第11話
響いたノックの音に幸哉はぼんやりと目を覚ます。名乗る声を遠くに聞きながら、猫のように顔をさすりながら体を起こした。
カーテンの向こうから現れた淺井は、まだ半分眠っているような幸哉を見て、あ、と短く発す。続いて入ってきた滝川も同じような反応をしてカーテンの向こうへ退いた。
「朝が早かったので、ちょっと寝てたんです。でもまあ、もう起きて行かないと」
幸哉は独り言のように話しつつ、腰ポケットから携帯を取り出す。時間を確かめたあと、また戻した。
「それで今日は、絶対安静のところにまで押し掛けるほどの大事ですか」
寝ぼけているせいか意図的か、幸哉はサングラスを掛けないまま淺井を見据える。
「すみません。二、三お伺いしたい事ができまして。先生にも言われましたし、なるべくお体に触らないよう手短に済ませますんで」
淺井は厳つい体を申し訳なさそうに縮めながら詫びた。夫には随分いけ好かない相手と映ったようだが、それもこれも仕事なのだから仕方ないことだ。パーカーの裾を少し引くと、幸哉は一息ついてサングラスを掛ける。
「また別々に聞くんですか」
「ええ、お願いします」
淺井の返事を聞きながら徐に腰を上げ、杖を握った。
「車で来てますよね」
「ああ、はい」
「じゃあちょっと、車と滝川さん貸してください。着替えてホールに行かないといけないんで」
平然と要求する幸哉に淺井は一瞬固まったあと、カーテンの外へ視線を流す。
「じゃあ、それでお願いします」
アイコンタクトを済ませ、すぐに了承を返した。幸哉は数歩足を進めたあと、思い出したように振り向く。
「動いたら」
「分かってます、大丈夫なので行ってください」
躊躇いなく口にしそうな用語を慌てて塞ぎ、送り出す。幸哉は薄く笑いながらカーテンの向こうへと消えた。その先は滝川と二人。幸哉は、私を試しているのだろうか。
今にも焦土と化しそうな胸裏を鎮め、視線をやる。残されたのは、恐縮した様子で突っ立っている淺井だ。
「あの、長椅子に座られたら」
「ああ、いえ、さっきまで煙草吸ってましたんで、ここで」
傍で噴かされるならともかく臭い程度ならなんともないが、気遣いなのだろう。淺井は改めて詫びながら、部屋をぐるりと見回す。
「こっちの棟は綺麗なもんですね。渡り廊下越えたら別世界で驚きました」
「本館の方はかなり古いですもんね」
「ご自宅からは結構離れてますけど、これで選ばれたんですか」
「いえ、この病院だと幸哉さんとまとめて通えるので便利なんです。掛かりつけがここなので」
総合病院特有の待ち時間には閉口するが、予定が一つに纏まる点はそれ以上に魅力がある。幸哉を一人残しての外出はできるだけ避けたかった。
「ちょっと無神経なことを伺うかもしれませんが、ご了承ください」
丁寧な前置きのあと、淺井は私を見る。頷くと開いたばかりのメモ帳へ視線を落とした。
「先程、先生から『切迫流産』という状態だと聞きましたが、そのことで受診されたのはいつですかね」
「先週の水曜日です。先生には入院も勧められたんですが家が心配だったので、その日は点滴したあと、薬をもらって帰りました」
「病院から帰ったあとに、洗面所にあったお義兄さんの薬の袋には触られましたか」
「はい。でも、毎日のことですけど」
淺井はペンの手を止め、視線を上げる。毎日、と小さく繰り返して確かめた。
「飲み忘れたり、飲み過ぎたりしてることがあるんです。だから毎日、残りを数えてます」
苦笑したのは、自分でも執念い行為だと分かっているからだ。毎日毎日、豆粒を数えるように確かめている。
「その時に、手袋を使われることがありますかね。ゴムというか、ラテックスの手袋。お宅にありましたよね」
「はい、あります。でも、どうだったかな。もう一年以上続けてることですから、覚えてません。掃除の前にもしかしたら、つけたまま数えたこともあったかもしれません」
「つまり、最近は手袋では触ってない、ということですか」
「はい」
「その手袋は、他の方は誰か使われますかね」
メモから滑った鋭い視線に一瞬たじろぐ。何もなければ気のいい男だろうが、人を疑うのが仕事だ。抜かりなく粗を拾おうとすれば、自ずとそうなってしまうのだろう。
「多分、主人が毛染めの時に使ってると思います」
「亡くなった二木さんやお義兄さんは」
「義父はそういうのは煩わしいと思う方ですし、幸哉さんは、つけられないんじゃないでしょうか」
視線を外して答えたあと、小さく詫びが聞こえた。
「話を戻しますが、その『飲み忘れ』『飲み過ぎ』に気づいたのはいつ頃ですかね」
少しの間を置いて、淺井は切り替えるように次の話題を口にする。
「結構、前だったと思います。少なくとも半年以上は。それで分かりやすい工夫をするようになったので」
「それでも続きましたかね」
「そうですね。その辺は全く気にしないというか、適当なんです。飲んでも飲まなくてもどうでもいいと思ってるみたいで」
苦笑交じりで答えたそのどれが引っ掛かったのか、淺井は再びメモに何かを書きつけた。居心地の悪さに、点滴のコードを無意味に整える。
「失礼なことを伺いますが」
「はい」
「お腹におられるのは、ご主人のお子さんですか」
前置きの意味もなく、眉根が寄るのが分かった。見据えた先で淺井はきまり悪そうに項を掻いたが、視線の質を変えた訳ではない。
「それは、捜査に関係あるんですか」
「すみません。でも二木さんが亡くなった理由が殺意によるもので、親子の問題ではなく兄弟の問題だとしたら、何よりも大きな動機になるんじゃないですかね」
少し目を細めるようにしてこちらを眺める顔は、笑っているようにさえ見えた。まあ、こんな仕事を続けていられるほどには図太いのだろう。周囲がどれほど変わってもびくともしなかった滝川には天職か。
「どうでしょうか。二人とも誰の子供か知りませんけど」
まともに返す気も失せて、嘘になりきらない程度の嘘を投げ返す。夫は分かっているだろうが、正式に告げたわけではない。幸哉も似たようなものだ。
「あなたは、分かってるんですか」
「はい。でも父親にすら教えていないことを淺井さんにお教えするつもりはありません」
拒否を返すと、淺井は弱った様子でしきりに額をさする。撫で上げられた髪が少し崩れて、狭い額へ落ちた。
「分かりました。話を変えますんで、この件は気が向いたら教えてください」
長い溜め息のあと諦めた口振りで結論を出す。思わず浮かべた笑みにまた額をさすった。
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