第2話
十四歳の私は、確かに頭からっぽで何の取り柄もない馬鹿娘だった。勉強もせず部活も適当、趣味は友達との恋話。今より十キロ近く太っていたが、見た目を整えるより夢中になっていたことがあった。彼の、幸哉のことだ。
通っていた中学には、私と同じように幸哉に夢中な一群がそこかしこにいた。各々が幸哉の情報をハイエナのように探り、暴き、隠し撮りをして共有しあっていた。理系トップの二年九組、バスケ部、誕生日は十一月十日、血液型はA型。住所はもちろん、父親の会社や違う高校に通う一つ下の弟がいること、母親を喪っていることまで押さえていた。
当時の私達に悪気はなかったが、大人になって顧みるととんでもないことだ。「好きだから」とか「ファンだから」とか、そんな一方的な好意で全てが許されると思い上がっていた。言い訳はできない。そんなことも分からないほどに馬鹿だったのだ。
初めての対面はその年の七月、私は幸哉の、この家を訪問した。お祖母さんが出ることが多いと聞いていたが、出てきたのは本人だった。緊張と興奮で舞い上がった私は名乗りもせず、総体頑張ってください、と手元の袋を差し出した。スポーツ用品店で小一時間、迷いに迷って選んだスポーツタオルだった。
幸哉は何と言って受け取ったのか、感極まって泣きそうになっていた耳には聞こえなかった。しかしそのあと気怠そうに尋ねた「上がっていく?」は、はっきりと聞き取れた。
ちらりとも迷わなかったが、これで周りを出し抜けるとか、そんなことも思わなかった。ただ近づけるのが、話せるのが嬉しくて馬鹿丸出しでついていった。そして二階の南西の、今は私の部屋となっている座敷で初体験を済ませた。
幸哉はぼんやりとベッドに居座る私に、まさか付き合えるとは思ってないよね、と切り出した。何も考えてない、取り柄もない私のような馬鹿の価値は処女くらいなもので、でもそれは今失われたからもう何も残っていない、とそんなことを続けた。
――それとも何か、俺に付き合いたいと思わせられるほどの取り柄があるの?
少し細められた目がぞっとするほど冷たくて、頭を横へ振った。
以来、幸哉を追い掛け回すのはやめた。周りには冷めたと適当な嘘をついて、本当のことは誰にも言わなかった。
そのあとの流れはまあ、分かりやすいものだ。勉強を始めて幸哉が卒業したばかりの高校へ入学した。漢検や英検、簿記は在学中に取った。見た目を磨くことにも目覚めてダイエットとアイプチでの二重づくりを始めた。大学時代は資格取得とバイトに明け暮れて、貯金ができると美容に費やした。整形は一度、大学二年の時に二重にしてアイプチ生活から脱却した。何の取り柄もないと嗤われた十四の私は、大学卒業時には「才色兼備」と呼ばれるまでに成長していた。
就職活動先リストに義父の事務所は入れたが、狙い撃ちしたわけではない。ちらりと掠めはしたが、あくまで就職活動先の一つとして履歴書を送り面接に臨んだ。ただ、出揃った内定の中から選び取った理由に幸哉がいたのは確かだ。今なら違う評価をしてもらえるのではと、そんな淡い期待を抱いてはいた。
でも蓋を開けてみれば、幸哉は大学卒業後そのまま東京で一般企業に就職し、帰って来る気配はまるでなかった。そして事務所を継ぐらしい次男が、面接に現れた私に一目惚れをしていた。
*
何もかもを手放しで喜べるような状況ではないが、それでも退院はめでたくはあるだろう。夕飯にはささやかな祝いとして、ちらし寿司を作った。
「ごめんなさい、座卓では食べられないの忘れてて」
恐縮しつつベッドテーブルへ盆を置いた私に、幸哉は頭を横へ振ってリクライニングの角度を変えた。
スロープや水回り、手すりやベッドを揃えて完璧と思っていたが、食卓が座卓なのを忘れていたというオチだ。居間は隣だが、高低差のある乗り降りの手伝いは一人ではまだ心許ない。でも今からダイニングセットの購入を言い出せば、義父がいい顔をしないのは分かっている。完全に私の失策だった。
