第3話
彼の「一つ下の弟」のことは知っていたが、気にしたことがなかった。全く似ていないというその一点のみで、どうでもよくなったのだろう。
夫と義父は似ているが、幸哉は似ていない。母親似なのは、遺影を確かめる前から予想はついていた。亡き義母は、幸哉をそのまま女にしたような美しい人だった。はっきりと伝えられない死因と三十四の行年から、恐らく自殺だろうと思っている。原因もなんとなく当たりはついていた。
今年の三月に脳溢血で死んだ義祖母は、孫の嫁である私にすら嫉妬の牙を剥いて恥じない女だった。私の着ている服を引っ掴んでは自分の若い頃の方が似合うと言い、私の顔には自分のような品が感じられないと嘲った。九十も超えていたのに何の悟りも得たようにない姿は、もしかしたらこれが罰なのではと思うほどに見苦しく浅ましかった。
幸い私は同居を免れたが、義母は違ったのではないだろうか。
あの毒は、盆正月の訪問ですら帰宅後は寝込むほどきついものだった。しかもこの家には、毅然と立ち向かい助けてくれるような男はいなかった。義父も夫も呆れたような表情を浮かべて視線を逸らすだけで、一度たりとも義祖母の発言を咎めたことはなかった。それでいて私が抗議すれば宥めようとする、そういう男達だった。
「明日、会合があるから遅くなる」
夫は結局、義父から更に一時間遅れで帰宅した。いつも通りジムに寄って帰って来たのだろう。仕事が早く終わっていたとしても、まっすぐ帰って来たとは考えにくい。
「晩飯はいらない」
スマホ片手に、こちらを向くこともなく事務的にちらし寿司を処分していく。味の感想など、もう長く聞いたことはない。
「そう」
小さく答えて、淹れたばかりの緑茶を置いた。
ネクタイを緩めた襟元からは、引き締まった首が伸びている。デスクワークには不必要な筋肉は、埋められない差に違う男を目指した結果だろうか。
夫の顔には削り出したような深い彫りも、物憂げに動く幅広の二重も、尖った顎もない。浅い彫りと細い鼻筋、少し吊った一重、薄い唇。造作は地味だが、別に十人並み以下というわけではない。事務所で初めて見た時の感想は「予想外」だった。目鼻立ちから受ける冷ややかな印象は、インテリを装うのに一役買っているだろう。
まあ、冷たいのは印象だけではなかった。最初から見抜けていれば絆されもしなかったし、ましてや結婚など。
不意のブザー音に思考を断ち、廊下を回って隣へ向かう。隣座敷なのだから傍らの襖を引けばすぐなのだが、なんとなく兄弟を会わせたくなかった。
「ごめんね、呼び出して」
戸口から顔を覗かせた私に、幸哉は拳を擡げる。
「悪いんだけど、コーラ買ってきてくれないかな」
「ああ、はい」
近づいて手を差し出すと、少し温もった百五十円を落とした。
「缶でもボトルでもいいから。お釣りが出たら駄賃にして」
駄賃、という懐かしい響きに笑いつつ引き受け、テーブルへ置かれた手に触れる。
あどけなくも見える丸い指先には、形の良い女爪が嵌っていた。ひんやりとした肌が私の熱を吸い取っていく。火傷の後遺症として体温調節に問題が出ると聞いたが、これもそのひとつなのかもしれない。
傍らに置かれた塗り薬は皮膚を柔らかく保つものと痒み止め、だったか。頬に走るミミズ腫れを酷くしたような盛り上がりは、「
「毎日飲むなら、冷蔵庫に追加しときますけど」
「いや、いいよ。明日はポカリの気分かもしれないし」
気まぐれな答えに納得して、そのまま部屋から「おつかい」へ向かった。
*
翌朝、部屋を覗くと幸哉はまだ眠っていた。ニット帽は深々と被ったままだったが、半袖シャツの下からは木肌のような腕が伸びている。腰を落としてそっと触れると、気づいた様子で薄く目を開けた。
「おはよう、何時?」
「おはようございます。八時です。ごめんなさい、何時に起こせばいいのか聞くの忘れてて」
「大丈夫、ちょうどいいよ」
幸哉は欠伸を噛み殺しながら答え、猫のように顔をさする。痒いのだと気づくまで少し時間が掛かった。
身支度は見守らない方がいいような気がして、カーテンを開けに向かう。明るい日差しを確かめ、換気のために少しだけ開ける。途端に滑り込んだ風はレースのカーテンを揺らし、奥へと流れ込んでいった。
振り向く頃には幸哉の身支度も終わり、車椅子へ体を移し終えていた。
「御飯食べられそうだったら、声掛けてくださいね。台所にいますから」
「分かった。ありがとう」
幸哉は頷き、左手一本で器用に車椅子を繰って廊下へ出る。
折れていたのは頭蓋骨と左肩、左骨盤と腓骨の四箇所。固定のために使われていた金属パーツは全て二月ほど前に抜釘された。リハビリは抜釘より早く、始めて三ヶ月ほど経つが未だ成果らしきものは見えない。筋肉と神経系が回復したらと医師は言ったが、どの程度まで回復できるのかは保証されなかった。
一番歯痒い思いをしているのは幸哉自身だろうが、愚痴を聞いたことも八つ当たりを受けたこともない。話したところでどうにもならないと諦めているのだろうか。
一息ついて、握り終えた三つ目のおにぎりを置く。おにぎりなんて握るのはいつぶりか、忘れていなくて良かった。
「朝ごはん、もらえるかな」
「はい。運びますね」
戸口から掛けられた声に、洗い終えた手の水を払う。部屋へ入る車椅子の背を眺めながら、盆に朝ごはんを載せた。
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