3-1. 清乃

第26話

 異動の内示が出たのは、先月の上旬。署の刑事課から県境の駐在所へ飛ばされて約三年、異動先は県警本部の刑事課だった。禊は済んだとの判断なのだろう。夫は、忙しくなるな、と言いながらも安堵した様子で次男を抱き上げた。



「お利口さんで、大人しくお留守番してたよなあ」

 入園式を終えて現れた私達に、父親は誇らしげな次男の頭を撫でながら報告する。まだ髪は産毛のように柔らかく子供らしい丸顔だが、出産退院時から夫似だと言われて育った。一層目鼻立ちが主張し始めた最近では、私の遺伝子がどこへ混ざり込んでいるのか父親すら判別不能な「生き写し」状態になっている。


「あ、剣作ってもらってる」

 次男の腰にうまく引っ掛けられた厚紙製の剣を見て、長男は私の手を離れた。


「おじいちゃん、すごい上手だぞ」

 元職人を捕まえて、まだ舌足らずの口が偉そうなことを言う。


「いいなあ、僕にも作ってよ」

 真新しい制服を脱ぎもせず、剣の前に座り込んだ長男は父親に訴える。素直な欲求を口にする横顔は、頬もまだふくふくとしてあどけない。しかしそのなだらかな線や物憂げな二重は、はっきりと周囲から浮き立ち始めていた。


 おかあさん、と振り向きざまに呼んで長男は私を見上げる。顔立ちや徐に瞼を擡げる仕草は、こちらもこちらで生き写しのようだった。何も知らない人は私似だと言うが、「知っている人」は話題にしない。そもそも何も知らない人は長男も夫の子供だと信じている。戸籍謄本の父親の欄を見れば驚くだろうが、しかしそれも事実ではない。


「おじいちゃんに、作ってもらってもいい?」

 本人に頼んでから私に許可を得ようとする、子供の根回しなど拙いものだ。


「お昼ご飯を食べに行って、帰って来てからでいいんじゃない」

「そうだぞ、今日は隼輔しゅんすけのお祝いだからな」


 少し残念そうな長男の向こうで、次男が「おすし!」と喜びの声を上げて転げ回る。まるで碌に食べさせていないようだが、そういうわけではない。ただ、回転寿司が異常に好きなだけだ。


「お寿司より剣がいいなあ」

 一方の長男は、切なそうに応じながら私の元へ戻って手を繋いだ。


 どちらも子供らしく甘えるのは大好きだが、質が大きく違う。子供らしさで言えば圧倒的に次男の方が勝っていて、全てが大仰で暑苦しい。長男は大人しく物分かりのいい子で、たまに物事の核を突くようなことを口にした。


 夫は同じように愛情を掛けているが、長男には苦戦が見て取れた。今日の入園式も、赴任早々の事件で出席できなくなった。でもフォローを口にする前に「お仕事だからしょうがないね」で終わったらしい。


 異動になる前、仕事が忙しくなることや休みが取れなくなることを伝えたらしいが、伝わりすぎたのかもしれない。長男の方にも、夫との距離を測り兼ねているところがあった。


 私は同じように愛せているつもりだが、どうだろうか。もちろん、父親が違おうとこれ以上に愛おしい存在はない。しかし妊娠中の肚の昏さを比べれば、長男を案じてしまうのは仕方のないことに思えた。



 妊娠に気づいたのは四年前の八月、体調不良に思い当たって調べた妊娠検査薬で陽性が出た。幸哉の子供だとすぐに分かったが、報告は躊躇われて黙っていた。心音を確かめてから打ち明けたものの、誰の子供かは言わないことにした。当時は「研哉の不妊を明かしたくない」とか「荷物と感じて幸哉が逃げる」とか、それらしい理屈を並べていたがどうだろうか。結局は幸哉の言ったように、「父親にしたくなかった」だけかもしれない。


