2-5. 周子

第20話

 御山は通話を終え、苛立った様子で受話器を置く。がしゃりと耳障りな音だった。


「どうなんだ、まだ吐かないのか」

「事件に関しては『もう話すことはない』の一点張りです。今は、弁護士に連絡させろと煩くて」


 荒げた問いに、恐縮した様子の声が返す。私の代わりに加わった刑事一年目の「若造」だ。


「もっと叩いて証拠を出させろ」

「指紋も分かって拒否してますし、任意では限界です。これ以上は」

「その令状が出ないから言ってんだよ!」


 遮るように返し、デスクを叩く。ファイルの隙間から眺める御山は顰めっ面だ。濃紺のネクタイを引いた襟元は緩んでいるが、いつもの余裕は感じられない。進まない捜査に苛立ちも極まっているらしい。こんな荒れた御山を見るのは初めてだった。尤も、事故で済ませられる案件を事件と判断したのも御山なのだから、仕方のないことだ。判断ミスと見做されてしまえば、この先上り詰めるのが難しくなる。


「嫁はまだ病院だな」

 切り出した声に、キーボードを打つ手が止まった。


「夜のうちに家に仕掛けてこい。あと、病院に連絡して退院予定日を調べろ。同日に二木研哉を帰す。嫁を殴らせて引っ張れ」

 捜査の手段として盗聴は許可されているが、どんな場合においても許されているわけではない。当然、今回のような場合は逸脱行為に当たる。その上、逮捕の口実を作るために「殴らせる」など、逮捕以前の問題だ。


 しかし若造は言い返せなかったらしい。素直に頷き、複雑そうな表情を浮かべたまま出て行った。でも私はそう簡単には納得できない。気持ちを収められず腰を上げ、デスクへ向かった。


「今のは、流石に」

「じゃあ他に策があるのか」


 控えめなこちらに対し、御山は最初から戦闘態勢で臨む。


「彼女は妊娠してて、まだ流産の可能性もあるんですよ」

「それが何だ」


 吐き捨てるように返してすぐ視線を逃した。凍てつくような私の表情に、発言のまずさを察したらしい。


「他に策がないんだ、しょうがないだろう。担当でもないのに口を出すな」

「すみませんでした」


 取り繕うような言い訳に棒読みで詫び、踵を返す。視界に入った時計は九時半、横目で確かめた席に姿はなかった。淺井がいたらどうなっていただろう。いなくて良かったが、いたら止められていたかもしれない。


 席へ戻り、何もかも馬鹿らしくなったパソコンを閉じて帰宅を選ぶ。掴んだ携帯にちらりと清乃の顔が浮かんだが、そのままポケットへ突っ込んで腰を上げた。下手に助けて処罰を受けるのはこちらだ。どんなに胸糞悪くても、作られた流れには逆らえない。

 お疲れ様です、の答えは待たずドアをくぐった。


 弟に遅れること一日、幸哉が任意で引っ張ってこられたのは今日の昼だ。予想よりしぶとい研哉の牙城を崩す手段としてか「新たな犯人候補」としてなのかは知らないが、なんの報告もないからまだ絞られているのだろう。研哉は任意を理由に指紋も写真も逃れたが、幸哉は素直に従ったらしい。違法だと知らないのだろう。でも、知っていたとしてもどうでもよさそうな人だ。どうでもよくないのは清乃だ。


 一息ついて自動ドアをくぐる。途端に冷え込む空気に身を竦めながら暗がりの中を車へ向かった。


 車へ乗り込み携帯を確かめるが、御山からフォローするような言葉は届いていない。そんな余裕もないのだろう。あったとしてもするつもりがあるのかどうか。

 この事件の捜査を始めてから、色々なことが上手くいかなくなった。御山とはぎくしゃくした状態が続いているし、淺井も私も外されたし、家も荒れそうな気配がある。


 昨晩久し振りに電話を寄越した母親は、こちらが近況を尋ねるよりも早く兄の離婚を告げた。そして、孫の親権をなんとしても取りたいから私の力を貸せと鼻息荒く要求した。しかし話を聞く限りはよくある「性格の不一致」での協議離婚で、妻側に問題があるものではなかった。だからあんたがなんとかするのよ、あっちの家に何か悪いところがないか調べてよ、と平気で要請する母親に湧いたのは怒りではなく戸惑いだった。


