第24話
それから程なくして、淺井は座敷を出て行った。「取り乱した」ことへの詫びと、それとは別に何より身の安全を守りたいと思っていると伝えて、大人しく障子の向こうへ消えた。
淺井が私を助けたのは刑事としてではなく、男としてだったのだろう。でもそれを厭う気はないし、責めるつもりはもっとない。なかったことにするには無理はあるが、その程度だ。いつどこで誰を好きになるか、自分で決められるものではない。そんな便利なボタンがあれば淺井は私など押さないだろうし、私も。私はどうだろうか。自信がなかった。
「いい天気だし、少し換気させてくださいね」
奥さんは断りを入れ、障子と奥の襖を引く。光が差したあと暫くして澄んだ空気が吹き抜けるのが分かった。嗅ぎ取れるのは懐かしいような、枯れた草木と土の臭いだ。耳を澄ましても鳥や虫の鳴き声くらいしか聞こえない。
「静かなところですね」
「そうねえ、ここは国道からだいぶ奥へ入ってるし。たまに市内へ出るけど、色んなものがありすぎて疲れちゃうわ。まあ若い子はそれが良くて出て行っちゃうけど」
奥さんはエプロンで手を拭きながら傍らへ腰を下ろす。
「私も最初、嫁いできた時は帰りたかったわ。お姑さんはいい人だったけど、舅の方がまあ吝くてねえ。気晴らしっていったって本屋も買い物できるような場所もないし、新婚なのに事件だ何だって主人は帰って来ないし」
始まった婚家の愚痴に苦笑しつつ、我が身の事情に照らし合わせる。うちの義祖母と義父に比べればましな気はするが、不幸自慢をしたいわけではない。
「あ、でも全然帰って来ないわけじゃないのよ、事件が終わればちゃんと帰ってくるから」
慌てたように付け足したのは、淺井の株を落とさないためだろう。藤倉も奥さんも、淺井の気持ちを知って協力したのだ。
「主人がかわいがってたからって身贔屓はあるでしょうけど、淺井さんはいい人よ。情に厚いし、頭も柔らかいしね。もちろんあなたの気持ちあってのことだけど、娘が選んでも反対はしない相手よ。まあ息子しか産んでないから、これも説得力はないわねえ」
奥さんは眉尻を下げて笑う。小さめの丸顔は頬もふっくらと張って、どこにも角がない。こんな部屋の中でも額や頬は艶々と照り、人の良さを感じさせた。取り立てて美人というわけではないが、笑顔と笑い皺のよく似合う「かわいい人」だ。
不意に、その影を長く引いていた目尻がすうと元に戻り、今度は神妙なものを醸した。
「でも、どちらにしても奥さんを殴るような人のとこにいちゃ駄目よ。そんな人は、必ず子供にも手を上げるから」
その意見に異論はないが、淺井はきっと私が不利になるようなことは何も話していないのだろう。夫は多分、自分の子供なら殴らない。
自分はあまり幸せには育たなかったから子供には同じ思いをさせたくない、と夫は言った。子供ができたら少し郊外の、のびのびと育てられるところに家を建てようとそんな話もした。夫が語る理想には、どの場面にも必ず子供が含まれていた。運動会だの何だの、気が早いと何度も笑った。幸せに育った私よりずっと「幸せな家庭」を渇望して、我が子を求めていた。現実を受け止められなかったのは分かっている。ジムに通い眼鏡を掛け、自分自身の理想に執着し始めたのはそれからだった。
複雑な笑みで応えた私の背を撫で、奥さんは入れ替わった空気を確かめて襖を戻す。お昼はうどんでいいかしらね、と確かめながら出て行った。
一息つき、携帯を手に取る。淺井からは電源は入れない方がいいと言われていたが、確かめたくなってボタンを押した。暫くして、画面には大量のメール通知と通話着信を告げる数字が浮かぶ。その殆どは夫からだが、一通だけ父親からのものがあった。結局、知られてしまったのだろう。
