第4話
幸哉はおかかと昆布の佃煮、明太子の中から最初に明太子を選ぶ。
「好きなの、どの順番ですか」
「明太子でおかか、昆布かな。まあ、どれも好きだけど」
少し薄めに握った頂点の一つが口の中へ押し込まれ、折り取られるようにしてなくなる。問題なく収まった様子に安堵して、また腕へ触れた。
「好きなものから食べるタイプなんですね」
幸哉は二口目を口へ運びながら頷く。無事に明太子へたどり着けたらしく、美味しい、と言った。
「最後まで残しとくの」
「どちらかと言えば、楽しみは最後まで取っておきたい方ですね」
「だから貧乏くじ引くんだよ」
長くなりそうな話にベッドへ腰を掛ける。幸哉は少しだけ奥へ動いて私の居場所を作った。
「動機は邪だから問題ないって言いませんでしたっけ」
「研哉のことだよ」
予想外の返答に思わず視線を上げる。しかし横顔は応えることなく素知らぬ様子で二つ目の角を口へ収めた。恐らくこのまま穴が空くほど見つめていても、なんともないだろう。相変わらず優雅に瞬く左目の縁には生え揃った睫毛が庇を作っていた。
「俺が好きなら、言えば良かったのに」
再び見据えたが、横顔に動揺は浮かばない。まあそれくらいでなければ、こんな台詞も吐けないだろう。
「言ってどうにかなるようなモテ具合じゃなかったと思いますけど」
「まあね」
幸哉はあっさりと認めて鼻で笑い、次の一口を押し込む。
なんとなく居た堪れない気分になって触れていた手を離すと、ようやくこちらを向いた。
「怒った?」
「いえ、なんとなく居た堪れないような気分になって」
凡人の私は、視線一つ受け止めきれずすぐに逃れてしまう。不意に干上がるようなあの感覚を喉に得て、少し押さえた。
「せめて、結婚式の時に言ってくれれば良かったのに」
残り三分の一ほどになったおにぎりを置き、幸哉は汁椀を引き寄せる。シリコンのスプーンで数度かき混ぜたあと、揚げと小松菜を上手に掬い上げて口へ運んだ。
吸い物と同様に、味噌汁にもこぼれにくいようにとろみをつけている。粘度のある味噌汁なんて作るのは初めてだったが、温かさを保ってくれる点ではいいかもしれない。
「好きだったのは昔の話ですし、さっきから無理なことしか言ってませんよ」
パーカーの袖越しに感じる腕は細くて固い。昔から細長い人だったが、ユニフォームから伸びる手脚は瑞々しく引き締まっていた。
「でも言ってたら、連れて逃げるくらいのことはしてたよ」
なんの躊躇いもなく酷な言葉を口にできるところは、変わっていないのだろう。昔も今も、私には少し毒が強い。
「この家で女が幸せになれるわけがない。研哉が好きならどうしようもないけど、俺が好きだったなら『逃げようか』が通じたかもしれないでしょ」
淡々と続く毒に、少しずつ不確かな心地になってくる。これまで信じていたものや足元が揺らぐような感覚だ。私が大事に守り続けていたものは、手放せなかったものは何だったのか、忘れてしまいそうになる。
「来てた女性には、全員通じてたと思いますけど」
老いも若きも関係なく、あの場にいた女は幸哉ばかりを見ていた。母親すら惚けたように見つめていて苦笑したほどだ。式の間も披露宴へ移ったあとも、主役はずっと幸哉だった。友人達は私にカメラを渡して、幸哉と二人で写りたがった。私がどれほど着飾ろうと、天賦の美に敵うわけはなかった。
「君はどうなの」
素知らぬ顔で薄氷を割るような問いを投げて、冷めただし巻き玉子を口へ運ぶ。
「通じるなら、式の前に居場所を突き止めて押し掛けてます。ちゃんと、好きだったんです」
当たり前だが、最初から冷めきっていたわけではない。赤の他人同志が上手くやることの難しさくらい分かっていたし、それでもなんとか続けていこうとするのが夫婦だと信じていた。努力をすれば通じ合えると、誠実には信頼で応えられるものだと思っていた。でもそれこそが思い込みということもあるのだ。
「ごめん」
小さく聞こえた詫びに頭を横へ振る。一つ、溜め息が聞こえた。
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