 惚れ抜いていたし、私が食べさせていくことに全く抵抗はなかった。それに関しては今も嘘はないと言える。


 ただ私が幸哉を連れて家を出ると言えば、義父が許さないのは分かっていた。労災だの保険だの、義父にとっては金蔓の幸哉を手放すわけがなかった。


 何かしらの策をと考えていた時、ちょうど義父に仏間へ呼び出された。義父は幸哉の医療費が高すぎると文句を言い、自分など動脈硬化と言われたが病院にも行っていないと褒めようのない自慢をした。私は既に幸哉の薬について熟知していたから、動脈硬化と血栓症が同じワルファリンカリウムで治療できるのも当然のように知っていた。


――動脈硬化なら、幸哉さんと同じ薬ですよ。洗面台にあるオレンジ色の。


 伝えたのはそれだけ、その一回だ。あとはただ毎日ワルファリンカリウムの袋を開け、不自然に数が減っていないかを確かめ続けた。あとは風邪の季節に備えて、薬箱から風邪薬と鎮痛剤を排除した。そしてそのどちらも必要な研哉には直接支給するようにした。あとは、全ての偶然が当て嵌まる日をただ静かに待っていた。


 弁護士へ渡した離婚届に判が押されて戻って来たのは、拘置所へ送られたあとだった。流石に罪悪感が湧いたが、戻れなかった。義父が死ねば、研哉が私から幸哉を引き剥がして施設かどこかへ送ろうとするのは分かっていた。送られないためには、「送らせない」ようにするしかなかったのだ。


 研哉は、未必の故意を認めて殺人罪で服役している。懲役は残り六年ほどだったか、刑期にも色々あるらしいが夫はそこまで話してくれない。


 私が任意同行されなかったのは二人、特に研哉に比べて動機が弱いと思われたからだろうが、よく分からないところはある。ただあんな不確かなものだけで犯人と決めつけられ逮捕されてしまうのだと、恐ろしくはなった。正直今も恐ろしいし、夫がそんな部署へ復帰してしまったことに抵抗がないわけではない。


 でも「色々と問題のある」私と夫が結婚できて三年の島流しで済んだのも、当時の課長のおかげらしかった。


「しかしまあ、色々間に合って良かったなあ」

 父親は隣の次男に玉子を取ってやったあと、真っ昼間のビールを一口飲んでつぶ貝を口へ運ぶ。


「ほんと、『多分出る』『多分出る』て言い続けて三月頭なんだもん。ここだったからお父さんに頼めて間に合ったけど、他の場所だったら無理だったわ」

 苦笑しつつ確かめた隣の長男は、二皿目のかっぱを黙々と食べていた。


 引っ越しと家探しだけならともかく、今春は幼稚園探しと入園準備があった。残り一月でどこが受け入れてくれるのか途方に暮れて、父親に泣きついて縁故のあるところへねじ込んでもらった。そしてそのまま入園グッズの名前書きから制服の注文、センチ単位で指定された袋物製作まで頼ってしまった。その結果、寸分の狂いもない仕上がりの袋物は子供らしい車柄で揃えてあるが、書き込まれた『あさいしゅんすけ』はどれも、はねはらいのはっきりした古めかしい文字だ。尤も長男はその文字も含めて気に入っている。今日は早速その補助バッグも提げて行った。


「淺井さんは、まだ当分掛かりそうか」

「多分。これまでの『ちょっと来てください』とは違うしね。初めてだから勝手が分かんなくて右往左往しっぱなしよ」


 駐在の妻は三年したが、刑事の妻は初めてだ。帰還の挨拶に藤倉の家へ行ったら、奥さんに「いつでも愚痴を聞くわよ」と含んだ笑みで言われた。つまりまあ、愚痴が吹きこぼれるような立ち位置なのだろう。


「そんでも、『前』に比べりゃだいぶ明るくなったわ。幸せそうで何よりだ」

 ほたてをつまんだところで箸を止め、顔を上げる。しかし満面の笑みを浮かべながらビールを傾ける父親に、失言だとは指摘できなかった。

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