「気を遣わないでいいよ。俺は一人で、ここで食べる方が楽だし」
私より余程その辺りは分かっているのだろう、幸哉は慮るように返した。
「じゃあ今日は、私もここで一緒に食べてもいいですか。ささやかだけど退院のお祝いだから」
幸哉は気づいたように鉢のちらし寿司を確かめたあと、少し笑って頷く。左側だけでも感情を伝えるのに不足はない。私は安堵して自分の盆を取りに向かった。
退院祝いのことはそれとなく伝えていたが、義父も夫も生半可な返事のまま、結局六時過ぎに『二人共遅くなる』と告げるメールが届いた。
「面倒くさいでしょ、色々と」
左でも問題なく使えるようになったスプーンで、幸哉は器用に錦糸卵といくらを載せた一部を掬い取って口へ運ぶ。少し上を向き、流し込むようにする食べ方だ。
「親父も
「いえ、あの」
取り繕おうとする私を気に留めず、頷きながら次の一口を多めに掬う。少し酢が効き過ぎたかと思ったが、口に合ったらしい。
「これから更に世話をしてもらう身分でこんなことを言うのもあれだけど、俺には構わないでいいよ。板挟みで潰れる姿は見たくないし、善意の施しを受けるのも好きじゃないから」
「いや、まあそんな、混じりけのない善意でもないんですけど」
テーブルへ置かれた腕に触れながら、本音を漏らす。失った利き手がどれほど生活を困難にするか、想像はできても実感は難しい。
擡げた視線がすぐに結びついて驚く。尤も、赤く引き攣れた右側から覗くものは義眼だ。
瞼の再建は最初に受けた手術だった。火傷で瞼がきちんと閉じない状況になっていたのを修正し、義眼を作った。薄っぺらな板の真ん中に、恋焦がれた鳶茶の虹彩が輝いていた。
「好きだったんです、昔」
「覚えがないな」
「遠くで見てるだけでしたから」
突然の告白にも全く動じないのは流石だろう。しかし私の姿はやはり記憶の片隅にも食い込んでいないらしい。嘘はすんなりと幸哉の中で事実になった。
指先を荒らすささくれをそっと撫で、小さく一息つく。痛むものがないわけではないが、これでいいのだろう。打ち明けたところで動揺しか生まない過去だ。
幸哉のスプーンは休む様子もなく、次の一掬いを口へ運ぶ。収めきれず右側から零れ落ちたものを、私は咄嗟に手で受けた。
「じゃあ、余計駄目なんじゃないの。俺の取り柄はもうこの有様だよ」
自嘲を返しながら、手のひらの米粒をつまんで口へ押し込む。肉色のビニールをしわくちゃにしたような右側が、蛍光灯の白い光を浴びて無機質に照った。
耳以外の再建手術は終わったが、形成外科の担当は機能を回復させるところまでだ。この先を整えたいなら美容外科の範疇らしい。
「それが、意外と大丈夫なんですよ」
「なんで」
「なんででしょうね。全然がっかりしてないし、今でも十分に綺麗だと思えるんですよ。顔じゃないところが良くなったのかもしれない」
いつからシフトが切り替わったのか分からないが、つまりは「そういうこと」ではないだろうか。
「だからまあ、動機は割と邪です」
「そっか。それなら遠慮なく世話になるよ。ご飯も美味しいし」
あっさりと主張を覆して、幸哉は私の介助を受け入れる。
「ああ、でもさっきの告白は研哉には言わない方がいいよ」
安堵でようやく動かせたスプーンが、また止まった。自分だけ箸にしなかったのはプライドを傷つけそうだったからだが、不要な気遣いだったかもしれない。幸哉は夫とは違う。
「研哉は、自分の惚れた女が全員俺に惚れてたのが最大のコンプレックスだから。多分まだ恨んでる」
さらりと溝を打ち明けながら、幸哉は汁椀へスプーンを突っ込んだ。あんかけに近い緩さの吸い物を掬い、口へ注ぐようにして啜ったあと満足した様子で頷く。
何も言葉を返せず、触れていた腕を少し撫でた。
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