第21話
清乃が消えたとの一報が島を駆け巡ったのは、翌日の昼前だった。いつまで経っても出てこない清乃に受付へ尋ねに向かったら、もう退院したと言われたらしい。清乃は朝イチで、状況を気遣う医師に「主人と鉢合わせしたくないから落ち着くまで別のところへ行く」と言い残して去っていた。ただの馬鹿な女かと思っていたが、そうではなかったらしい。少なくともこちらより、御山よりは一枚上手だったということだ。
「二木を帰すな」
「これ以上は限界です。今はもう訴訟の話しかしません」
若造の悲痛な訴えに、御山は腹立たしげな息を吐いて時計を見上げた。
「四時だ。四時まで押さえろ。残りは全員、二木清乃を探せ。四時までに見つけて保護の名目で家に返せ」
腰を上げながら確かめた時計の針は十一時半を少し回っていた。四時間半もあれば、と思う半面、不安もないわけでない。警察にも、誰にも知られたくないから、正面玄関を避けたのだ。
「俺も行きますか」
座ったまま窺う淺井に、御山は渋い顔で額をさする。
「残って、タクシー会社とバス会社を当たってください」
暫くの熟考のあと出した苦渋の決断に、淺井は頷いてメモを手に取った。本当は喉から手が出るほど人手は欲しいところだが、御山の決断は正しいだろう。もし淺井が見つけてしまったら、帰さないかもしれない。
慌ただしく出て行く私達を気にせず、淺井は受話器を手に取る。今何を考えているのか、聞くのは酷だろう。一息ついて群れの背を追った。
昼過ぎに届いた新たな手掛かりはたった一つ、清乃が使ったタクシーの情報だった。当日の朝七時過ぎにタクシーを予約し、九時過ぎに乗ったらしい。その行き先は、駅だった。
すぐさま私を含めた数人が駅へ向かったが窓口での収穫はなく、改札の担当者も首を横へ振った。妊娠中とはいえ臨月のように大きな腹ではない。人波に紛れてしまえば判別不能だ。それにもう退院してから四時間近く経っている。電車を利用されていたら、逃亡先が分かったところで四時には間に合わないかもしれない。
「防犯ビデオを確認しろ」
「でも、それは」
「任意で二人が引っ張られたのを見て、次は自分だと思って逃げたかもしれないだろう。書面がないのはごまかせ。いいな」
一方的な要求を押し付けて、通話は途切れた。
確かにその可能性はないわけではない。しかし照会書なしの確認が許されるのは殺人の犯人逃亡など、急を要する事件の時だけだ。任意すらしていない、しかも身の危険を感じて逃げた一市民を「危険に合わせるため」に確認するなど許されるわけがない。
指示を尋ねる周りにありのままを伝えると、やはり皆渋い顔をした。しかしこれも「捜査のため」だ。下にいる私達は逆らえない。胸に燻るものを逃せないまま、事務所へ向かった。
しかし防犯カメラの映像を以てしても、清乃の足取りを掴むことができなかった。タクシー会社に再度確認したが、運転手は構内に入るところまで見ていたわけではないらしい。恐らく清乃は、駅の構内には入っていなかった。つまり改札もくぐっていないということだが、それが分かっただけではどうにもならない。市内のホテルや旅館は「二木清乃」はもちろん、旧姓の「
二木研哉は、予定通り解放されたらしい。恐らく訴訟を起こされると思います、と暗い声で加えた若造に溜め息を返す。
清乃が消えたと知ると研哉は更に怒り、幸哉は驚いたらしかった。二人とも行き先の候補に実家を挙げたが、そんな王道はとっくに確かめている。幸哉の任意同行も知らされていなかった父親は、玄関で崩れ落ちたらしい。起き上がれなくなったため救急搬送して、現在はまだ処置中だ。
清乃は父親に「帰って来たら離婚する」「幸哉を連れて家を出る」と話していたらしい。自分が働き幸哉と子供を食わせていくつもりなのだろう。随分と男らしい決断だ。一度突き放された男にどうしてそこまで尽くせるのか、私には悲惨な呪いとしか思えない。尤も、本人にそんなつもりはないだろう。だから解けないのだ。
その幸哉の様子を聞くと、帰りたいと駄々をこね始めているらしかった。
通話を終えた途端、溜め息が漏れる。気持ちを切り替えるように伸びをして、助手席へ滑り込んだ。研哉の監視人員以外は帰還を命じられたが、戻ったら全員正座で説教を受けるのではないだろうか。御山は相当ご立腹らしい。
それにしても、清乃はどこへ消えたのか。窓外に流れる街の景色を眺めながら一息つく。懐かしい顔も幾つか浮かんだが、特に会うこともないと言っていた。あれが嘘だったのだろうか。病院と駅と、二度もこちらを出し抜いているのだから有り得る話だ。御山は捜索を正当化するために清乃の任意同行を決めたが、案外間違ってはいないかもしれない。
周りは皆、清乃を頭のいい女だと思っている。高校時代は才色兼備の名を恣にしていたし、会社での評判も似たようなものだ。私以外は誰も清乃を馬鹿だと。
ふと掠めた可能性に顔を擡げる。すぐに否定は湧いたが、それを打ち消す疑惑が勝った。
その可能性を起点にすれば、病院や駅で捕まえられなかったのも納得だ。当然ながら私や、現場知らずの御山に出し抜けるわけがない。淺井なら捜査の何歩も先を行ける。ただ。
淺井が我が身の進退を賭けてまで清乃を隠した理由は分かっている。これを暴くのが正義なのか。結論を選び取れないまま、携帯を上着へ戻した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます