第17話

 翌日、幸哉の予想通り夫は任意同行されたらしい。任意同行が拒否できることくらい知っているはずだが、ごねるのは得策でないと踏んだのだろう。それでも気を遣ってか、警察も火葬を終えてホールへ戻って来るまで待っていてくれたらしい。でも残っていた家の仏壇支度を任されて死ぬほど面倒くさかった、と幸哉は心底うんざりした表情で愚痴った。


「どんな理由で連れて行くのか聞いたけど、捜査の内容は言えませんって。やっぱり融通が利かない人だった」

 新しい担当刑事への不満を漏らしながら、ベッドテーブルで弁当折をつつく。精進落としの余りをくすねてきたらしい。すっかり油の回った何かの天ぷらを食いちぎったあと、少し上を向いて口の中へ収めた。


 渋川だったか、どんな人物かは定かではないが、捜査内容は流石に滝川や淺井でも言えないだろう。苦笑しつつ傍らのティッシュを手に取り、油でぎらついた口の端を拭った。


「俺の世話はいいから、寝ててよ」

 素直に拭かせてしまったのが不本意だったのか、幸哉は口を尖らせて安静を促す。


「今日は体調もいいし、赤ちゃんも元気に動いてた。先生もひとまずは大丈夫だろうって。二、三日中には退院できるから」

「男か女かは、まだ分からないの?」

「うん、もう少しね。今月末くらいには分かるって」


 五ヶ月になれば安定期だ。今よりは気掛かりも減るだろう。まだ大した膨らみもないが、それでも妊娠前とは違う線を描き始めている。母親が不倫中だろうと父親の右手がなかろうと戸籍上の父親が任意同行されようと、子供はそんな事情などお構いなしに逞しく育っていく。この子のために私ができることは、もうそれほど多くない。


「予定日、五月のいつだっけ」

「八日。まだまだ先」


 でも、その日をゆったりと指折り数えていられるような日々を過ごせるのだろうか。


「お父さん、今日も来てた?」

「ああ、うん。落ち着いてるって言ったら安心してた。明日も仕事の日じゃないから午前中に来るって」


 思い出したように伝えながら、幸哉は硬そうな白飯の塊を口へ運んだ。本当はもっと温かくて美味しいものを食べさせてやりたいが、今は仕方ない。


「来るのはいいけど、説教するんだろうなあ」

 父親の説教は内容まで予想できる。


 大事にしなければならない時に動くとは何事か、入院させずに戻すとは、その上警察にまで連れて行かれるとは、もうこれ以上は黙っておれん、いい加減諦めて戻って来い。


 まあ、そんなところだろう。殴られた痕を見られたのも初めてだった。

 父親と夫の仲がこじれ始めたのは、あの不妊騒動からだ。欠陥品を寄越したと実家まで詰りに行った義祖母と私を少しも庇おうとしない夫と臭いものに蓋をしようとする義父に、母親の制止も振り切って「帰って来い」と言った。あの頃は母親も闘病中だったし、できることなら父親だって婚家との間に波風を立てたくはなかっただろう。


「まあ、任意同行されるのも見てたしね。そのあと家まで送ってくれたけど、その話はしなかった」

 父親は頑固一徹で無口な男だが、子煩悩で情に厚い。弟の一件で怒り心頭に発しつつも強引な策に出なかったのは、事故被害者の幸哉を慮る気持ちと板挟みになったからだ。結婚式の時に意気投合した記憶を捨てきれなかったのだろう。


「明日、昼ご飯は一緒に食べてくるよ」

 幸哉はリハビリ散歩の行先に実家を選び、度々足を運んでいる。夫は不妊騒動以来父親に会ったことも会おうとしたこともないが、幸哉は普通に「お父さん」と呼んで会っていた。今回はなんの抵抗もなく風呂を借りているし、今も食事に困ったら来ればいいと言われているらしい。


