2-7. 周子
第25話
――周子ちゃん、取引しようよ。
幸哉は親しげに私を呼んで、パイプ椅子から背を起こした。いい加減この椅子も硬くて痛いし帰りたいんだよね、と左の口角を引き上げて薄く笑った。一瞥して確かめた渋川は「当然」とでも言いたいような視線で刺し、拒否を許さなかった。
――研哉を逮捕したいなら、俺を返してよ。殴られたら110番するから。
こちらの遣り口を完全に読んだ上での提案だった。もちろん、幸哉は家に仕掛けられていることなど知らないはずだ。それに、あまりにも恣意的な誘導だった。
物的証拠が殆どない以上、立証するとしたら自白に頼るしかない。幸哉の犯罪を立証する証拠はないが、研哉の犯罪を立証する証拠だってまだ足りないのだ。
二木と揉めていた。歯痛を訴えた二木にアスピリンを一シート渡した。会合でアルコールを飲んでいたのを見ない振りした。ワルファリンカリウムについて教え、飲み合わせのまずさについては黙っていた。
疑惑が多いのは確かだが、しかし四番目は立証できない。そもそも、偶然が多すぎるのだ。二木が歯痛だの頭痛だのを訴えなければ起きないし、もし頭痛薬が家にあって清乃が渡していたら清乃の。
ちらりと掠めた疑惑を打ち消すように、電話が鳴る。奪い取るように受話器を掴んだ御山は、短いやり取りを終えて顔を上げた。
「二木幸哉から通報があった。合流するように指示しろ」
受話器を置くより早く伝えられた指示に、緊張が走った。見上げた時計は午後十時、帰されて約五時間後の遂行だ。これで「取引成立」か。胸に蠢く釈然としないもの押し殺せず、腰を上げてトイレへ向かった。
そんな不確かな取引はできないと口を挟んだ渋川に、幸哉は「言えば必ず俺を殴る話がある」と含んだ笑みを浮かべて私を見た。
――周子ちゃんが教えてくれて思い出したよ。高校の頃、彼女と会ったことがある。告白しに来て、かわいかったから引っ張り込んでしたんだよ。俺が最初の男だった。
だからその「最初の男」の話をして、予定通り殴られたのだろう。
勢いよく流れる水に、指先が赤く痛くなるまで冷やす。それでも足りず、顔に浴びせた。
清乃は、ただ告白しただけではなかった。告白して受け入れられて抱かれて、でも結局は「取り柄がない」と捨てられた。簡単に体を与えて捨てられて、馬鹿としか言いようがない。どれだけ勉強して取り繕ったところで、所詮は頭の弱い惨めな女だ。
家まで送る道中、幸哉は後部座席でサングラスを外した。そして、自分のことが好きだったかと尋ねた。昔のことと前置きしつつ認めたら、言ってくれれば良かったのに、周子ちゃんはお兄ちゃんのガードが固くてねえ、と苦笑で答えた。初めて死ぬほど兄を恨んだが、幸哉はそんなことも見越した様子で「あいつ怒るだろうなあ」と笑った。
降り際に、事件が済んだら「最初からやり直して」懐かしい話でもしようとアドレスの交換をした。そしてもう一つ、清乃を隠しているのは淺井だろうと告げた。その気があるなら聞いてみればいい、と。
清乃とはどうするつもりなのかと喉まで出掛けたが、聞けなかった。幸哉にはきっと、そこまでのつもりはない。私とはただの「昔馴染み」だ。でもこのまま清乃が帰って来なければ、淺井が清乃を帰さずにいてくれたら。
一息ついて水を止め、顔を拭い上げる。鏡に写るのは赤みが散らばっただけの、昔と変わらない顔だ。「言ってくれれば良かったのに」と繰り返す脳裏に腹のどこかが呻く。
淺井には、何も訊かないことにした。
*
こちらが乗り込んだ時の幸哉は、研哉も大人しく頭を垂れて認めるような言い逃れのできない状態だったらしい。診察の結果は眼窩底骨折と鼻骨骨折、研哉は傷害罪の現行犯で一発アウトだった。これで任意では限界のあった捜査の全てが解禁になる。研哉の状態から見ても、そう遠くないうちに落ちるだろう。これで御山の出世街道もひとまず安泰だ。
「ここまで殴られなくて良かったんですけど」
「俺も軽く一発くらいのつもりだったんだけど、あいつが体を鍛えてるのを忘れてたんだよね」
何ヶ月振りか、病院のベッドへ逆戻りした幸哉は関わる医者の全てと顔見知りらしい。担当医の一人は、今回も審美治療はしないんでしょうね、と苦笑していた。
「折角だから、元通りにしてもらえばいいのに」
「いいよ、この方が便利なんだ。この見た目だと顔目的の人間は寄って来ないから」
幸哉は笑いつつ、私のすりおろしたりんごを掬う。舌骨は骨折を免れたが、首を絞められた影響で固形物が食べ辛いらしい。
研哉は逮捕、清乃は消息不明で放り出された幸哉の世話役を、取引の責任を理由に引き受けた。それが建前に過ぎないのは私自身はもちろん、恐らく幸哉も分かっている。まあ世話と言っても仕事終わりに来る程度だが、手渡された自宅の鍵には達成感があった。
連絡がないんだよね、とぼやく声に洗濯物を詰める手が止まる。
「研哉は逮捕されたし俺は入院してるってメール出したんだけど」
「携帯、切ってるんじゃないんですか」
「どうかなあ」
抑えた声で返してみたが、幸哉はスプーンを差し込んだまま、まだ納得の行かない様子で宙を見つめた。
「俺は、捨てられたんじゃないかなあ」
え、と短く返した私を見て薄く笑い、変色し始めたりんごを掬う。
「彼女は俺の見てきた女の中で一番賢いよ。子供ができない研哉を捨てて、俺で子供を作って捨てて、淺井さんで盤石の守りと安定を手に入れた。女の本能って優秀な遺伝子と安定した生活を求めるんでしょ。完璧だよね。あれほど上手に器用に女の毒を使える人は、そういないんじゃないかな」
予想外の評価に、洗濯袋を握り締めたまま幸哉を見据える。
「君は、彼女に『貧乏くじ』を掴まされたんだよ。幸せならそれでいいけどね」
幸哉は皮肉交じりに話したあと、また一掬い口へ運ぶ。ベッドテーブルへ載せられた右腕が、丸太のように転がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます