駐在時代も、子供達が起きている時間に帰って来ることはなかった。


 リビングへ下りた途端、目に入るダンボールの山にうんざりする。入園まではと目を逸らし続けていたが、済んだ今からは理由にはできない。


 夫が片付けを手伝う間もなく出て五日目になる。仕事なのは分かっているが、これからは子供達に喧嘩だと思われてしまうようなやり取りが増えてしまうかもしれない。でもそんなことは私も、もちろん夫も望んでいないだろう。どんな夫婦関係だろうと努力なしに続けられない現実は、十分過ぎるほどに分かっていた。


 一息ついてキッチンへ向かう。適当に纏めた髪を少し高い位置で結び、まずはこちらの荷物から片付けてしまうことにした。



 三十分ほどで片付いたキッチンのダンボールを畳んでいると、玄関の方で音がする。額に滲んだ汗を拭い窺っていると、やがて廊下のドアが引かれ草臥れた夫が現れた。


 おかえり、と掛けた挨拶にくぐもった声で返し、上着とネクタイをダンボールの山へ投げる。引き出した椅子に腰を下ろして長い息を吐いた。


「二人とも寝たか」

「うん」

「入園式、どうだった」

「恙なく終わったよ。泣いたり怖がったりもしなかったし」

「そうか」


 夫は短く答えてテーブルへ突っ伏す。狩られた熊のような、情けない姿だった。


「何か食べるなら作るけど」

「いや、もう風呂入って寝る。明日休みだ」

「そう。じゃあ、お風呂してくるわ」


 畳んだダンボールを隅へまとめ、風呂の支度へ向かう。

 帰って来てもあれでは、明日は寝たきりかもしれない。入園祝いのブロックを買いに行く予定だが、人混みに連れ出すのは酷だろう。


 今はまだ気持ちにも余裕があって「私だって」とは思わないが、そのうち許せなくなってくるのだろうか。早速奥さんに聞いてみたいことはできたものの、流石に早すぎる。働けば気も紛れるかもしれないが、それこそ「私だって」の引き金になるし夫も認めない。


 家庭が安定しなければ仕事に集中できないと、夫は私が専業主婦でいることを望んだ。この先も当分警部補でいるつもりらしいが、今年四十四歳になる夫の給与は家族三人を養い弟の学費を補助できるだけの額がある。子供と過ごす時間を割いてまで、私が働きに出る理由はない。


 洗い終えて設定ボタンを押し、バスルームを出る。洗濯機前に置かれた袋をひっくり返すと、容赦なく丸められた洗濯物の塊が落ちてきた。


 スーツだろうと下着だろうと気にする様子はない。引っ張り出したスーツはしわくちゃで、クリーニングへ持ち込んだら私の扱いの悪さが疑われそうな状態だ。しかも煙草と脂とよく分からない何かで饐えた臭いがする。店頭でのやり取りを考えているうちに面倒くさくなって、全て家で洗濯することにした。


 ポケットの中を確認しては投げ込み、丸まった靴下を伸ばしては投げ込む。次男ですら自分でできる作業を繰り返すこと十回以上、全てを突っ込んだところで洗濯機のスイッチを入れた。


 リビングへ戻っても、夫はまだ煙草も吸わず狩られた熊のようにへばっていた。「以前」は疲れていてもそれなりにしゃんとした姿だったから、歳のせいかもしれない。四十半ばにもなれば色々ガタが出てくるだろう。


「調子が悪いの?」

 尋ねながら斜向いの椅子を選んだ私に、夫は頭だけ倒してこちらを見る。疲れを隠さない顔にはまばらに無精ひげが生えていた。着替えは三日分持たせたが、足りなかったのは臭いで分かる。洗濯物より強烈だ。姿だけでなく、臭いも正に熊のようだった。


「いや。ただ久し振りの刑事畑だからな」

 長い息を吐きながら、テーブルへ載せていた私の手を捕獲する。まるで普段からこんなスキンシップを取っているようだが、手を握られた記憶は殆どない。


 夫のスキンシップは「抱きつく」と「セックス」のほぼ二択で、キスはセックスの中に含まれている。必然的に、セックスのなかった長男の妊娠中は「抱きつく」だけになった。その分、産まれたあとはほぼセックスしかなかった。おかげで三歳くらい離すつもりだった次男は年子だ。要は、極端なのだ。


「昔の事件のことでも、思い出したの」

 数少ない記憶を辿れば、必然的にあの頃へ辿り着く。まああの頃もほぼ「抱きつく」しかなかったような気はするが、でも時々はこんな風に手を握っていた。


「必死こいて口説き落としたことしか覚えてねえよ」

 夫は交わすように答えて笑う。結局、何も話すつもりはないのだろう。何故私は隠されたのか、夫がどんな処分を受けたのか、何を以て私との結婚を許されたのか、その背景に事件の何かがあったのか、研哉は何故「冤罪」で逮捕されたのか。私は今も、何も知らされないままだ。


「お前、今年何歳だ」

 重い手は、その内へ収めるように私の手を握り直す。


「三十七だけど」

「もう一人、娘は無理か」

「もう一人はともかく、娘かどうかは選べないでしょ」


 苦笑しつつ返すと、まあな、と夫も笑った。正直なところ、次男への転写具合を考えると息子しか産まれないような気がする。かといって、私みたいな娘ができても困る。


「お前に似たのが欲しいけど、親父としては落ち着かねえわな」

 指輪のない左手から視線を擡げると、夫は逸らさず私を見据えた。


「隼輔の目つきはお前にそっくりだな。何考えてるか半分しか読めねえ」

「半分も分かればいいんじゃないの」


 風呂から響くブザーに視線を逃し、手を引き抜いて腰を上げる。今は表情を確かめたくなかった。


「私は、あなたの考えてることの半分も分からないもの」

 小さく言い残してリビングを出る。夫の着替えを揃えるために、二階へ向かった。

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