3-2. 周子

第29話(最終話)

 美容師が完成を告げた時、娘の髪型は昔の私を彷彿とさせる長さになっていた。髪型どころか顔の作りも体型も、まるで生き写しみたいに私に似ている。娘は男の子のように短く整えられた髪を見て満足そうな笑みを浮かべた。これから伸ばせばまだ七五三には間に合うが、どうだろう。床には、これまで押し通し続けた私の欲が散らばっていた。


 生後半年で保育園へ入れたせいか、発達具合は目覚ましい。でも三歳児クラスになった今、遊び友達はみな男の子だ。女の子とままごとをしているより、男の子とサッカーだの格闘ごっこだのしている方が楽しいらしい。それでもとしぶとくスカートを履かせていたら、担任から『えりなちゃんはズボンの方がいいと思います』と連絡帳に書かれてしまった。


 色もピンクより青が好きで、黒を格好いいと言う。欲しがるおもちゃはゲーム機やロボットのような男の子の欲しがるものばかり、与えたぬいぐるみは本棚の上で埃を被っている。


 習い事も、本当はピアノやバレエをさせたかったのに、仲良しが通っているからと空手教室だ。幸哉は送って行って、そのまま見学していることが多いらしい。「突きが巧くなった」とか「蹴りが高くなった」とか、私が少しも満足できないような点で娘を褒め称えていた。


 女の子らしさの欠片もない育ち方をしているのに、幸哉はまるで気にするようでもない。男臭い方ではないとはいえ、やはり男だ。育児を丸投げして復職したのは失敗だったかもしれない。


 私は娘を、「私のような娘」にはしたくないのだ。女は、女である事に逆らわず生きた方が得をする。与えられたものを素直に利用した方が、ずっと楽に生きられる。娘には、かつての自分と同じ葛藤を抱えて欲しくなかった。できることなら何の疑問も持たず女でいられるような、あの女のような。



 遠くに幸哉の姿を見つけた娘は、私の手を振り解いて駆け出す。休日特有の賑わいの中を、まるで猫かイタチかのようにすり抜けて行く。青いトレーナーにジーンズにスニーカー。後ろ姿は、前から見てもだが、息子を産んでしまったかのようだ。


 休憩コーナーのソファで娘を迎えた幸哉は、短くなってしまった髪にも満足しているのだろう。嬉しそうに笑っている。元々、見た目の美醜など一切興味のない男だ。


 幸哉と結婚すると言った時、兄はもちろん、私の結婚などとっくに諦めていたはずの両親まで反対した。兄と両親では内容は違っていたが、「苦労するのは目に見えてる」の言葉は同じだった。身内に犯罪者がいるなんて、あんな体の働けない人と一緒になるなんて、と両親は言い、お前には無理だからやめろ、と兄は言った。


 でも私は、その両方を振り切って結婚を決めた。もちろん警察官としては結婚できない相手だから、先に退職願いを出した。今思えば、あれは淺井と取引を済ませたばかりだったのだろう。御山は心底うんざりしたような表情をした。


 清乃はどこへ姿を隠していたのか、誰が隠していたのか、その時は結局明らかにはならなかった。二木研哉のその後に絡んで離婚を聞いたあと、三月に御山の異動と淺井の島流しと私の退職があった。


 御山とは退職を申し出た時から会うこともなく、私だけに向けた別れの台詞もなかった。あちらにとっても都合が良かったのだろう。少しの未練も見せない別れだった。


 伝で転職した警備会社には刑事課と繋がりがある上司がいて、夏頃にその上司を通じて淺井の結婚を知った。相手の名前は聞かなかったが、「こっちから連れてった人」で納得した。「捜査対象に惚れて下りた」にしては重かった処分にも合点が行って、淺井が御山と取引したのだと分かった。


 淺井は恐らく、違法捜査の秘匿を条件に清乃との結婚に協力させたのだろう。元夫とはいえ、一度は犯罪者の妻だった女だ。他の課ならまだしも刑事課のしかも一科では、「普通のやり方」では無理な相手だった。


 こちらの、しかも母屋県警の刑事課に復帰すると聞いたのは先月か。遠く離れた交番勤務へ移って素知らぬ顔で結婚して、ほとぼりが冷めた頃に刑事へ戻ってくる。随分と賢い遣り口だ。私にはとても、そんな頭は回らなかった。私はただ、幸哉を自分のものにすることしか考えていなかった。



「お昼ご飯はどうする、ここで食べて帰るの?」

 辿り着いた私に、娘と手を繋ぎながら幸哉が尋ねる。


「どうせどこも混んでるでしょ。帰りにハンバーガーでも買えばいいわ」

 右も左も、親子連れで溢れたショッピングモールにうんざりする。もちろん私達もその一部なのだが、子供の甲高い声が今は耳に障って仕方ない。


「えりな、ここがいい」

「ここはだめ。いいじゃない、ハンバーガー好きでしょ」


 不服そうな訴えを無視して踵を返し、駐車場へ向かう。子供の声やゲームの音、鳴り響く迷子のアナウンスでさっきから頭が痛い。幼児OKの美容院があるから来たが、間違いだったかもしれない。こんなところはさっさと抜け出したいのに、振り向くと幸哉と娘はちんたらと周囲のものを眺めながら歩いている。


 働けないのなら、せめて子育てくらいまともにして欲しい。

 金は年金だの何だの降ってくるから、大して不自由はない。だから、そんな問題を言っているのではない。バランスの問題だ。


 私は仕事と料理、幸哉は育児とそれ以外の家事。私が仕事をこなすのと同じくらいちゃんと育児をして欲しいのに、見る限りまるで片手間だ。


 保育園での評判はいいが、それは保育士も保護者も殆どが女だからだ。まあ、障害の程度を知りながら手を出すような保護者もいないだろう。全てを分かって手を出すような女は、一人しかいない。


 幸哉と腹の子を食わせるべく働くつもりだったらしいから、あのままならここは清乃の立ち位置だったのかもしれない。あの時、御山に淺井が隠していると知らせていたら、今この苛立ちを感じているのは清乃だったはずだ。


 でもそれを選べば、幸哉は私のものにはならなかった。それに私は清乃のように「取り柄のない」専業主婦で人生を腐らせていくような生き方はごめんだ。


 好きな男を手に入れて、満足できる仕事を続けている。男に頼らなくても生きていけるほど自立している。私の方が幸せだし、女としても格上だ。


 少しだけ空いた胸で視線を上げたが、二人はまだ遠くにいて、しかもウサギの着ぐるみの前で何か揉めていた。


 群がる子供達の中に突撃する気も起きず、溜め息をつく。やがて抜け出して来た娘は俯き気味に、青い色の風船を連れていた。


「どうしたの?」

「赤い風船をもらったのに、嫌だって傍の男の子のを取っちゃったんだよ。まあ、その子もちゃんと新しい青いのをもらったんだけど」


 ああ、と納得しつつ押し黙ったままの娘を眺める。口をへの字に曲げて、ふて腐れている。そんなところまで私にそっくりだ。あの女ならきっと。


「人のものは、とっちゃだめなんだよ。人から盗ったものじゃ、幸せにはなれないからね」

 ぼんやりと眺める前で、幸哉は娘の頭を撫でながら牧師のように説く。短く吸った息が止まった。


「それに、人から盗ったものはまた盗られるんだよ」

 続いた説教に思わず、ちょっと、と眉を顰める。普段から娘にどんな教育をしているのか、そんなことを保育園で口走るようになったらこちらの良識が疑われてしまう。


「でも、それが世の道理だよ。自分の欲を通せばどこかが歪むんだ」

 幸哉はなんら動じる様子もなく私を見て薄く笑った。


「誰が一番不幸になるのか、楽しみだよね」

 ふと脳裏に浮かぶ面子に、恐らく間違いはないだろう。私と幸哉、淺井と清乃。そして御山。研哉が冤罪なのは、あの島にいたものは全員「知っている」。自首の刑期軽減を餌にして、ポリグラフにさえ掛けなかった。


 研哉の出所まで約五年。ムショを出て真っ先に向かう相手は誰か、自ずと浮かぶ答えに視線を滑らせた。


 幸哉は再び娘と手を繋ぎ、今では私を置き去りにして前を歩いている。継ぎ目の多い皮膚も右手の義手もぎこちなさの残る足取りも、娘は少しも気にしない。


 幸哉はこれ以上の不幸を、地獄に堕ちることでも望んでいるのだろうか。


 一つ息を吐き、非現実的な妄想に駆られた思考を排除する。私はそんな思考に毒される女ではない。私は、あの女とは違うのだ。


 少し足を速めて二人のあとを追う。娘が私に気づいて手を伸ばす。その途端、開いた手のひらから風船がゆらりと宙へと逃れていった。



                              (終)

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毒のかたち 魚崎 依知子 @uosakiichiko

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