第15話
前回会ったのは一週間ほど前か。都会なら事件に事欠かないだろうが、ここは田舎の一地方都市だ。普段は傷害や窃盗、交通事故の取り調べが多い。基本的に他の島には干渉しないが、選挙があれば手伝いに出たりはする。でもそれでは点数も検挙数も上がらない。だからまあ、変死から始まった今回の一件を事件にしたい思惑は理解できる。
うちの県が特別遅いわけではないだろうが、科捜研から鑑定結果が届いたのは今朝だった。どんだけ掛かってんだ、と淺井はぼやきながらメモ帳に結果を写し取っていた。
目下の課題は物的証拠である薬の袋と、二木の毛髪から検出されたワルファリンカリウムの扱いだ。
袋の内側からは三種類の指紋の他、リトドリン塩酸塩、コーンスターチパウダー、外側からはそれ以外に酸化チタンやポリマー類、色素が検出された。指紋の一つは二木のものと照合済み、あとの二つは残り三人のうちの誰か。恐らく清乃と研哉だと見ている。
リトドリン塩酸塩は産婦人科で処方される薬に使われる成分で、コーンスターチパウダーはラテックス手袋に使われるものだ。酸化チタンやポリマー類、色素は化粧品の成分で、洗面台から押収されたワンタッチタイプのヘアカラーの成分と一致した。
こちらは研哉が手袋をはめて薬の入れ替えをし、そのあとでヘアカラーを使用したと考えている。尤も、ゴミ箱から押収された手袋からはワルファリンカリウムを始めとした成分は検出されていない。入れ替えに使った手袋は他の場所で捨て、ヘアカラーは違う手袋で行ったのだろう。
といっても、その時着ていたシャツやスーツのポケットについていたパウダーの理由を「入れ替えに使った手袋を運ぶ時についた」と断定するのは無理がある。こんな理由を根拠に逮捕したら、法廷で弁護士にボコボコにされるのは目に見えている。その「捨てたかもしれない」手袋が見つかれば立証できるが、会合が行われたホールのゴミは既に処分されて焼却場にも残っていなかった。
それに、問題は二木の指紋だ。もし一時的に薬を入れ替えてワルファリンカリウムを飲ませたのなら、二木の指紋は『鎮痛剤』の袋の内側にしか付着しないはずだ。でも二木の指紋は『血栓症1mg』の内側にも、『血栓症0.5mg』の袋の内側にもついていた。
まあこちらは二木の毛髪から検出された成分と比較すれば説明は容易い。二木は、これまでに何度となく自分からワルファリンカリウムを飲んでいたのだ。理由は今年の健康診断で指摘された動脈硬化だろう。しかし動脈硬化としての受診記録は、どの病院にも残っていなかった。
動脈硬化と血栓症の症状は同じようなもので、処方される薬も変わらない。そのことを知った「病院嫌い」で「薬の知識も碌にない」二木ならどうするか。恐らく洗面台にある息子の薬を、自分が思い出した時に勝手に飲むだろう。飲み合わせによっては危険なことくらい知っていたかもしれないが、その重要性を分かっていたかどうか。確かに危険だが、飲み合わせれば即「死に至る」というわけでもないのだ。
聴取の結果、家族で二木の動脈硬化を知っていたものは誰もいなかった。もちろんそれを単純に信じるほどこちらも優しくはない。研哉が教え、その後「いつまでも死なない」二木に業を煮やし実行したとも考えられるが、それなら「薬を入れ替えた」説が揺らぐ。
アスピリンとアルコールの合わせ技でかなり酔ってはいただろうが、違いを知っている二木が見間違えるものだろうか。鎮痛剤と間違えたわけではなく、最初からワルファリンカリウムを飲むつもりだった可能性もあるのだ。
まあ、その辺の辻褄合わせは任意でするつもりらしい。
どちらにしろ、殺人計画は半年近く前にはできていたはずだ。犯人は以来ずっと千載一遇のチャンスを、遂行の瞬間を待ち続けていたのだろう。
とはいえこれはあくまで事件として取り扱うのならの話だ。どこかで小耳に挟んで勝手に飲んで自滅した事故なら、これほど迷惑な死に方もない。家の中を掻き回され家族の闇を暴かれた挙げ句の「何もありませんでした」だ。でも、それだけは避けなければならない。事故であってはならないのだ。
「こんな時まで色気のない話するなよ」
胃の痛い方向へ進んだ話に、御山は私の頬を撫でて引き寄せる。少し冷えた肌はそれでもまだしっとりと湿っていて、吸いつくように馴染んだ。
「他に、何かしたい話でもあるの」
「そうだなあ」
御山は私を片腕に抱いたまま、少し目を細めて煙を噴き出す。細い指先で灰を弾き落とした。
「中学の頃の話でもしてよ。聞いたことがない」
「別に、至って普通の女子中学生だった。聞いて楽しいようなことなんかしてない」
胸に突如湧いた動揺を押し込め、平静を装う。間違っていなかったはずの歴史が、一瞬で黒く塗り潰されたのが分かった。
「昔は純粋で純朴だったんだろうな」
「ひっどい言い草」
「だって、二十年後に不倫してる自分なんて想像もしなかっただろ」
「自分はどうなの」
反射的に言い返したあとで、まずさが追いつく。間接照明の安っぽい灯りを浴びながら、御山は黙って数回煙を吐いた。
「まあ最初から『こうなる』つもりで大人になる奴なんて、そういないよなあ」
理想の自分はきっと、一人の女を愛して結婚し家庭を持って子供を育てる、そんな男だったのだろう。私だって本当はとっくに「私を理解してくれる男」に見初められて結婚し、今頃は家庭と仕事を両立する人生を邁進しているはずだった。
「淺井さんは、どうだったんだろうな。まさかあの人の口から『本気』が出てくるとは思わなかった」
「確かに似合わないけど、熱病みたいなもんでしょ。放っとけばそのうち冷めて自分から笑い話にするよ」
「どうだろうな。まあ、この件が終わるまで接近禁止にはしといたけど」
御山はまだ長さのある煙草をにじり消す。爪が染まらないのは吸い方の違いもあるのだろう。でも体を起こしたのは、そんなものを確認するためではない。
「その先まで口を出す気はないよ。何か言われたら『もう諦めたと思ってた』でいいだろ」
「でもあんなの、どう見たって不幸にしかならないじゃない」
眉を顰めて言い返した私に苦笑し、御山はサイドテーブルのペットボトルを取りながら時計を確認する。今日は「休憩」で済ませるつもりなのだろう。私が小煩いことを言い過ぎたせいだ。
「幸せになるために不倫する馬鹿はいないよ」
御山は炭酸水を一口送り込んだあと、私を見ないまま言い放つ。含まれた牽制に分からないほど馬鹿ではない。先に出る、と向けられた背に何も言えず唇を噛んだ。
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