 母親は、確かに穏やかに佇み品の良い笑みを湛えるようなタイプではない。でもPTA会長だの民生委員だのを務めるような「良識あるおばさん」だ。それが何故これほど図々しく非常識な発言をするようになったのか、冗談と一笑に付すには無理のある物言いだった。だから私も努めて冷静に、一警官として要求を飲めない理由を返した。


 不意の揺れに引き戻され、画面を確かめる。開いたメールには『ごめん また今度うめあわせする』とあった。少しだけ針を戻した胸に一息ついて、似たような詫びと労いを返す。携帯を置き顔を上げると見覚えのある男達が数人、フロントガラスの向こうを横切っていった。これから「仕掛け」に行くのだろう。違法だと分かっていても、大義名分さえあればなんでもする。その陣頭指揮を取るのが御山だ。


 母親に、妻子持ちで我が身のためなら違法捜査も辞さないような男と付き合っていると話したら、評価も変わるだろうか。

 鍵を捻り、ライトを点ける。左奥に彼らの姿を見たあとで車を出した。



――あんたはどうせそう言うと思ってた、「ご立派な周ちゃん」のまんまだわ。


 捨て台詞への答えは許さず、電話は切れた。「ご立派な周ちゃん」とは昔、正論に拘る私を茶化して母親がつけたあだ名だ。その頃は戒めだったのだろうが、今はただの蔑称として機能している。


 不意に、周子ちゃん、と呼んだ幸哉の声を思い出す。昔も今も、女の名前を呼ぶのになんの抵抗もない男だ。でもあれほど女に囲まれ続けていたのに、特定の誰かと付き合っているとは聞いたことがなかった。隠れて付き合っていたのかもしれないが、どうだろう。ただ広く浅く表面を撫でて終わる軽薄な男にも見えた。


 いや、「軽薄」ではないかもしれない。

 カップ焼きそばの容器を振りながら、もっと適した表現を探す。細かな傷が光を散らすシンクから視線を戻し、蓋を剥ぎ取った。液体ソースを流し込んで掻き混ぜ、ふりかけを掛ければ今日の夕飯は完成だ。「ご立派な周ちゃん」でも、こんなところはどうでもいい。突き刺していた箸を握り直し、シンクの灯りの下で立ったまま啜る。 


 多分、清乃はこんな食べ方はしないだろう。あれは一汁三菜を恙なく揃え、甲斐甲斐しく好きな男の好みに合わせて味を変えるような女だ。甘やかすから男が増長することを分かっていない。幸哉の隣に収まるのは同等の美貌と才能と賢さを兼ね備えた「自立した女」だろうと思っていたのに、まるで違っていた。幸哉も結局は馬鹿な女が好きな陳腐な男だったのだ。しかし今度は「陳腐」に引っ掛かって一人、首を傾げる。


 軽薄と陳腐。似合わないわけではないが、しっくり来ない。この違和感はなんなのか、清乃に聞けば分かるだろうか。でも次はもう、まともに顔が見られなくなっているかもしれない。知っているのに教えない私も結局、仕掛けに行った連中と同類だ。でも彼らのせいでも私のせいでもない。捜査のためには、これは仕方のない犠牲だ。


 最後は流し込むように掻き込んで、容器と箸をシンクへ投げる。手の甲で汗と口元を拭ったあと、スーツを脱いで風呂へ向かった。


 粟立つ肌を擦りながらシャワーを出す。勢いよく流れ出した水が少しずつ温かくなったのを確かめて、頭から浴びた。長く漏れた息と共に、今日一日で得た汚れが剥がれ落ちていく。煙草の臭いも汗も耳障りな音も道を逸れた捜査も、全てはここまでだ。


 ポンプを数回押し込み、シャンプーを手に取る。ビニールのように光る液体に、渋川とのやり取りが脳裏を掠めた。


 二木幸哉に手袋のことを聞いたのはお前か、と怒鳴るような口調だった。幸哉は「ラテックスの手袋を使うか」と尋ねた私に、義眼を洗う時に彼女が嵌めてくれるよ、と苦笑しつつ答えた。それでそこまでになった問いだ。報告には『義眼洗浄時に使用。二木清乃が着用させている。自力では不可』と。


 渋川が言うには、研哉が「幸哉は一人で手袋を嵌められる」と主張したらしかった。一人で嵌められるんなら二木に絞れねえだろうが、と今度は怒鳴ってデスクを蹴った。スチールの引き出しの三段目は、それから開きにくくなっている。でもどうせ、私の金で買ったものじゃない。


 爪を立てて存分に掻き回し、洗い流す。曇った鏡にシャワーを浴びせ掛けると、無愛想で垢抜けない女が立っていた。

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