2-1. 周子

第5話

 窓の隙間から滑り込んできた風に、小さくくしゃみをして洟を啜る。


「風邪引くぞ。閉めろよ」

「だったら煙草やめてくださいよ。淺井あさいさんのせいで、この車ヤニ臭くてたまらないんですけど」


 横目で睨むが、当の本人は堪えた様子もなく指先で灰を弾く。野太い指先に居座る平たく分厚い爪は、もうヤニで黄色く染まっていた。


「肺癌で死にますよ」

「好きなもんやめてまで長生きしたくねえよ」


 鼻で笑い、淺井は少し短くなった煙草を咥える。煙を外へ流すように窓の方を向いた。


「嫁と同級生なんだってな」

「はい。中学一年と二年、高校二年の時に同じクラスでした」


 それを理由に御山みやまへ直訴して、半ば無理やり担当についた。周りの舌打ちは聞こえたが、あのままだと碌な仕事も回されず腐っていくだけなのは分かっていた。女のくせに、が今も当たり前のように通用する場所だ。


「どんな女だった」

「中学の頃は明るくて賑やかでしたよ。よくいるじゃないですか、四六時中グループで行動してて、きゃあきゃあ煩い恋愛脳の子。頭空っぽで、毎日が楽しそうで羨ましい感じの」


 脳裏に浮かぶ彼女の、清乃さやのの姿はいつも一貫性がない。中学の頃の清乃は一人では行動できない典型的なグループ女で、ちょっとしたことで騒ぎ立て、授業が怠いと文句を垂れながら毛先を弄る、持ち物をピンクで揃えても何の抵抗もないようなタイプだった。


「休憩時間になると、髪の毛編み合うんですよ。何回してんだよって」

 赤信号に車を止め、目の前を行き交う市民を眺める。こうして見ている限りは何もなさそうな、平和な世の中だ。


「お前が好きじゃなかったのだけは伝わったわ」

 淺井は呆れたような口調で返し、わざとらしく肩を竦めるような仕草をする。ちらほら白の交じる癖毛が、潰れた耳の縁に被さっていた。何段だったか、以前は柔道大会に出ずっぱりだったらしい。だらしなく膝を開いたスーツの脚は、私の二倍はありそうな太さだ。季節にそぐわない、薄っぺらなグレーの生地を眺めて一息つく。


「まあ確かに、中学の頃は苦手なタイプでした。すんごい馬鹿だったし。でも、気づいたら同じ高校に進学してたんですよ」

 正直、驚いた。私の母校は、まあつまりは清乃の母校でもあるわけだが、県下一の進学校として有名だった。私の知っている清乃には相応しくない場所だった。


 でも、確かに清乃だった。入学式で見た姿は少し痩せて顔立ちも変わっていたが、私を見て安堵したように笑った。


「高校では別人みたいでした。成績もいいし、漢検一級取ってたりして。普通科だったのに簿記の資格まで取ってました」

「ただの変わりもんじゃねえの」


 淺井の答えを聞きながら、青へ変わった信号を確かめてブレーキを離す。次々と青へ変わっていく通りを一瞥して、少しアクセルを踏んだ。


「どうですかね。高校は一度しか同じクラスにならなかったから、なんとも言えないです。中学の頃よりかなり痩せて見た目も変わって、よくモテてましたよ」

「羨ましかったか」


 煽るように感じたのは、擦れきった私のせいかもしれない。この仕事を続ける限り、女はネタとして絶えずつき纏う。ウインカーを出して、ゆっくりと左折した。


「それなら、この仕事は選んでませんよ」

「まあ、そうだわな」


 淺井は鼻で笑い、ちびた煙草を灰皿の底でにじる。

 次を右、その次をもう一度右へ曲がった通りの奥から二軒目。そこが今回の現場だ。


 捜査用に提供された駐車場へ車を止めたあと、携帯を確かめる。御山から一通、『無理はするなよ』と届いていた。



 死亡したのは二木均、六十三歳。市内で事務所を構える司法書士だ。

 家族は長男の幸哉と次男の研哉、その妻である清乃の三人だ。妻の綾子あやこは二十六年前に首吊り自殺している。


 幸哉は昨年の一月、出張先のキルギスで爆発事故に巻き込まれ重症を負った。一ヶ月後に日本へ移送したあとは約十ヶ月の入院を経て退院、現在は自宅で過ごしている。世話はずっと、義妹である清乃がしているらしい。


 私も覚えている。幸哉は「絶世の美男子」として有名な男だった。芸能界からスカウトが来たとかモデルの誘いが来ているとか、そんな真偽のはっきりしない噂は枚挙に暇がなかった。どこにいても女が群がる、猿山のボスのような存在だった。清乃はそんな幸哉を追い掛けては一挙一動に騒ぎ立てる、煩いメス猿の一人だった。


「当日の朝のことから、順を追って話してもらえますか」

 私達の前に茶托を滑らせ終えた清乃は頷いて、視界を塞いだ髪を少し整える。右頬に殴られたような痕がある、と既に報告を受けていた。今も隠しているつもりなのだろうが、却って不自然だ。「どの男」に殴られたのか、今日はそれも明らかにするつもりだった。


「朝から、歯が痛いと言っていました。病院を勧めたら、忙しくてそんな暇はないと。鎮痛剤が欲しいと言われたのですが、ちょうどストックがなくなっていて」


「それで、どうしたんですか」

「主人が頭痛持ちなので、『持っていると思うから聞いてみてください』と言いました。そのあと、受け取って家を出たと思います」

「薬のやり取りについては、ご主人は」

「その時には何も。死因を知らされたあとに、朝に一シート渡しただけだと」

「一シートですか」


 確かめる隣で、淺井がメモに書きつける。私も手帳を数ページ戻って、もう一度司法解剖の結果を確認する。


 血中から検出されたものはアルコールとアスピリン、ワルファリンカリウム。死因は、出血作用を最大まで高める最悪の組み合わせが引き起こした脳出血だ。尤も風呂に浮かんでいた時はそこら中からの出血により、風呂の中も本人も異様な状態だったらしい。


「ご主人がその頭痛薬を使い始めたのは最近ですか」

「え、いえ、そんなことはないと思います。色々と試したみたけど他のものは効かないと言って」


 まさかそんなことまで疑われるとは思っていなかったのか、清乃は少し驚いた様子で頭を横へ振った。白いニットから覗く華奢な鎖骨を撫でるように、黒髪の束が動く。


「亡くなった二木さんは、薬は飲み慣れてましたかね」

 隣から淺井が投げた問いに、清乃はまた少し頭を横へ滑らせた。


「たまに頭痛薬や風邪薬は飲んでいましたが、慣れていたというほどではないと思います。病院嫌いな人で、その日も病院を勧めたんですが」

 鎮痛の面持ちで少し視線を伏せる。青白く滑らかな眉間に細い筋が走った。


 十四年ぶりか、久し振りに見えた清乃は随分と物憂げな、湿度の似合う女になっていた。もちろんこの件が一因なのは分かっているが、それにしても。


「その朝のやり取りは、お義兄さんはご存知でしたかね」

 続いた淺井の質問に引き戻されるようにして、清乃の目元から視線を戻す。


「いえ、幸哉さんはまだ寝ている時間だったので」

 ゆらりと花弁を擡げるように目を開いて、清乃は淺井を見た。ぬめるような視線に思わず隣を確かめる。淺井は何に納得したのか、頷きながら顎をさすっていた。少し膨らむ小鼻を確かめて、視線を戻す。


「それで、次はもう夜ですか」

「夕方、主人が車を置きに帰って来ました。支度をしたあと、私が送りました。二人とも同じ懇親会へ出席すると言っていました。帰ってきたのは、多分〇時半頃だと思います。タクシーの音がして、どちらかが帰って来たのだろうと」