「ありがとう。何か美味しいものでも食べさせてやって。身内で警察沙汰なんて、口に出さないだけで相当堪えてるはずだから」

 幸哉は頷きつつ、摘んだ高野豆腐を口へ送り込む。少し経って、君のご飯が食べたい、と溜め息交じりに所望した。


*


 翌日、病室を訪れた父親は予想とほぼ違わぬ説教を口にした。最後を「いい加減諦めて帰って来い」で締めるところまで予想通りだ。怒りを通り越して憔悴を浮かべているところまで、嫌になるほど当たっていた。


 今年で六十六か、浅黒い肌はところどころ漣だって老いを伝えている。オールバックのあちこちに白いものが見えて、少し薄くもなっていた。心労のせいか顔色も優れない。


 野太い眉も重い瞼も、昔は「お父さんそっくり」だったのに、今では遠く離れてしまった。でも私が離しただけで父親は昔のままだ。


 白いシャツの上にジャンパー、下はスラックス。特別センスが良いわけではないが、きちんと小奇麗な格好だ。母親が癌に罹患した頃から、父親は少しずつ自分で自分のことをするようになった。料理から覚えて掃除洗濯と、元が器用な父親にはどれも造作のないことだったらしい。今ではもう、私より上手にアイロンを掛けられる。


 だから私に助けて欲しくて帰ってきて欲しいわけではない。ただ純粋に私と、私の子供の将来を案じている。


「あの人が帰って来たら、ちゃんと話をする。調停を持ち出せば、すぐに判を押すと思う」

 一晩経ったが、夫はまだ警察署だ。任意同行とはそれほど長い時間拘束できるものだったか、このまま逮捕へ持ち込むつもりなのかもしれない。


 まあどちらにしろ離婚を切り出した妻を未練がましく追い掛けるなんて、夫は意地でもしないだろう。今となってみれば、何故結婚したのかと思うことばかりある。でもそれはきっと向こうも同じはずだ。


「でも、あの、お父さんに言ってないことがあって」

 一番の課題に、握り締めた拳の内に汗が浮く。父親は不倫だの浮気だの、そういった筋の通らないものを何より疎む性質だった。でもこればかりは避けて通れない。幸哉を置いていくわけにはいかないのだ。いかないのだが、やはり尻込みしてしまう。三十過ぎて馬鹿みたいだが、父親の一喝が未だに怖い。昔はよく拳骨を落とされたものだ。油の染み込んだ拳の重さは、今もよく覚えている。


 先が続かず口ごもる私に、父親は長い息を吐いて顔をさすり上げた。分厚い手のひらと黒ずんだ指先は変わらない、職人の手だ。町工場に定年まで勤め上げたあと六十五まで嘱託で働き、今年からはパートで出ている。腕を求められ続けるのは誇りだろう。


「まあ、見てれば大体のことは分かる。褒められたことじゃないが、三十も超えた娘に今更どうこう言ったってどうしようもないだろう。筋だけは通して、二人で帰ってきなさい」

 二人、という表現に思わず安堵の息が漏れる。


「ごめんね。ありがとう」

 親として思うところがあるのは分かっているが、今はただ甘えたかった。


「幸哉くんにはもう話したのか」

「ううん、これから。お父さんに許しを得てからにしようと思って」


 つけ足した理由に、父親は頷いて一息ついた。

 父親に話してから幸哉へ話す。確かに許しは得たかったが、そんなものは後づけでしかない。本当は、幸哉へ話す前に外堀を埋めておきたかっただけだ。


 口では健気なことを言いながら、肚ではまるで違うことを考えている。そんな昏い腹の中でどんな子が育つのか、良い母親である実感も良い母親になる自信もなかった。



 幸哉は十一時過ぎに現れて、私の体調を確かめたあと父親と揃って出て行った。夫より余程馴染んでいる。美貌が潰えたところで人たらしの才能は衰えていないのだろう。父親が不承不承ながらも関係を認めたのは、幸哉を気に入っているからだ。


 幸哉は少し前に、今の方が生きやすいと零した。憐憫の視線は嫉妬のそれよりずっと交わすのが楽だと。私のような持たざる者には分からない心境だが、審美的治療を行わない理由だけは分かった。


 戻って来たらこれからの、この子と三人で生きていく話をする。一息ついて点滴のコードを払い、自分の昼食に向かった。

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