第10話
その晩、夫は銭湯を経由して帰宅した。証拠だの現場云々の捜査は昨日で終わり、今朝から帰宅して洗面所と風呂以外は使えるようになった。まあ第一発見者の夫にとっては、許可されたところで当分近づきたくもない場所らしい。私が見ずに済んだのは「見るな」と言える気遣いが残っていた夫のおかげではある。
許可されるまでの風呂と洗濯はこのまま実家に甘える予定だが、でもそれは私と幸哉だけだ。夫は随分前から実家には近寄ろうとしない。娘を返してくれと言われるのが分かっているからだろう。義父の死を伝えた時、父親は驚いたが偲ぶ言葉は発しなかった。今日は父親も聴取を受けたのだろうか。
「刑事に、俺が殴ったって言ったのか」
数珠の桐箱を取り出す背後で、夫は不穏な話を切り出した。
「言ってないし、そんなこと聞かれてない」
振り向かないまま否定を返し、箪笥の引き出しを閉める。ゆっくりと吐いた息が震えていた。
「そうか。やっぱりあそこにはクズしかいないんだな」
納得した様子で吐き捨てたあと、背中へ触れた手はそのまま背後から私を抱き締める。
「お前も、俺が本気じゃなかったことくらい分かってるだろ。病院に行くほどでもなかったんだし」
本気でなければ、病院へ行かなければ私の感じた痛みは大したことがないと言うのだろうか。滑り始めた手を引き止めると、片腕が喉へ巻きつき力を込めた。短く潰れた声のあとに咳が続く。
「まだ、張ってるの」
ようやく絞り出せた理由にも構わず、手は動き始める。どうにもできないまま目を閉じた。
いつまで経っても見えない妊娠の兆候に不妊を疑い始めたのは、結婚して二年が経つ頃だった。自分でも不安は感じ始めていたが、それより毎日電話を鳴らして出なければ職場まで押し掛けてくる義祖母に参っていた。自分だって子供ができず義父を養子で迎えているくせに、義祖母は「子供もできないのに仕事なんかしてんじゃないよ」と事務所内に響き渡る声で私を詰った。
相談した夫は検査に乗り気ではなかったが、義祖母への対処を求めると一転して許可した。すぐに産婦人科へ行き、その時点で受けられる全ての検査を受けた。そのあと医師に伝えられた結論は、「あなたには何も問題ありません」だった。
その結果に夫は無言を貫き、検査も拒否した。それだけならまだしも、義祖母を含めた周囲には事実と違う理由を伝えて回った。
同じベッドで眠るのを拒否したのはその時だ。「検査を受けるまでしない」と伝えた私にセックスレスの道を選んで以来、夫は四年ほど私に触れることはなかった。
再び触れるようになったのは申し入れた離婚が突き返され、退院した幸哉が共に暮らし始めてからだ。もちろん夫は私と幸哉の間にあったことは何も知らない。それでも過去の記憶を黙らせることができなかったのだろう。
布団に押し入って来た体を拒んだ時、初めて殴られた。それからはずっとこの調子だ。事件のあった夜は酔っていて、抗った私を殴ったあと罵りながら抱いた。
*
下腹部の鈍痛に目を覚ましたのは夜明け前で、頼る相手を選んでいる余裕はなかった。しかし起こした夫は、痛みを訴える私をじっと見据えるだけで救おうとはしなかった。叫ばなければ、あのままいつまでも固まっているつもりだったのだろうか。そこから救急車が辿り着くまで十分ほど、痛みに耐える私の傍では殺伐とした兄弟の会話が繰り広げられていた。争点は私と義母の間を行きつ戻りつして結局、結論に至る前にタイムアウトを迎えた。
切迫流産を言い渡されたのは事件前日、入院も勧められたが自宅安静と服薬を選んだ。事件当日こそ朝から忙しなかったが、そのあと二日はホテルで横になれた。それで張りも収まったからと油断して横にならず過ごした昨日が悪かったのだろう。この時期の流産は対策不可能とはいえ、ベッドで安静に過ごせば流産率が数分の一まで減少するという説もある。
「なんで言わない方に振り分けたの」
「ごめんなさい、心配されると思って」
「余計心配する結果になったけどね」
幸哉は一息ついて、ぶらさげられた点滴のボトルを見上げる。
「まあ、これで通夜と葬式を欠席する正当な理由ができたか。研哉も医師には逆らえない」
その分、安定期までは隠すつもりだった妊娠も知れ渡ってしまう。不妊だと信じ込んでいた周囲は何の疑いもせず祝うだろう。夫には針の筵だ。
「あんな男のために、君が喪服を着る必要はないよ」
その男はどちらのことを指しているのか、二人ともか。
幸哉は夫に「お前は親父と一緒だ」と、同じように私を見捨てるつもりだったのだろうと言った。夫は、一緒にするな、俺は違うと否定して、幸哉の指摘を馬鹿げた混同だと振り払った。まあ確かに、幸哉には相応しくない論調ではあった。でもあの時、夫が迷っていたのも確かだ。
「君の代わりは務まらないだろうけど、大人しく働いてくる。だから縦の物を横にもしない勢いで寝てて。動くようだったら導尿頼むよ」
「それだけは嫌です」
幸哉は私の返答を聞き遂げて、サングラスを掛ける。パーカーの前を半分ほど閉めたあと、外出用の杖を支えにやおら腰を上げた。
「あ、数珠の場所」
「分かるよ、大丈夫。数珠も靴も、ハンカチの場所も全部分かるから。甘やかし過ぎは毒だよ」
幸哉はいつものように含みのある答えを返して笑う。唇の、歪な縫い目が白く光った。
「ごめんなさい。でも、不安で」
呟くように口にした「不安」は、何もできないと心配しているのではない。
何もできなくなった私を捨てて「取り柄のある」誰かを、例えば持てる才能を発揮して今も自分の道を突き進み続けている滝川を選ぶのではないかと恐れているのだ。外見の美醜などまるで問題としない幸哉を惹きつけておけるものを、今の私はどれほど持っているだろうか。
「骨抜きにしてから悔やむつもりなの?」
なるつもりがないから、平然とそんな言葉を口にできるのだ。触れても抱かれても、妊娠した今ですら、まだ少しも掴めた気はしない。それこそ毒でも食らわせない限りは「私のもの」にはならない男だ。
「帰る気が目減りしてくなあ」
じっと見据える先で、幸哉は苦笑する。サングラスの上から覗く左の眉が、困ったような角度を作った。
伸ばした手に応えてベッドへ腰を下ろし、逆らわず私の傍らに体を崩していく。点滴のコードを払って横を向き、包むように抱き締めた。
「このままだと、俺はほんとに駄目になるよ」
胸の辺りで少しくぐもった声が零す。なってしまえばいいと思う私は、もう抜け出せないところまで来ているのだろう。私がいなければ何も、靴下一つ履けないような情けない男になればいいと願っている。
「君は、それでもいいって言うんだろうけど」
ブリッジをつまんで引くと、サングラスは抵抗なく外れた。諦めた様子の幸哉は、私を一瞥してから顔をこすりつける。長い欠伸が布越しに肌を温めた。
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