「何故、どちらか一人だと思ったんですかね」


 再び挟まれた淺井の問いに一瞬、清乃の視線が横へ滑る。


「一緒に帰って来ることは、あまりないので」

 ちらりと横目で確かめた淺井はメモに何か書きつけて、ペン先でとん、と打った。


「その時、あなたはどちらに」

 少し眩しそうに目を細めて清乃を見据える。変わった視線の質に、何かしら手応えを得たのは間違いなかった。


「二階の主人の部屋で、主人が明日着るスーツを準備していました」

「ご夫婦なのに部屋が別なんですか」


 重ねた浅井の確認に、清乃ははっきりとした動揺を見せて俯く。


「いえ、あの」

 掠れる声は弱々しく、胸元で忙しなくさすり合わされる手は震えていた。


「大丈夫だから、落ち着いてください」

 掛けた声に清乃は長い息を吐く。それでも、私達を避けるようにして伏せられた視線は上がる様子がなかった。今は「そこ」を言及するべきではないだろう。


「帰って来た二木さんと会いましたか」

「いえ」

「じゃあ、帰って来たのが二木さんだと分かったのは何故ですか」

「主人は帰って来ると一旦、部屋へ上がってきます。でも義父はそのままお風呂へ行くので」


 俯いたまま、さっきより抑えた声で控えめに語る。触れてしまうのが早すぎたかもしれない。


「つまりそこで、二木さんは『飲んではいけない薬』を飲んでしまったわけですか」

「そうだと思います。洗面台の扉の裏に幸哉さんの薬があるのは、義父も知っていました」


 証拠品として持ち帰られた薬の袋は三つ、透明な密閉袋に『鎮痛剤』『血栓症1mg』『血栓症0.5mg』と分かりやすくペンで書かれていた。『鎮痛剤』と『血栓症0.5mg』は一粒ずつ、『血栓症1mg』は二粒ずつ切り分けられていたのは、あれが一回分の量だからだろう。


 二木はその1mgの二粒を誤って飲んでしまったらしい。まとめて置かれていたから、酔いのせいで鎮痛剤と見間違えたとも考えられる。それなら、これは「ただの事故」だ。


「お義兄さんの薬の管理は、あなたがされてたんですよね」

「はい。三ヶ月ほど前に左脚の太ももに血栓ができました。病院では『深部静脈血栓症しんぶじょうみゃくけっせんしょう』との診断でした。寝たきりというほどではないですが、やはり横になる時間が長いのが原因だと。最初は通院で注射をしていたのですが、落ち着いたので内服薬になりました」


 清乃は俯いたまま、幸哉の現状について話す。


「処方されていた薬や服用については、どの程度知ってますか」

「血流を良くして血栓を予防する薬だと聞いています。今は一日一回、朝の洗面時に1mgを二つ、0.5mgを一つの2.5mgを飲んでいます。色々と注意が必要な薬で、特に鎮痛薬との飲み合わせは問題が起こりやすいと。でも本人が鎮痛剤はないと困ると言うので、アセトアミノフェン系のものを頓服扱いで処方していただきました。一錠500mgだったと思います。あとは、眠る前に飲む薬として安定剤も処方されています。それは1mgのものです」


 淀むことなく服薬の状況を伝え終えたあと、清乃は零れ落ちた髪の左側だけを耳へ掛けた。蛍光灯の白い光は、胸元まで垂れた右側の束に照ったような艶を与える。少なくとも、私の二倍はある長さだ。清乃は、女である自分に苦痛など感じたことはないのだろう。そこだけはきっと、中学生の頃から変わらない。


「えっと、すみません。ちょっと戻って、ご主人の薬についてですが」

 淺井はペンの尻で額を掻きながらメモをめくった。


「念のために、主成分と量を教えてもらえますか」

 再び、あの視線で清乃を捉える。張り出した眉骨の下、奥まった場所から突き刺す視線は少し笑んでいるように見えなくもない。大体、普段でもなんとなくニヤついて見える顔立ちだ。


 清乃は久し振りに顔を上げて淺井を数秒眺めたあと、またゆっくりと伏せた。不意に湧いた苛立ちを、ペンのノックでごまかす。


「成分は多分、アスピリンだと思います。量は分かりません」

 清乃は大人しい声で答えたあと、細い息を吐いた。

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