暗澹としつつ開いた中には『警察が身柄を保護したいと探している。でも少しおかしい。安全なら帰ってこなくていい』とあった。多分、任意同行をするつもりなのだろう。夫と幸哉が疑われて私だけ大丈夫だとは考えにくい。
少し躊躇ったが、夫からのものも開く。読んでいく内に警察は完全に夫を犯人だと信じていて、今は訴訟を頓挫させるために逮捕の切っ掛けを探しているのだと分かった。
『俺は何もしてない。あいつだ。俺から全部奪おうとしてる』
その中には、私と子供も含まれるのだろう。最後には『お前も信じてないんだろうな』とあった。返信を選んだが何も思い浮かばず、そのまま閉じる。全てのメールと着信履歴を削除して再び電源を切り、布団へもぐった。
あのあとでは流石に、との予想を覆して淺井は今日も姿を現した。若干気まずそうな表情で差し出されたコンビニの袋にはモンブランとプリンとケーキが入っていて、視線を上げる。
「どれがいいか分からなかったんで」
「どれも好きですけど、三つは無理です」
苦笑してベリーの色鮮やかなケーキを選び、残りを淺井へ差し出した。淺井は少し迷ってモンブランを選び、早速蓋を外す。似合わないわけではないが、三口程で食べ終わりそうには見えた。
大きくけずられた山を見て、私もスプーンで丸みを削る。コンビニスイーツを食べるなんていつ振りか、鬱屈を抱えながら暮らしていた日々が遠い昔のようだ。甘酸っぱいムースを一口味わい、一つ息を吐いた。
「今日、お義兄さんが帰られました」
擡げた私の視線には応えず、淺井は二口目を口へ運ぶ。ひとまずは安心だが、今頃は家庭内で殺伐としたやり取りが繰り広げられているのだろう。
「私も、任意同行のために探されてるんじゃないんですか」
ようやく応えた視線に苦笑を返す。
「ごめんなさい。今日、携帯を見てしまって。父親から警察が捜してるとメールが来ていたので」
「すみません、気を遣わせて。見ても別に構わないんです。ただ体調に響くのではと思っただけなんで」
気遣いに頷き、二口目を運ぶ。あのあと暫く腹が張っていたとは、とても言えなかった。
「任意の話が出ているのは確かですが、安静が必要な状態で応える必要はありません。耐えられないのは目に見えてます」
「でも、もし滝川さんにしてもらえるなら気持ちも楽ですし」
持ち出した名前に少し渋い顔をしながら、淺井は最後の一掬いを頬張る。予想通り三口で済ませたケースに蓋を嵌め直した。
「滝川はどうですかね、お義兄さんも希望されたそうで担当したんですけど」
聞き逃がせない言葉に、差し込み掛けたスプーンが止まる。
「かなり参ってへばってたんで」
突き刺したスプーンはムースの柔らかい腹を割いて、ケース越しの手のひらへ衝撃を伝えた。腹の底から湧く昏いものを逃がせず、息を吐く。滝川は、幸哉の興味を引いてしまったのだろう。
「帰らないと」
スプーンを突き刺したままケーキを置き、腰を起こす。当然のように触れた手を掴んだが、とても外せそうなものではなかった。
「このままだと、私が要らなくなってしまうんです。あの人の興味が移ってしまう」
あの時に湧いた嫌な予感は、私の恐れはやはり正しかったのだ。このままでは、滝川に幸哉を盗まれる。しかし悲痛な訴えをぶつけたところで腕はびくともしないどころか、更に絡まって重い枷になった。
「俺には必要です。この先、死ぬまで必要なんです」
泣きじゃくる私を逃さないよう抱き締めたまま、淺井は初めて素の交じる言葉を漏らす。離して、と零した涙声にも頭を横へ振った。
「離せません」
肩口で聞こえた答えに目を閉じ、長く息を吐く。
本当は分かっている。今この腕を振り解けたところで、もう間に合わない。私はもう「負けた」のだ。握り締めていたシャツを離すと、手のひらが急に涼しくなった。
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