2-6. 清乃
第23話
「具合はどう?」
「おかげさまで、大丈夫です。お腹も張ってません」
良かった、と奥さんは柔和な笑みでほうじ茶の盆を置き、私へ勧めた。
「夜だけど、少し温かいものを入れておいたほうがいいかと思って」
「ありがとうございます。いただきます」
小さく頭を下げた私に、鷹揚な手振りを返す。
淺井が私の身柄を保護する先として選んだのはホテルでも自宅でもなく、既に引退した先輩刑事の家だった。市内からは車で三十分ほどの郊外にある、大きな木の門をくぐって入るような古めかしい一軒家だ。
あの日、淺井の指示に従い、朝早くタクシーを予約し裏口の方へ回すよう頼んだ。朝の回診時には言われた通りの内容を医師に伝え、退院手続きを済ませ乗り込んだ。行き先は駅だが構内へは入らず、駅舎に沿って進んだ先にある駐車場へ向かった。そして、言われたナンバーの車を探して乗った。その車を運転していたのが、先輩刑事である
歳は六十八になったところだと言った。淺井と似たような厳つい体つきは特に衰えたようでもなく、髪もまだ黒々として健康そうな風貌だった。畑仕事をしながら子供達に柔道を教えていると聞いて納得した。
淺井にとっては、刑事の生き方を基礎から叩き込んでくれた恩師のような存在らしい。それなら余計に叱責されそうなものだが、藤倉は「相変わらず手が掛かる」と言って笑っただけだった。
奥さんは息子三人を育て上げた妊娠出産のプロで、玄関先に現れた私が荷物を提げているのを見て藤倉を叱ったくらいには強い人だ。
通された一階奥の座敷はすっきりと整えられ、既に布団が敷かれていた。私の状況はどこまで明かされたのかは聞いていないが、「夫の暴力から子供を守るために逃げた」目的は伝えてあった。奥さんは、産まれるまでいたらいいのよ、娘ができたみたいで嬉しい、と恐縮する私に笑みながら、横になるよう促した。
ほうじ茶に温められながら、出産前後に必要なものの話を聞く。四人の孫を持つ祖母でもある奥さんは最近の出産事情にも詳しく、実情に即した話題を提供してくれた。母親が生きていたら、きっとこんな風に話をしながら過ごしたのだろう。面影をその手に懐かしく追っていると、遠くで呼び鈴が鳴った。
「多分、淺井さんね」
奥さんは言い残して腰を上げ、座敷を出て行く。日に焼けた障子を眺めながら、何から礼を言うべきか頭の中を片付けていた。
淺井はすぐに現れて、落ち着いた様子の私を見て安堵したように笑う。
「本当に、何から何まで」
私が礼を口にする前に、仰ぐように左右へ手を振った。
「気にしないでください。私は自分の正しいと思ったことをしただけですし、間違ってもなかった。ここにいれば安全ですから、気は遣われるでしょうが暫くは世話になってください」
布団際で腰を下ろし、胡座を組む。少し煙草の臭いはしたが、気になるほどのものではなかった。気を遣ってくれたのだろう。甘えてばかりだが、何もできない今は全てがありがたかった。
「主人は、帰されたんですか」
「はい。でもお義兄さんの方はまだ。すみません」
「いえ、いいんです。淺井さんのせいではないですし」
頭を横へ振り視線を上げると、すぐ傍に視線があった。男らしいというのか濃いというのか、目鼻も口も大きめなパーツがぎっちり詰まっている。幸哉のように耽美でもなければ夫のように涼やかでもない、荒く野性味溢れる造りだ。四十手前くらいだろうか、顔には細い皺が走り、癖毛のうねりの中には白いものがちらついていた。
「藤倉さんは、若い頃にお世話になった方なんですね」
切り出した藤倉の話に頷いて、胡座の上で野太い指を組み合わす。独身なのか厭っているだけか、左手に指輪の気配はなかった。
「私が刑事課に初めて配属されたのは二十八の時で、その時に組んでくれた人でした。まあ鬼のように扱かれたし、形相も鬼のようで。当時は本当に、鬼でした」
他に表現の仕様がないのか、三回も鬼呼ばわりして苦笑する。今の様子からはとても想像できないが、現役時代はまるで違っていたのだろう。
「それでも、人間らしさっていうんでしょうかね。この仕事をしてるとたまに置いてきそうになるもんがあるんですけど、おかげで紙一重で留まってる気がします」
「だから、私は助けて頂けたんですね」
返して、少し冷めたほうじ茶を多めに啜る。薬草茶か、渋みの少ない飲みやすい味だった。
「これからも、あそこで生活されるつもりですか」
今更確かめるまでもないが、合わせた視線は刑事として探るものではない。心配を伝える眦に、湯呑みを握り締めた。
「本当は、主人が帰って来たら離婚の話をするつもりでした。幸哉さんを連れて実家へ戻る予定だったんです。でも、幸哉さんが連れて行かれてしまって。一人で離婚話なんてもちろん、二人きりでいることすら怖くて」
「そうでしたか」
俯く私を慮る声が宥める。落ち着いた、穏やかな音だった。
「お義兄さんが帰されても、捜査の状況はまだ不確かでしょう。ご主人は逮捕の決め手がなく帰されただけですから、いつまた呼ばれるか分からない。お義兄さんが今回限りという保証もない。どのタイミングであなたがご主人と二人きりになるか、予測できないんです。せめて事件が終わるまでは、ここにいてください」
「でも、あの人は一人では何も」
「大丈夫ですよ。薬もちゃんと携帯してたようです」
ああ、と答えたあと這い上がる焦燥を苦く味わう。感じるべきものは安堵のはずなのに、そんなものは拡がらなかった。
「私のしてることは、世話ではなくて束縛なんです。一人では何もできないように、私がいなければ生きていけないようになって欲しいと、ずっと。邪だと分かっていても消せないし、苦しくてもやめられないんです」
握り締めた湯呑の中で、残り三分の一ほどになった枯茶色が揺れる。縁はもう冷えきって、私の熱ではどうにもできなくなっていた。
渇き始めた喉に全てを送り込み、盆へ置く。淺井は黙ったままだった。
「あの人は良くも悪くも他人を必要としない人だから、体があんな状態でも多分、一人で生きていけるんです。女性は必要だけど、特定の誰かである必要はなくて。見た目の美醜なんかどうでも、ただ自分の興味をどれだけ惹きつけられるかが大切なんです。だから私は多分、主人と離婚したら捨てられてしまうんじゃないでしょうか」
幸哉は家に戻った日、夫のことを「貧乏くじ」と呼んだ。私が幸哉の興味を引いたのは、私自身が特別だったわけではない。幸哉と並べて尚、そんな「貧乏くじ」を選んだと知ったからだ。
「でも私は馬鹿だから、負けると分かってる賭けでもしてしまうんです。もしかしたらと、夢を」
途切れた先は飲み込んで目を閉じる。深く息を吸うと、幸哉とも夫とも違う臭いがした。淺井は気づいたように少し腕を緩めたが、外れはしない。軽口だと気に留めず流した幸哉の言葉を思い出す。こうなることを、幸哉は分かっていたのかもしれない。これでまた少しは、と湧く浅ましい欲に喉が干上がるのが分かった。
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