第18話

 幸哉が病室へ戻ってきたのは一時半を過ぎた頃だった。


「研哉を連れてったくせに、まだ見張ってるんだよ」

 煩わしそうに報告しながら窓際へ向かい、カーテンを引いて外を確かめる。


「まだ用があるんですかって聞いたら、これが仕事ですからって。あと、いつ帰せるかは言えないって。また違う刑事さんだったよ。何人いるんだろうね」

「見つける度に会いに行ってるの?」

「そういうわけでもないけど、気になったことは聞いた方が早いし」


 元通りにカーテンを戻し、一息ついて窓枠へ腰を預けた。


「お父さんが嘆いてたよ」

「なんて」

「昔は煩いほど賑やかで明るい子だったのに見る影もない、て」


 一瞬揺れた視線をごまかすように目を細め、笑みを作る。


「そんなの、三十過ぎた娘に期待されても」

 意外というわけでもないが、実は身内が一番地雷を踏むのかもしれない。次は何を言い出すのか、幸哉の話をした記憶はないが恐ろしかった。


 伸ばした手に応え、幸哉は傍へ来て私の抱擁を受け入れる。頭を撫で下ろす少し固い感触は右手のものだ。


「お願いがあるんだけど」

 腹の辺りで切り出した私に、うん、と上から短い肯定が降る。もう「なかったこと」にはできない。一つ深呼吸をして、なお後退りしようとする胸を窘めた。


「私と一緒に、二木の家を出て欲しいの」

 継いだ願いに撫で下ろす手が止まる。反応を確かめるのが恐ろしくて、額をすりつけたまま俯いた。


「あの人が帰って来たら離婚するから、私について来て欲しいの。どれくらい働けるかは分からないけど、あなたとこの子が不自由しないようにはするから」

「男らしいな」


 皮肉のように聞こえて、怯えつつ顔を擡げる。幸哉はサングラスを外し、合わせた視線を少し緩ませた。


「連れてってくれるんなら地獄でも行くよ。俺だけ蹴り落としてくれてもいいけど」

 いつもの幸哉らしい答えに、再び額を預けて安堵の息を吐く。

「断るとでも思ったの?」


 抱き締めた腕に力を込めつつ頷くと、馬鹿だなあ、と苦笑交じりの声がした。


 私はきっと、どれほど勉強して知識をつけても永遠に賢くなれない部分があるのだろう。それでも今は、幸哉の「馬鹿」が昔のように突き刺さらなくなっていた。ようやく少し、あの頃の私が癒えたのかもしれない。ゆっくりと髪を梳き下ろす愛おしい手に、安堵の息を吐いた。


 幸哉が任意同行されたのは、それから一時間も経たないうちだった。



 拒否できることは伝えたが幸哉は選ばず、例の初めて見る顔の刑事二人と病室を出て行った。不安で泣きそうな私を「すぐ帰るから」と宥めたが、五時間六時間と過ぎても一向に帰って来る気配がなかった。午後九時を過ぎたところで、もう大人しく待ってはいられなくなった。


 手帳のポケットから選んだ名刺は滝川のものではなく、淺井だ。今は、幸哉の「融通が利く」という評価に賭けるしかなかった。


 鳴らした携帯は三回ほどで途切れ、名乗る声が続く。


「あの、二木です。二木清乃です。夜分遅くに申し訳ありません」

 予想より切羽詰まって響いた声のせいか、受話器の向こうで少し間が置かれた。外で話をしているのか、遠くに喧騒が聞こえる。


「幸哉さんが、任意同行で連れて行かれたまま戻らないんです」

「捜査の一貫として必要なことなので、ご了承ください」


 電話越しの声は以前より少し硬く丁寧で、抑えたものだ。これから私がクレーマーと化すことを見越してだろう。


「いつ戻して頂けるんですか」

「それは、私の方からはなんとも」

「すぐ帰るからって、明日の薬も持って行ってないんです」


 もちろん予定時間を過ぎても半日以内なら服用可能なことも、過ぎれば翌日に飲めばいいことも分かっている。でも、不安を感じずにいられるわけがない。


「まだ戻せないのなら、せめて薬だけでも飲ませて頂けませんか。お願いです。これからすぐ、届けに行きますので」

「今はご自宅ですか」

「いえ、まだ病院です」


 もっと言えば、腕にはまだ点滴針が刺さっている。でも、こんなものは今すぐ引き抜いても構わない。責め立てられている幸哉の姿をちらりと思い浮かべただけで、痛みと焦燥が湧いた。


「私が伺いますから、寝ててください」

 予想外の返答に思わず、え、と漏れる。


「でも、それは申し訳ないので」

「絶対安静のあなたを呼びつけたと分かれば、彼も素直に応じてくれなくなるかもしれませんから」


 確かにその通りだが、こんな些事に一市民が公僕をこき使って良いものなのか。滝川なら首を横に振りそうな状況だ。まさかここまで融通を利かせてくれるとは思わなかった。


「分かりました、お願いします。遅くに、本当に」

「気にしないでください、これから行きますんで」


 さっきまでより幾分か砕けた口調で答え、淺井は通話を終えた。

 携帯を置き、ベッドを下りてボストンバッグのポケットを探る。引っ張り出した密閉袋の中に、更に小袋が三つ。泊まったり飲み忘れて来たりした時のために、と用意した三日分だ。でもこれを全て渡したら、三日間の拘束を許すという表明になってしまうのだろうか。


 任意で三日間なんて、刑法では認めていただろうか。もしかしたら、どちらかが「罪を告白」しない限り帰さないつもりなのか。未だ戻って来ない夫のことを考えると、それもあり得る気がした。淺井がどれくらい答えてくれるのかは分からないが、渡して終わりでは済ませられない。何も話そうとしない夫に諦めて幸哉を引っ張ったのなら、矛先が変わったのかもしれない。夫の発言次第で、幸哉はいくらでも不利になる。


 今日何度目か分からない溜め息をつき、腹を撫でる。今は淺井の到着を待ちながら、ただ祈るしかなかった。

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